駄文2018/02/03

・一泊目にして泥酔


柄にもなく2時間半の遠出をして、見知らぬ土地で演奏して食事をいただく。したたかに酔っているので意識を失う前にブレストを完了させたい。不思議な縁で不思議なことが起こり続けてから、数えてみると10年弱になる。人生は自分の思うようには決してならないと年上の人たちが笑うので一緒に笑うしかない。



異常に恵まれているということと、異常にやる気がないということが相殺されてしまう。自分はどうしたらこの先も生き延びていけるのか全く見当がつかない。幸いなことにそういう時に逃げる先がカフェインか嗜眠なので、殊更に自己破滅的になることがないけれど、それくらいしか救いがない。



秀でたものを持たず、かといって月並みなこともできない人間に残された道は、なんだかよく分からないけど「いる」ということしかない。それが人間存在の(文字通りの存在の)最後の砦で、そこにすがるだけの気力を、今はどう維持するかということを考えていくしかない。



若い頃あんなにできていた絶望が、徐々にできなくなってきたということは、そこにはコストが発生していたということだと思う。もう自分自身を投げ打って、社会や境遇に対して異議を唱えることも、自らの巡り合わせに復讐しようとすることもできない。その元気がない。ただ惰性に従って、しかしその割にはずいぶん都合よく、流されながら生きている。



こんな人間だって、別に珍しいはずもなく、声をあげないだけで無数といるのだろう。その中に、特別恥知らずな個体がいたということにすぎない。くぐもったうめき声がいったい何になるものか。おそらくずっと先の未来において、自らの首を絞めることになるようなマイナスの要素しか予想できない。



だけど、もう、それでいいのだ。だいたいなぜその遠い未来において自分が生きていることを前提にできるのか。誰よりも気のいい彼が突然亡くなって、誰よりも期待をかけられていた彼女が姿を消して、そんな物語の全部終わってしまった後の、誰も読まないどころか頁すらない世界を、のうのうと生き延びていて、それがいったい何になるのだろうか。その観測点においては、もうモブの自分が生きていようが死んでいようが、登場人物にとってさえ、どうでもいいことなのだろう。



その「余り」の世界は薄暗い「自由」に満ちている。何をしてもいい。何を言っても構わない。何の意味も価値もないのだから。そういう虚無主義を経て、そこから帰ってくることができれば、そこにはゲーム(試合)の享楽が見出されているはずである。



どんな悟りを得ても、どんな諦念を持ち合わせても、ものを食べればおいしいし、足の小指を角にぶつければ痛い。そういうVRを楽しむために、今までの記憶の一切をいったん忘れて、完全にこの架空の世界に没入するという遊びをしているのだという発想は、すでに「シミュレーション仮説」という名前の付いた世界観ではある。



しかし、そのシミュレーションの主体が、はたしてこのゲームのような一つの独立した人間なのかは定かでは無いし、その主体は言葉と思想と肉体と、他者との関係性によって規定された人?格を持ち合わせているのか、どうも疑わしい。手で触ってはいけないボールを蹴り合うような、ずっと呪文を唱え続けないといけないような、自分の選択がまるごと相手の長考に委ねられるような、そういった不自由さ、不愉快さが、かえって愛おしくなるくらい、「ゲームの終了後」について考えることは心細いよ。



その主体・・・何と言えばいいのか、「本当の生き物」がそれ自体として目が覚めて、そいつは「いやー『人間』、面白かったー」とでも言うのだろうか。ずいぶんふざけた態度であるように思われる。しかしRPGのキャラクターに対してだって、我々はずいぶんと不真面目だった。誰かが死んで、それを生き返らせて、延々と苦役に処す。何の罪もない者を、ただそのように創造されたという理由で、苦しませることを「愉しむ」。



どうかこの世界の中の「神さま」とは別の、外側から参加してきた、本当の生き物、本当(嘘の階層が一つ以上は上がった何らかの状態)の主体には、せめて真摯な態度を求める。それが娯楽や暇つぶしでも構わないから、真剣に参加してほしい。そんなことは望むかどうかではなくて、前提としなくては、人間の方が真剣になれない。すでに救済される人間は決まっているけれど、自分たちがその「救われると決定された人間」であることを疑わずに生きていこうぜ!という宗派がキリスト教にあったような気がする。それに近い。



生きていくことが不安でも苦痛でも、そこに何の意味もなくてもいい。今言ったばかりだけど、別世界における救済だって、なんか突き詰めてしまうとどうでもいい。どうでもいいことばかりの中で、どうでもいいと自分で決めたことばかりの中で、それでも、人と会えば笑顔で挨拶するし、頼まれたことはできる限りやる。他愛のない会話だってしてみせる。気にくわないことがあれば怒ったり、怒ったまま尻尾を巻いて逃げたりする。



人間の考える「意味」とやらが、この(あるいは「その」)存在を包括できるとは考えたくない。人間の神経の束によって作り出されたことが世界そのものであって欲しくない。もちろん、その不十分さによって生じる余白は、感じることも、想定することも、計算によって可視化することもできないもので、それが世界のほぼ全体であってほしい。



その上で、砂つぶに描かれた無数の星座で羊の数を数えたい。首もないのに笑っていたい。

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