九章 特訓の成果

「い……ッ!」


 咄嗟に正面へ跳びこんだヴァニの背中に、鋭い痛みがはしった。糸くずと血が舞い、激しく土を叩く音があった。荒々しい羽音が続く。


「ゲエエェ!」


 振り返れば、禍々しい怪鳥が舌をだし暴れている。錆色の翼がむなしく空を裂き、ナイフのような羽根が重く舞い落ちる。獲物を捕らえようとした鉤爪は、地面に深々と突き立っていた。


 ヴァニは背中の痛みと風通しのよさを頼りなく感じた。オルディバルに搭乗する以前、彼の背中には象徴的な大つるはしがあった。魔法使いとなれず、遺物堀となってしまった己への戒めが。


 しかし〝九つ頭スルヴァルト〟との大戦のあと、大つるはしは失われた。誰かが持ち去ったのか、戦火に巻き込まれ散ったのかは判らない。いずれにしても今のヴァニにそれはなく、ゆえに峯主ホスへの有効打は存在しなかった。


 ナイフひと口であれに挑むのは自殺行為にも等しい。峯主の羽は、その一本一本が金属質の刃だ。その上奴は、前方に羽を射出できる。そうして獲物を絶命させるか、足を奪う。いずれにしても獲物に待っているのは死だ。


 選択肢は一つしかない。

 逃げることだけだ。


「……!」


 にもかかわらず、逡巡があった。


 峯主の傍らには惨たらしい亡骸がある。下半身がなく、臓物をまき散らした子どもの亡骸が。


 この悍ましい怪鳥は、今ごろ人の血の味に酔っているだろう。放置すれば間違いなく、さらなる獲物を求め被害を拡大させる。


 魔法だ。

 ヴァニは拳を握りこみ、中に力を想像した。


 狩れるかどうかは判らない。攻防ともに優れた翼は、拙い魔法など弾き飛ばしてしまうかもしれない。


 それでもヴァニは己を信じた。

 オルディバルの許へ馳せ〝九つ頭〟を滅ぼしたあの日の自分を叩き起こした。


「雷鳴よ、緑にこだませよ。汝の閃きは、鋼を融かし断ち切る灼熱の刃也ッ!」


 詠唱とともに拳を突き出す。


 たちまち指の隙間、毛穴の一つひとつに至るまで、黄金の光が弾け束をなした。

 それがまさしく文言のとおり、赤い熱をも孕んだ剣と化す!


 デカい! いける……ッ!


 落ちこぼれの瞳に勝利の予感がきらめいた。

 峯主の真円の瞳が応えた。


 寸分違わず頭部を狙いすました雷光の剣が、翼に阻まれた。

 剣はたちまち稲妻の網となり表面を伝った。雷鳴が苦しげに鳴いた。


 クソッ、貫けねぇ……!


 ヴァニはこめかみに生じた焦燥を融かした。魔力の糧とするように、拳へ注ぎこんだ。網が微かに密度を増した。


「ゲエェッ……!」


 それがついに、峯主から悲鳴をしぼり出した。怪鳥の身体が痙攣を始めた。肉の焦げるにおいが、無数の針となって鼻腔に突き立った。


 ヴァニは獰猛に笑い、鼻から血を垂らした。


 瞬間、雷光が霞のごとく虚空に滲んだ。

 峯主の嘴が煙をふき――止まった。

 微動だにしない。硬直した身体が、わずかに風に揺られるばかり。


「勝った……」


 ヴァニは勝利を確信し、片膝をついた。鼻血を拭った。手の甲についた血の痕に酔った。


 ところが風の音に混じって、葉擦れの音を破って、ごろごろと遠雷のような音が揺れるのを聞く。


 それは次第に忍び寄り――否、膨れ上がり、王の咆哮へと形を取り戻す。


「……ォォオオオエエエエエ!」


 錆色の像が震えだした。刃の羽の一本一本が生気の照りを取り戻し、わなわなと怒りを吐きだした。


「ゲエエエエエエエェッ!」


 突如、翼がひらかれた。それ自体が風を生み出し、斬撃をまとい、炸裂した。前方にしか飛来しないはずの羽根が、虚空という虚空を穿ち、裂き、舞い落ちる葉の一枚さえ、過たず破壊した。


 嘘だろ……ッ!


 ヴァニに逃れる術はない。土魔法によって障壁を生み出すのは、彼には高度すぎる。風魔法では出力が足りず、水魔法も氷魔法もまた防御に及ばない。


 刃が視界を埋め尽くした。


「……ヴァハトン」


 しかし飛来した千の刃が、突如、時を止めた。青く歪んだ膜の中でぴったりと動きを止めたのだ。


「これは……」


 そればかりか、時は逆行を始めた。

 刃の一本一本が、峯主の許へ引き寄せられ、青い膜が縮小してゆくではないか。


 それは紛れもない、水の防壁だった。


 ヴァニの想像には及ばない、圧の塊。うちに封じたものすべてを決して逃さず、一つところに収斂する、圧倒的な魔法の力だった。


 使い手の姿を探しあてる間もなく、収縮した水の壁が峯主を捉えた。天へ逃れようとした王者は、虚しく羽搏き、憤怒の咆哮を悲鳴へ――


「ゲエエッ! ギエ、ギエ、ギギギグゥェ――!」


 断末魔へと変えてゆく。


 それすらも圧し潰そうとするように、翼が割れ、骨が砕け、肉の断裂する音が轟いた。


 最悪の不協和音。


 峯主の輪郭が崩壊し、あっという間に血の膜に覆われた。壁のわずかな隙間から染み出すのは、血と脳漿、潰れた臓物――体液という体液が溢れだし、冒涜的に樹冠を染め上げた。


