十一章 蠢く影

 旅人たちが朝を待つことはなかった。


 揺れる焚き木を囲う六人の男女は、一様に憂鬱と恐怖を背負い、爆ぜる炎の中に希望を探すようだった。


 しかし薪は燃えるばかり。

 本来、ここにいるべき七つ目の影は、今やどこにも見てとることができない。


疾狗シイクは狡猾だが……」


 重い沈黙を破ったのは、ダウナスだった。旅人たちから返ってくるのは、ぴくりと肩を震わす反射だけだった。


 狩人は構わず続けた。


「しょせん獣だ。なんの痕跡も残さず人を攫うなんざできるはずがない」

「……」


 狩人の言葉は、ほとんど自分への暗示だった。


 長らく自然を闊歩してきた彼だからこそ、今回の事件は不可解に過ぎたのだ。

 不寝番ねずのばんを務めていたにもかかわらず、なんの異常も感じることはできなかった。


 獣はうまく音を消す。狩るものも、狩られるものも、生きるために自然とその術を身につける。自然から離れ、別の理の中に生きることを選んだ人間たちでは、そう易々と爪牙からは逃れられず、尾を見出すことはできない。


 それでもダウナスは〝旅団〟の一員として、人と自然の理に半分ずつとけこんできた。獣のたてる微かな音を聞き、においを嗅ぎ当て、残されたものを見出す――。


 しかし、今からおよそ十分前。

 眠った魔法使いたちの様子を見回っているときだった。


 ビチャスの姿だけが忽然と消えていたのだ。


 物音はおろか、抜け毛、におい、爪痕、なに一つ残されていなかった。

 ただ一つ、そこにあったのはビチャスのものと思われる血痕のみ。土に深く沁みたそれは、元来その場所が、濃い赤黒であるかのようだった。


 気配どころか、ビチャスの悲鳴一つ聞くことはできなかったというのに――。


 ありえない。

 ダウナスは頭を抱え、二日酔いに耐える酔漢のように唸った。


「……あんたじゃないのか」


 そこへただすような声をあげたのは、ウルだった。上目遣いに睨めつける眼差しが、はっきりと猜疑の色に暗かった。


 続く言葉は容易に想像できた。

 ウルが想像通りの言葉を吐いて寄越した。


「あんたが……ビチャスを殺したんじゃないのか」


 はっとしたように数人が顔を上げた。

 ダウナスはその間抜けな面へ、嘆息より先に嘲笑を投げてやった。


「そんなことをして、俺になんの益がある」

「金目のものを奪おうと……」

「小汚い旅装の連中からか? そんなのから追い剥ぐより、酒場の飲んだくれから財布をくすねるほうがよほど稼げるだろうな」


 ここでようやく嘆息を返した。


「バカほど疑心暗鬼になる」

「なっ……!」


 腰を浮かしたウルに、狩人はいちいち構わなかった。


「自然は広大だと理解しろ。もっと視野を広くもて。でなけりゃ、遅かれ早かれ自滅するぞ」


 その時、おもむろにデボラが顔をあげた。


「敵はもっと埒外のところにいる。そう言いたいの?」

「まあな。少なくとも、この中にはいないだろうさ」


 ウルは腑に落ちない様子だったが、それ以上噛みついてはこなかった。疑いが晴れたわけではなさそうだが、単に疲れているのだろう。慣れぬ旅はもちろんのこと、仲間が忽然と姿を消したのだ。無理もない。


