駄文2018/01/25

・しくじった


普段人と会話しないようにしている分、いざ話す段になると一方的に喋りすぎてしまう。数ヶ月ぶりにそれをやってしまい激しく落ち込んでおり、今後はより頑なに、人に話しかけるのはやめること。最悪でも一言で済ませること。



昨日またUnityのチュートリアルを再開したがなかなか手こずる。今日の晩にもう一度やってみようと思う。Accessは入ったPCは現職場に置かせてもらっているので明日再開する。



自分のやりたいこと、それも情熱を持たず、やってもいいと思うことだけをして生きていくにはどうしたらいいのかを延々考え続けているということは、そういうことを考えること自体に対しては、情熱を持っていると言えるのかもしれない。



では、例えば自分の生活の面倒を包括的に担ってくれる人が現れて、その人のためだけに何か作品づくりをするという生活でも、それは持続可能なのだろうか?



難しいと思う。金銭の授受が伴う場合の、単一の対象との関係性を維持できた試しがない。それでなくても、収入源をお互いの都合でいつ断たれるか分からない関係一本に絞るということはリスクが高すぎる(というかそれで痛い目を見たのだった)。



また、どんな相手であれ、その要求に応えるということができそうにない。自分が勝手に何か作ったものを、後日的に評価されるしか手立てがない。いや、ある特定の条件(ジャンルやシチュエーション)を指定され、それに従うということは可能ではあるけども、それが相手の望む水準に達しているということが甚だ疑わしい。



自分でもイライラしてくるけれど、こういう性質に気付かない振りをして何かをしたとしても、すぐに破綻するので詮無い。欺瞞は暴かれ、期待は落胆に変わる。それくらいなら、はじめから何ができないかを、つまびらかにしている方がよっぽどいい。



・鑑賞と介入


などとごたくを並べずに、その「やってもいいと思うこと」に集中しろよと言われるような気がするけれど、残念?なことに、ごたくを並べることこそが、「やってもいいと思うこと」の代表格なので、やめろと言われてもやめることができない。



もしもそこに何か価値を見出す人がいたら、それはどちらかというと、その人自身が持っている何かに価値があって、それを呼び覚ましたに過ぎないような気がする。



素晴らしい作品があったとしても、その作品の鑑賞者がいなければ、その「素晴らしさ」は出現しない。作者と鑑賞者の共同作業によってのみ作品は成立する。もちろん、作者と鑑賞者が同一人物である場合もあるというか、その方が多い。



ただ、両者の関係が平等かというと、何とも言えない気持ちになる。自然の働きによって生じた物体に「素晴らしさ」を見出す人がいたら、作成者は不在である(少なくとも人間ではない)。したがって、鑑賞者の存在のほうが、「作品」の成立に必要不可欠であると言える。



いや、それは「作品」が鑑賞されるものであるという前提においてではないか?と思うけれど、作者は作成にあたって、その鑑賞者である任を解くことが許されない。ジャクソン・ポロックのようにペンキを撒くようにしても、一つのペンキ撒きから次のペンキ撒きの間に、あるいは最終的な絵画の終了時に、作者による作品の「鑑賞」が発生する。



舞踏を録画する場合であっても、体感が鑑賞を伴わないとしない限りは、その鑑賞をもって次の作品を作り出す舞踏者の、その一連の「動作」が作品である。人為的な作品は「鑑賞」を内在する。ただし、ここではその作品が素晴らしいかどうかとはちょっと別問題になっている。



ここまでいくと、作品とは、作者の鑑賞行為をさらに鑑賞するということになるか?いや、それは性質を省略しすぎている。鑑賞行為とは一線を画した介入行為が、作者によって行われているはずである。「完成です」と言って虚空を指差したとしても、その指差しは介入行為である。すると、介入と鑑賞を隔てるその「一線」とは何なのだろう?



「指差し」が他者によって行われたとして、その作者以外の鑑賞者による言及までが介入行為であるとしたら、作品とその創作活動は遍く広がってしまう。ここでは「作者による介入」は創作行為で、「作者以外による介入」は創作行為ではないと、一線を引くのが妥当なのだろうか?



その構造を認めると、逆転して「介入したものは作者」となってしまい、それは必ずしも(はじめの)作者の望むことではない。では、社会的な枠を超えた厳密性でいうところの「(はじめの)作者」とは?絵を絵たらしめて、歌を歌たらしめて、文字を文字たらしめて、人間によってその一切の創作的介入が開始されるまえの、原初の作者・・・そういうものを指して、ミューズ(詩神)だとかと呼んでいるのだとしたら、それは不可侵の存在であるとして、そのもう一つ先の段階からはじめて、自然に対する(はじめの)鑑賞から開始される連鎖であると考えた方がいいのだろうか。



荘厳な自然の御業にひざまづいて、チャントを繰り返した先祖の習わしを鑑賞し、さらに介入した(介入せずにいられなかった)子孫どもの子孫(そこには生物的な遺伝子によるものに限らない継承もあるだろう)として、今自分がくだらないことに時間と心を割いているのかと思うと、本当かな。と訝しがってしまうし、それが本当だからといって、自分の行いが正当化されるわけでもない。



・階層が低い


ただ、自分が何かを言おうとすること、何か余計なものを作るということは、介入行為という点では、他人に話しかけることと通じるということを考えている。他者と直接関わらないようにしているということで、その代償行為として創作をしているのであれば、これはちょっと、というかかなり情けない行いであるように思われる。



そこから何か価値が生まれるには、もう一つ二つ、階層が上がらないといけない気がするけれど、それがどうやって達成できるのかは、しばらく考えたいことではない。

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