駄文2018/03/11

・夕方のブレスト


 頼まれごとや、Accessの試作などをして過ごす。本も一つ読み終えて、夜はバイトして、今日がつつがなく終わる。脱線を防ごうとするよりは、さらに脱線していこうとすることで、興味が別のやるべきことへ到達したり、下手すると元のやるべきことに戻ってくるようで、特別に気負って集中しようとはしなくても良さそうだ。要は集中しなくても良い生活設計やスケジュールを組むということのほうが重要であるということか。完全に森博嗣「集中はいらない」の受け売りである。本を読むとすぐ影響されてしまう。


 一方で、日課に必要なものはほとんど職場において帰ることにした。家に持ち帰ってやろうとしてもできないことが多く、自宅には今まで使っていたMacbook Airがあれば十分そうである。


 どんどん自分に都合の良い状況を作っていく。アクシデントが起きてもその優位性を維持できるような余白も作る。すると突拍子もない思いつきにも、自分自身が対応できる。


 自分には生きていくための十分な素質や能力がない。また訓練も知識もないまま33歳になってしまった。であれば、それでも生活を維持できるような仕組みを組み立て続けることだ。という方向性自体は、概ね間違っていないような気がする。


 あとは「どうしたらいいか」という問いに答えがないこと。答えがない故に、個別の事案について、延々とそれを考え続けること。そこから、従来と違うことを試みると、大抵は失敗するけれど、それは新しい失敗なので、そこから何らかの学習を行うこと。


 ここまでは分かった。それでは、自分の理想の状況を実現・維持しうるスケジュールというものを、どうやって作っていけばいいだろう。さらに、そのペースを早めていくことが可能だとしたら、何を指標にして作業の効果と効率を上げていこうとするのが自分に合っているのだろう。


 例えば、今日を含めて一週間以上、イラストを投稿できていない。有料マガジン用のものも作成できておらず。当初思い描いていた進捗とはかけ離れている。そういうタスクが複数眠っていて、誰とも約束したものではないものの、後ろめたさがある。


 一時期は一日のうちにやる量というのをだいたい決めて、少しずつ消化できていたのが、最近はどうもおざなりになってきた。自らを監督し、強制力を働かせるということがどうも気に食わないこともあって、そうではなくて、自分のしたいときにしたいことだけをやっていきたいというワガママさが、相変わらず強い。


 しかし、「中動態の世界」にあったように、その「したい」という意志や「する」といった選択というものは、確固たるものなどではなくて、あくまで現代において用いられている言語の様式によって支えられた概念に過ぎない。自分がある行動を、厳密にしたいのか、あるいは厳密にしたくないのか、ということについては、必ずしも頑なな態度をとらなくても良さそうだ。


 良い気持ちになることをしたいということであれば、やらねばならないことを消化・達成できることにまさる喜びというものも少ない。その道程を妨げるものが、やらねばならないことの、とくに始まりの部分にある。道中でだんだんと疲弊が起こってくる場合については、これは方法論やもっと大きな括り、例えば体調管理などに問題が生じているというアラーム機能であるため、無視して乗り越えようとするべきではない。


 アラーム機能ということであれば、物事を始める際に発生するあの強烈な抵抗感というものも、元来はアラーム機能だったのではなかろうか。これから始める行動が、自分を傷つけるのではないか?徒労に終わるのではないか?快楽を獲得できないどころか、著しい消耗によって生活全体を揺るがすということはないだろうか?というアラームなのかもしれない。


 だとすると、このアラーム機能も、乗り越える壁のようなものではない。一つずつその警報をオフにするために、不安要素に対して丁寧に解答することが求められる。それにもしかすると、本当に無駄で徒労に終わる行動かもしれないということは、大いにある。


 では、そのアラーム解除のための行動を、具体的にどう行うべきだろうか?想定される事態や、漠然とした不安について書き出して、それについて自己解答することで、抵抗感が減るものだろうか?


 おそらくそれだけでは済まされない。不安への解答として、何らかの行動を前もって起こす必要があるのだろう。体の状態を変えたり、他のことに優先順位を見出して、それを行う(脱線ということになるだろう)ということ等について、自覚的に実行すること、そしてそれを抽象的な「技」として身につけることができれば、抵抗感の発生はそのままで、その撤去までの手続きと時間を短縮することができる。


 設備投資も効果があるかもしれない。PCを大きな画面のものにするだとか、ブックスタンドを買うだとか、そういうことは思ったよりも効果が大きい。これは身体に関するもの、姿勢や食事、運動についての改善において顕著な傾向であるように思われる。


 そういえば、自分がやりたかったことを忘れてしまうという悪癖があるのだった。せっかく買った小さいキーボードも、見えにくいところに置いて以来さわっていない。


 PCや携帯で、タスク管理をしていたけれど、どうも一覧性というか、操作が必要だというだけで、確認するのが億劫になる。これなら、やることをリストアップして、壁にでも貼っておいたほうが良さそうだ。


・夜のブレスト


 バイトを終えて帰宅。最近就寝時間が遅くなっているので、22時までには寝たい。


 タスクの一覧を紙に書いて職場に貼っておくというのは、やはり良い案であるように思われる。使っていないスケッチブックが家にあったので、鞄に入れておいた。明日の着替えも用意した。そういうつまらないことで、10分〜20分の過ごし方が変わったりする。


 なんとなくSNSを眺める時間を、Kindle読書にあててみたら数日で1冊読み終えることができたし、効率化というのとはちょっと違う意味で、時間の使い方を改善する余地もありそうだ。


 同様のことが出費にも言えて、具体的には買い食いと外食を減らしたいと思っている。主に精神が痛んでくると出費がかさむので、どうせなら本や設備のほうへ回せるように節約するというか、そういうことに時間とお金を使わないことが普通になるようにしたいと思う。


 自分の生活や行動が、もっと良いものになるかもしれないという可能性に賭けている時点で、自分自身のことを諦めていないのかもしれない。けれど、それが「劇的な改善」なのか「ささやかな改善」なのか、というところに意味の違いがあって、この場合は後者である。ささやかな改善というのは、それが何らかの良い結果をもたらすには、あまりにもささやかであり過ぎるということが、往々にしてある。


 それでも、わずかな期待をかけるという態度が「前向き」であると言われるならば、まあそれでも構わない。本人としては、もう全てに絶望しきって、全てを恨みまくって、もう何もしないで過ごそうというのも、かえって辛いので、意味がありそうだったり、意味には至らなさそうであったり、まったく意味とは無関係だったりすることを断続的にやり続けるばかりである。


 このブレストもその一環ではあるけれど、由無し事に思いを巡らせている間というのは、多少気が軽くなることが多い。それに、そこから具体的なアイデア(これもつまらないことだらけではあるが)を見つけて実践してみるということで、少なくとも去年以前よりは、ずいぶん生きやすくなったような気がしなくもない。

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