「じゃあ、そうと見越した上で、どんな対策をとるべき? 見張りを立てても敵の姿は見えなかった。有効な罠はあるかしら」


「罠にかかる相手だとは思えん。もっと単純に迎え撃てばいい」


「単純?」


「ああ。今回は物陰で夜を明かそうとした。なら次は、見張りの目につく位置で全員が眠ればいいんだ」


「安全ではなさそうだけど……」


「このまま全員が狩られるのを待つよりいい。ただし、そうなると万一のときのために戦力が欲しいな」


 顔ぶれを見渡すと、俯いていたキルフがおもむろに顔をあげ、メズとロガンが逃げるように目を逸らした。ウルだけが挑戦的な睨みをきった。


「あんたらは魔法使いなんだろ。魔法ってのは、どんな力なんだ?」

「それぞれに得意な魔法とそうでない魔法があるわ」


 と、デボラ。


「そんなに多くの種類があるのか?」

「ええ。私は雷が得意。キルフは水。ウルは炎。ロガンは風ね。そしてメズは治癒」

「治癒? 傷を癒すのか?」

「ええ」

「とすると、とりあえず役立ちそうなのはキルフとロガンだな」


 頬をぶたれたかのようにロガンが面を上げた。


「えっ。殺傷力で言えば、班長やウルが最適じゃないですか」


 ウルの睨みがロガンへ転じた。

 バカどもの小競り合いは無視する。ダウナスは簡潔に告げた。


「雷や炎は熱が怖い。万が一森の中で火がついてみろ。みんな仲良く冥府行きだ」


 ロガンは露骨にうなだれ、大仰な溜息をはきだした。

 狩人はそれも無視し、空を見上げた。まだ薄暗いが、星はもう見えなかった。枝葉の間からのぞく遠方の景色は、やや白み始めている。じきに夜が明けるだろう。


「それはそうと、そろそろ動くぞ。もうじき日が射す。血のにおいのあるところに留まるのも好ましくない」


 肉食獣の中には、血のにおいに惹かれてやってくるものもいる。特に嗅覚に優れるものは危険だ。疾狗は言わずもがな、群れで行動する奪鼠ドウソも侮れない。森の中に限らず、水中にまで潜行して獲物をつけ狙う執念深さには、命まで奪われずとも確実に体力を消耗させられる。病原菌の感染も厄介だ。


 バカな魔法使いどもは「もう少し休ませろ」と反論するかと思われたが、仲間の消えた場所でわざわざ休みたい輩はいないらしかった。


 軋む身体をもちあげ、各々立ち上がった。


 足許は覚束ない薄暗がりの中。

 奪鼠や蛇の類には注意したいところだ。幸い旅人たちは厚い革のブーツを履いており、足許を覆うレザーパンツも、外敵からの攻撃を防ぐのに遜色ない装備と言える。彼らに知識はないが、彼らを扱う側の人間には、多少の用心があるらしい。


 ダウナスは焚火を消し、メズを中心に隊列を組ませる。

 先駆けは変わらずデボラと二人で務めることにした。危急の際には、キルフかロガンの力を借りたいのが本音だが、休息地を見出すまでに、不満を爆発されても堪らない。ロガンはメズと組ませ、冷静沈着なキルフには、ウルのお守りに徹してもらうことにした。


 森の中をふたたび歩みだすと、早速デボラから声がかかった。


「結局、一睡もしなかったの?」

「お互い様だ。お前らだって大して寝てないだろ」

「それはそうだけど、多少は休めたわ。でもあなたは」

「気にするな。今からひと眠りするわけにはいかん。安全のために動くべきなんだ」


〝陰〟に踏み入り、まだ一日。


 心なしかデボラはやつれて見える。持参した燻製肉は食ったようだし、水もまだ余っているはずだが、心身ともに疲弊しているのだろう。


 この女は、気を遣いすぎるのだ。今、こうして話している間にも、仲間への配慮に余念がない。時折、振り返って様子を確認し、嫌な顔をされると解っていながら「大丈夫?」などと声をかけている。奴らとは元々知った仲なのか、そうでないのかは知らないが、会話を巧みに誘導し、刺激を最小限に抑えているのも判る。


 樹枝のアーチをくぐり、後方に注意を促してから囁いた。


「お前こそ気を休めろ。ずっと緊張してたら、いざというときに足許を掬われるぞ」

「でも、いつ獣が襲ってくるかわからないし」

「じゃあ、獣にだけ注意を配れ。仲間のことは忘れろ」


 道中の葉をちぎり、先を口に含んだ。不味い。

 粘り気のつよい汁。酸味がきつく、微かに苦みがある。当たりだ。薬草として使える。さらに三、四枚もぎって進んだ。


「忘れろだなんて無理よ。私とあなた二人だけで旅してるんじゃないんだから」


 足許を注意深く観察しながら一瞥を返した。


「甘いんだ、その考えが。仲間は人じゃないと考えろ。窮地に陥ったとき、それを躊躇なく捨てられる意志をもて」


 重い溜息が返ってくる。


「どうして、あなたはそんなに人に冷たいの? 一緒にお酒を飲んだ時とは別人みたい」


「俺が冷たいんじゃない。冷たいのは自然だ。その温度に合わせなけりゃ、生き残ることはできん。人が変わったと思うのも、ここがそうさせるだけのことだ。まあ、どう思われようと構わんが」