 エブンジュナにいた頃、たびたび獣を狩り、捌いていたヴァニでも、その光景には耐えがたいものがあった。


 自然に対する敬意は無論のこと、慈悲も容赦も感じられない、無作為な力だけがあった。


 吐き気をこらえるヴァニの背中に、大樹のマントがひらりと舞った。


「……ふうん。峯主相手になかなか粘ったな」

「なんですぐに助けてくれなかったんだ。危うく死ぬところだった」


 ヴァニは敬語など忘れ、肩越しにアルバーンを睨んだ。

 隻眼の魔法使いから返ってきたのは、無機質な眼差しだった。


「バカが。これは特訓だ。端から手をさしのべるのでは意味がない」

「峯主が現れるのも想定済みだったって言うのか?」


 アルバーンは平然とかぶりを振る。


「そんなわけないだろうが。峯主がここまでやって来るのは稀だ。見つかってもすぐに狩られる。危険だからな」

「なら、尚更すぐに助けろよ!」

「お前は本当にバカだな。クソがつくほど無能なガキだ」

「なっ」


 あまりの言い草に、怒声すら返せなかった。

 アルバーンの眼差しは、時とともに冷ややかさを増してゆく。


「お前はなぜここにいる?」

「……魔法を鍛えるためだ」

「クズが。お前は魔力もなければ、脳みそもないのか?」

「んだとっ……!」


 掴みかかろうとするが、疲労で立ち上がることもできなかった。イメージに遜色ない力を引きだした分だけ、消耗した魔力もまた大きいのだ。


「根本的なことだ。お前はオルディバルを使い、スルヴァルト級ヨトゥミリスを屠るためにいる。巨神の力を絶対のものとするために鍛えている。違うか?」


 ヴァニは鋭い睨みで首肯を示してみせた。


「ならお前は、スルヴァルト級が現れたときも、同じように周囲へ不満を吐き出すのか? どうしてすぐに助けてくれないんだと喚き散らすのか?」

「それは――」

「なにも違わん」


 抑揚のない声が反駁を遮った。

 そのどこまでも平坦で冷ややかな声音が、アルバーンの怒りに由来するものだとようやく気付いた。


「ヨトゥミリスとは、それ自体が予期せぬ存在だ。いつ、どの程度の力のものが現れるか。そんなこと誰も知りはしない。そして、状況は常に移り変わる。一瞬の気の緩みが、歴戦の勇士さえ屍に変える。予期せぬ事態に対し、不満を抱いている暇があれば、尻尾を出して逃げだす方がよほど賢明だ」


 脳を直接殴りつけられるような心地がした。目許を赤く染めあげた怒りを、言葉の刃が一枚ずつそぎ落としてゆく。


「お前は魔法の特訓をしているわけではない。お前は、お前を鍛え上げるためにここにいる。腐った性根を叩きなおし、如何なる相手にも状況にも憂えることのない戦士となるためにいる。お前は、そんなことも理解できんクソガキか?」