 その時、ふわりと木漏れ日が落ちて肩に触れた。報せのように小鳥が囀った。いよいよ夜が明けた。

 こんな面倒な会話の間にも、自然は変わりなく営み続けるのである。


 しかしデボラは、言葉の意味が解せぬようだった。


「……ねぇ、なにがあったの?」

「あん?」

「どうしてあなたは人との交わりを避けるの。なにがそうさせたの?」


 ダウナスは舌打ちを返した。鬱陶しかった。


 この女、俺のときだけ遠慮がねぇ。


 触れられたくないところに、まっすぐ手を伸ばしてくる。躊躇がないわけではないようだが、忍耐は切らしているらしい。


「……お前には関係のないことだ。俺の過去になにがあったとしても、旅の方針は変わらん」


 そう吐き捨てたあとも、デボラはなにか言いたげだった。ダウナスは呆れとともに続けた。


「俺は寝てねぇんだ。疲れるから、黙っとけ」


                 ◆◆◆◆◆


 日が中天にさしかかる頃、一行はまだ森の中にいた。


 わずかに西へ進路をとり進んだ先は徐々に勾配が険しくなり、やがて足をあげるだけで、背に子どもを負ったような疲労に襲われるほどになった。そして、一睡もしていないダウナスより先に、メズが音を上げ、それぞれ樹木の根元で小休止をとるに至ったのである。


「ったく。気の弱い女はこれだから好かねぇ」


 口先では一人前の悪態をついたダウナスだったが、メズが先にくずおれなければ、彼のほうが倒れていたかもしれなかった。それほどこの道程は険しく、身体に淀んだ疲れは一行の身体を蝕んでいた。


 キルフとウルとともに、樹木の陰に腰を下ろした彼は「十分寝かせてくれ」と瞼を閉じた。ウルがなにか言ったように思ったが、そこはキルフが適当に宥めてくれたようだった。


 そうして狩人は短い夢を見た。

 若かりし頃の夢だった。


 顔のない大人たちがいた。それらはきっと笑っていた。親しげにダウナスの肩をたたき、脂したたる焼きたての肉を分けてくれた。


 禿頭の偉丈夫が肩を組んできた。


「お前は俺たちが守ってやる。なにがあっても必ず。だから焦ることはねぇ。きっといつか立派な狩人になるからよ」

「……うん、ありがとう」


 不安を胸に、若いダウナスははにかんだ。


 その一方で、夢現の狩人は憎悪に燃えていた。


 その言葉を信じるな。


 そう訴えていた。

 しかし、夢に憎み諭しても詮無いことだ。

 過去の情景はいつしか霞み、酩酊のような微睡があって――悲鳴が狩人を叩き起こしたのだった。


「きゃあああああッ!」

「落ち着いてメズ!」


 雪崩のように悲鳴が押し寄せ、疲弊した肉体はすぐさま覚醒した。


 恐慌状態に陥っているのは、向かいの樹木で休んでいたメズだった。その身体に群がる毒々しい紫の塊を、デボラが杖で払い落としていた。ロガンは狼狽し、口の中で意味不明の文言を繰り返していた。


「おい、ありゃなんだ!」


 ウルの怒声じみた声がとんだ。

 ダウナスはぴしゃりと言った。


「あまり大きな声をだすな。お前も襲われるぞ」


 すぐさま装束の中から、青々とした葉と小瓶をとりだした。小瓶の中身は茶色く汚らしい液体だ。葉にふりかけ、棒のような足で駆けだした。


「イヤっ! いやぁ、来ないでっ!」


 メズを襲っているのは、無数の小動物だ。まるで動く餅のようだが、全身を覆う毛皮は意外にも硬く、前面には突出した白い牙がある。


 大型獣の仕留めた獲物を横からかっさらう骸の簒奪者――奪鼠だ。


「そこの二人! どけ、邪魔だ!」


 デボラとロガンを追い払い、汚い汁の沁みた葉をメズの肌へ押し付けた。たちまち汁が滴り、発酵臭があたりを侵した。


 ダウナスの手許にまでかじりつこうとしていた奪鼠が、突如「キキッ!」と悲鳴を上げ、根を剥きだした土の上に転がった。


 それでも這い上がってくるネズミは、拳で叩き落とした。


「ロガン、キルフ、どっちでもいい! 魔法で一掃してくれ! なるべく血が飛ばないように頼む!」


 ロガンはまだ動揺しており、足許を駆ける奪鼠に怖気づいて、まるで役に立たなかった。


 一方、キルフはすぐに詠唱の文言を紡いだ。


「愛しき女神ヘロウよ! その懐に凍てつく炎で、くうを霜に、葉を飾りに、時を無限に彩り給え!」


 刹那、掲げた杖がしろがねに煌めいた。


 土のうえを跳ねる奪鼠が、停滞する時の波に呑まれる。魔法使いたちの足許から、色が失せ、温もりが消えた。白銀の柱が次々とそそり立った。


 それでも奪鼠を駆逐するには至らなかった。キルフの得意とする魔法は、あくまで水だ。幾つかは氷の上を這い、なおもデボラ、ロガンに襲いくる。


「うわあああ! 来るなぁ!」


 狼狽した魔法使いは、地を這うネズミをその足でたたき潰した。黒々とした血がとび、草木を汚した。


「やめろ! 潰すな、バカ!」


 デボラもまさに踏みつぶそうとする寸前だったが、怒声に震え咄嗟に杖を払った。ネズミは払い飛ばされ、痛みに悶えてどこかへ逃げてゆく。残りもそうして蹴散らした。


 あとには魔法使いたちの荒い呼吸と、メズのすすり泣きばかりが残った。


 ダウナスは魔法の力に感嘆し、同時に無能な魔法使いを恨みさえした。奪鼠の血液を直接あびれば、ほぼ間違いなく病に感染するからだ。


 しかし幸い、血を浴びた者はいないようだった。


 メズの傍らに腰を下ろし、背中を優しく撫でてやった。懐から別の葉をとりだす。道中でもぎったあの不味い葉だった。


「これを傷口に押し当てておけ。できるだけ強くな」


 濡れた瞳が怪訝に見上げた。


「奴らは奪鼠。主に死肉を食うネズミだが、こうして生きている奴にも襲いかかってくる。群れでな。そして、厄介な病を運ぶ」


 臆病な女魔法使いの瞳が、いっそう厚い涙の膜を張った。狩人は目を逸らして続けた。


「安心しろ、そのための葉だ。本来ならきちんと調合しなくちゃいけねぇが、当てておくだけでも効果はある。気を強くもて。大丈夫だってな」


 頷きは返ってきたが、殊勝とはとても言い難かった。


 この女は気が弱すぎる。病はそこにつけこんでくる。奪鼠の病は死に直結するようなものではないが、発症すれば旅の負担になる。今後のことを考えると、気が重かった。


 狩人は疲れた双眸で一同を見渡した。


「とりあえず平地にでたい。すぐに動くぞ」


 重い首肯があった。各々が不満や怯えを抱えているのは明らかだ。だが、誰も反駁など口にしなかった。


 魔法使いたちは、窮地に陥ればおちいるほど、ダウナスを無下にできなくなっていた。


                ◆◆◆◆◆


 一行が平地にでたのは、それから二時間ばかりも経ってからだった。日はまだ高く、上空には鳥の影が和やかに弧を描いている。


 奪鼠の病が発症するとすれば、もう半日ばかりあとのことだろう。


 ところが、メズはすでに目に見えて弱っていた。暗い澱が、眼差しの奥に見えるようだった。


 しかしダウナスは、すぐには腰を下ろさせなかった。

 例のとおり枝や石を集めさせ、火を焚かせたにもかかわらずだ。


「おい、なんでまだ歩くんだよ。ここでいいじゃねぇか」


 一行の不満を代表するのは、いつもウルだ。デボラやキルフなどは、彼より若干冷静に物事を観察しているが、今回に限っては誰もが賛同していた。


 なぜならこの場所は、ひらけていて凹凸も少なく、休むにも謎の襲撃者を迎え撃つにも、とっておきの地形だったからだ。


 それでもダウナスは頑としてすすむ意志を示し続けた。


「私もウルに賛成。どうして火を焚いてまで進む必要があるの?」


 ウルに続いてデボラが訊ねた。

 ダウナスはそれを一瞥するだけで、すぐに視線を逸らした。

 すると、執拗な眼差しが追ってきた。デボラがいちいち正面に立って顔を覗きこんでくるのだ。


 狩人はこれみよがしに溜息をついた。無論、デボラは譲らなかった。

 不承不承ながら口をひらいた。


「……焚火は罠だ。敵をおびき寄せるためのな」


 誰もが怪訝にまゆをひそめた。

 狩人は唇を歪ませ、やや躊躇するようにしてから続けた。


「……敵は獣じゃないかもしれん」

「なんですって……?」


 誰もがデボラと同じ瞬きを寄越した。二の句は継がなかった。

 ゆえに沈黙を埋めるのはダウナスの役割だった。


「獣は賢い。自然の中において、俺たち人族は劣等種だ。だが、一切の物音を消し、痕跡も残さず獲物を狩れる獣などいない。あくまで本能に忠実だからだ。殺す術に長けた奴らはごまんといるが、痕跡を完璧に絶とうとする奴はまずいない」