 あの日――〝九つ頭〟が現れたあの日、ヴァニは一縷の望みに縋った。荒野で発見された大型遺物に力が眠っていると信じ、雨の中を馳せた。


 あの瞬間、ヴァニはたしかに英雄だった。この島に受け継がれてきた命を守るため、逃げださず立ち向かう戦士だった。


 だが峯主を前に怖気づいた自分は、あの時の自分とは大きくかけ離れていた。

 にもかかわらずヴァニは、最悪の不条理に立ち向かうことのできる唯一の刃なのだ。


「お前がどんな経緯で巨神を御したのかは知らん。だが、お前は力を手にし、双肩にミズィガオロスの未来を負った。魔法使いからの要求を呑み、民の希望となることを選んだ」


 悄然としたヴァニの肩に、重い吐息が落ちる。


「……今日の特訓は終いだ。飯はこれで適当に食っておけ」


 アルバーンはそう言い捨てると、硬貨を投げ踵を返した。


 少年は震える手でそれを掴み、とぼとぼと大樹模様の背を追った。


               ◆◆◆◆◆


「相変わらずここの酒はまずいなぁ!」

「ウルセェ! そう思うなら飲むんじゃねぇ、この飲んだくれが」


 笑いながら悪態を飛ばしたマトンは、酒臭いドアをくぐった珍しい人物に目をとめた。

 相変わらず厳つい面だと思いながら、肉のよった頭を掻いて呼ぶ。


「こっちが空いてるぜ、旦那」


 空席を探していた隻眼が、カウンターの奥のマトンを見た。抜き身の刃のような鋭い眼光がわずかに和らぎ、カウンター席の一つへ腰を下ろした。


「おっさん、まだやってたのか」

「おっさんはお互い様だ。残念ながら、今も赤ら顔の子守に忙しいぜ」


 二人の会話へ、先の常連が割って入る。


「なに言ってんだ。あんたが子守してんのは、そのでけぇ腹のほうじゃねぇか!」

「ちげぇねぇや。てめぇらに気持ちよく飲んでもらわねぇと、育つものも育たねぇ」


 管をまく常連は、マトンの受け答えにゲラゲラ哄笑すると、酒を手に別のテーブル客へ絡みに出かけた。


 隻眼の魔法使いは、つられて微笑する。


「旦那がここに来るなんて何年ぶりかね?」

「さあな。二十年ほどか。今ではすっかり山暮らし。街に降りてくることも滅多にない」


 堅物の意外なジョークに、マトンは高笑いした。


「山暮らしとは、うまく言ったもんだな」

「実際、山で生活している」

「へぇ、近場じゃなくてかい?」

「危急の際に、いちいち山を上り下りしていたんじゃ身体がもたん。もう若くないからな」

「へっ、〝五行輪廻〟のアルバーン様がなにをおっしゃる」


 アルバーンは殲滅部隊へ属する以前、アオスゴルで杖を振るっていた。ここマクベルの大衆酒屋へは、その頃よく通っていたのだ。


「ところで、どうしてまたここに? お暇でも貰ったかい」


 訊ねながらまずい酒を差し出す。

 アルバーンはそれを表情ひとつ変えず、一息に飲みほした。静かでいて、豪快な飲みっぷりだ。二十年前とまったく変わりがない。


「いっそのこと、そのほうが楽だった。経験を活かして山奥に隠居なんて憧れる」

「ヨトゥミリスの面なんざ見たくねぇだろうしな」

「面倒事を押し付けられてな」

「旦那が面倒と思うなんて、よほどのことだろうなぁ」

「世の中のほとんどは面倒事だ」

「ちげぇねぇ。俺なんか立ってるだけで面倒だ」

「その腹では無理もない」

「さすがヨトゥミリスを狩る魔法使い様。容赦ねぇや」


 そこでまた笑いが起こり、一瞬の沈黙もまたやってきた。


 万の酔いどれを相手にしてきたマトンに、沈黙は珍しいことだった。しかし隻眼に帯びた不可思議なきらめきが、彼の発言を許してくれなかった。


 やがてアルバーンから口をひらいた。


「……初めての経験でな」

「ん、なにがだい?」


 魔法使いの表情は、相変わらず変化に乏しかった。ただその声音にだけ、微かな抑揚が波打った。


 それが彼のどんな感情の表れだったのか、すぐには判らなかったが、当の本人から答えを告げられた。


「……初めて恐ろしいと思う奴に会った」

「恐ろしい……旦那が?」

「ああ、俺が恐れた。もはやヨトゥミリスにさえ恐怖を感じなくなった俺が」


 マトンは不意に喉の渇きを覚えた。アルバーンに差し出すはずの次の酒を、思わず呷ってしまいたくなるほどに。


「そ、それは、どんな奴なんです?」

「ガキだ」

「ガキィっ?」


 予想だにしない答えに、声が裏返った。


「ああ、身も心も未成熟なクソガキだ」


 差し出した酒を、魔法使いは飲まなかった。


「俺は魔法を研究してきた。その成果として多くのガキのケツを引っ叩いてきた。優秀な奴もいれば、そうでない奴もいた。だが、あんな奴には会ったことがない」


 アルバーンの経歴については、マトンも多少知っている。教官として勤めていたこともあったはずだ。きっとそのことについて述べているのだと判った。


「ひどい落ちこぼれだったそうだ。魔法でクルミを割るのがやっとだと聞いていた」

「そりゃ俺よりひどい腕前なんじゃねぇか」

「おそらくな。しかし奴は、たった数日鍛えこんだだけで、峯主をあと一歩のところまで追いつめた」

「ホス……。あの峯主かよ?」

「ああ。信じがたい成長だ。同じ人間とは思えん」


 中型をたった一人で屠ったと言われるこの男がそう言うと、ますます化け物じみて聞こえた。


「あるいは、本当に人間じゃなかったりしてな?」


 冗談めかして返すと、アルバーンも軽く肩をすくめ微笑んだ。


「エルフだとでも言うつもりか?」

「もし、そうだったら、うちに連れて来てくれや。エルフも酒を飲むのか興味あるぜ」

「ああ、そうさせてもらう。俺も興味がある」


 愉快な旧友との時間はすぐに過ぎていった。

 酒を注ぐ手が止まったのに気付いた頃、アルバーンはいなくなっていた。


 不思議と寂しさは感じなかった。

 ただ、一つだけ妙に引っかかっていた。


『――同じ人間とは思えん』


 その一言が。

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