「じゃあ、ビチャスは誰に襲われたの……?」


 恐れを噛み殺すように、メズが訊ねた。

 ダウナスは静かにかぶりを振った。


「たしかなことは言えん。ただビチャスの周囲を観察してみて、悪意や知性のようなものを感じた。罠はそれを試すための措置だ」


 それ以上は言わなかった。不確かなことは口走るべきではない。恐怖や不安をあおれば、士気が下がるだけだ。


「とにかく行くぞ。平地にでた以上は、次のポイントを見つけるのもそう難しくないはずだ」


 有無を言わせず、狩人は歩きだした。


                ◆◆◆◆◆


 予想どおり、次の休息地はすぐに見つかった。火を焚いた地点から、およそ半マイルのところに、倒木が周囲の木々をなぎ倒した平地があったのだ。


 魔法使いたちは、狩人に命じられる前から枝や石を集め始めた。


 ところが狩人は「焚火は必要ない」と空を見上げた。視線の先には、突きぬけるような雲一つない青空があった。


「今夜は月明かりの満ちる夜になる。満月も近いし、雲も風もそれほどないからな」


「月明かりがそんなに信用できるの?」


「ああ。影になってるところへ行かなけりゃ、充分見える。なにより、これ以上火は焚きたくない」


「どうして?」


 倒木に寄りかかる者や真っ先に寝入ろうとする者がいる中で、デボラだけが熱心に知識を吸収しようとしていた。


「さっき言ったとおりだ。敵は獣じゃないかもしれん。火を焚けば煙がでる。それを標にやってきた可能性がある」

「だからさっきの焚火が罠?」

「ああ、あっちにおびき寄せられれば、ひとまず安心して眠れる」

「調査はしないの?」


 臆面もなく放たれた言葉に、ダウナスは意外な視線を返した。


「……するつもりだが、不満はないのか?」

「仕方ないじゃない。このまま敵の正体も判らないまま襲われ続けるより、早急にかたをつけたいもの。〝陰〟に来ると決心した時点で、危険は承知の上よ」

「そう思ってるのは、俺とお前だけだろうがな」


 二人は同時に仲間たちを見渡した。デボラが苦笑し、肩をすくめた。


「……そうかもね。でも、解ってもらうしかない。生き残るためには、必要なことでしょう?」

「まあな」


 ダウナスは今にも潰れそうな瞼を一方下ろして、その場に座りこんだ。


「すまんが、一つ頼まれてくれるか?」

「ええ」

「見張り番を決めてくれ。俺は夜の調査に回る。そのために今は、すぐ眠りたい」

「わかったわ」


 デボラは微笑み、すぐに仲間たちへ向き直った。狩人はその背中に小さく笑いかけた。


「俺たち、こんな出逢い方をしなけりゃ、もっと美味い酒を飲めたのかもしれねぇな……」


                 ◆◆◆◆◆


 その夜、ダウナスはデボラに起こされた。

 まだ月が昇りはじめてから、間もない時間のようだった。


 メズとロガンはすっかり寝入っていた。ウルとキルフの二人が背中を合わせ、見張り番を務めている。


「悪いけど、ここは頼むわね」


 ウルは未だに二人へ好い印象をもっていないのか「死なんでくださいよ」とだけ返した。キルフは背を向けたまま「お気をつけて。ここは我々に任せてください」と頼もしかった。


 ダウナスはただ「行くぞ」と、デボラを促した。

 二人は、日中通ってきた道をひき返した。焚火のポイントまでは、ほとんど丘陵がなく距離も半マイルばかり。苦にはならない。たっぷり眠った甲斐あって、足腰も軽かった。


 しかし二人は、あえて険しい道を進んだ。木々の密集するところを選び、足音を殺した。


 危険を冒して、深淵を覗こうというのだ。敵に逃げられてしまっては堪らない。


 やがて二人は、闇の中にちろちろと揺れる燐光を見出した。さらに歩を進めれば、燃える炎を目にすることができた。油の実の効力は凄まじく、炎はまだ燃え続けていた。紺青の空へ吸いこまれるように、煙が立ち昇っているのまで見てとれた。


 とはいえ、それだけだ。不審な影はどこにも見当たらず、気配も感じられない。


「なにもいないわね」


 耳もとでデボラが囁いた。


「ビチャスが襲われたのは、もっと夜も更けてきた頃だと思う。お前らの様子は何度かみて回ってたからな」


「長期戦は覚悟すべき?」


「ああ。物音も気配も、なにも痕跡を残さなかった相手だ。最悪なんの成果も得られんかもな」


「敵を撒ければそれでいいわ。危険を排除して、目的を達成できればいいんだから」


「まあな。とりあえず、お前は後ろを頼む」


「了解。私たちが殺されちゃ、元も子もないものね」


 二人はウルとキルフがしていたように、背中をあずけ合った。


 なにもない夜が更けていく。

 却って孤独に思えるほど、互いを感じ合う時間だった。背中の相棒が、自分自身と融け合ってしまったかのように、呼吸も拍動も同調して感じられた。


 焚火の炎がとおくパチパチと爆ぜ、眠るようにいきおいを失う寸前まで、息を潜めそうしていた。


 このままなにも起きなければいいと思っていた。

 ところが、気まぐれに迷いこんだ雲が、ほんの一瞬月を遮り、地上を明滅させたその時、狩人の目が動くものを捉えた。


「……おい」


 魔法使いの背を軽く叩いた。

 振り返ったデボラへ、指し示した。炎の方角を。


「なにかいる」


 声をひそめ、呼気を呑み、二人は炎に濡れて蠢く影に目を凝らした。


 そう、それは蠢く影であった。であった。


 なんだ、あれは……。


 二人は同じことを感じていた。どちらの目から見ても、それは不明なものだった。


 炎に濡れた輪郭があった。人に似た二足のシルエットだった。

 しかしそこには、如何なる色彩も濃淡もなかった。輪郭を縁取るもの以外の形がなかった。

 そして、その輪郭さえも不定であった。泡のように弾け、夜に融けていくのだった。


 二人の脳裏に同じものが閃いた。〝陰〟にまつわる伝承だった。


『其の地には、冥府ニヴァルタルヘダへと続く穴がある。ひとたび穴へ落ちたなら、決して還る事は出来ぬだろう。肉も骨も等しく無に帰し、摂理の中へ融けるのみ。故に踏み入ってはならぬ。侵してはならぬ。人智を超えた、陰なる処。怒れるの棲む処――』

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