八章 牙を剥く者、牙を抜く者

 あばら家には窓がなく、そのために昼も夜もない。そこに居続ける限り、如何なるものも影である。


 ミラはいなくなった。

 影の許を脱し、眩い世界へと踏みだしていったのだ。


 ランプの鈍い明かりを背後に、ガゼルはやはり笑っているようだった。

 朽ちかけのソファに腰かけた義兄弟きょうだいたちは、唇をかみしめ震えを殺した。


 逆光にかげろうとも判るのだ。その笑みの恐ろしさが。


「どうして俺を殺さなかったんだろうなぁ……」


 L字型の謎めいた物体をもてあそびながら、あばら家の君主がごちた。


 五人の義兄弟は、怯えたように目配せする。

 独り言ではない。責任を問われているのだと誰もが理解した。


『なぜミラを逃がしてしまったのか』


 と、ガゼルは追及しているのだ。

 こういうとき渋々重い口をひらかねばならないのは、年長のホーグだった。


「……オレたちが家に戻ったときには、もういなかったんだ。もしかしたら、さらわれたのかもしれねぇ」

「へぇ……ヘッハハ!」


 ガゼルが奇怪な笑い声をあげた。


 子どもたちは一様に震えあがった。

 この笑いは、彼が心底恭悦したときか、激昂しているときしかあげない類のものだからだ。今回の場合は、間違いなく後者。笑みの中のしんと冷えた気配が、それを物語っていた。


「お前らは大切な家族だ。このあばら家でともに育ったキョウダイだ。だから俺と盗みも、殺しもする。家族は助け合わなくちゃな?」

「うん……」


 と、アヌベロ。


「ミラは盗みも殺しもやってこなかった。あのクソ野郎を殺して以来、一度もな。俺も強要しなかった。あいつには商品を繕ってもらってたし、金の勘定をする頭もあったから。あれでよかったんだ」

「ああ……」


 全員が嘆息のような相槌をこぼす。

 義兄あにの声音からは、その怒りの程をくみ取ることができない。表情も声色もつねに愉快で冷めている。それがガゼルという男だった。


「だがミラは俺を殺さず、逃げだした。俺がクソを排除しようと言ったように、あいつは奮い立たなかった。なんでだろうなぁ。俺は常々、殺してもいいと言ってたのに。知ってる奴はいるか?」


 知るはずない。誰もがそう思っていた。


 だが、ただ一人アヌベロだけは、ミラの苦しみを知っている。昨夜、彼女がアゾルフに助けを乞うたことも。


 しかし幼い少年は黙っていた。ここは嘘をつき通さなければならない場面だ。ミラを悪者にしたくないからではない。話せば、怒りを買うからだ。


 口をつぐんだ義弟おとうとたちを見渡したガゼルは、小さく肩をすくめ例の笑いをわらった。


「ヘッハハ……。ちょうど試したいところだった」


 皆、同時に首を傾げた。

 直後、その一つがごとりと床の上に落ちた。

 ホーグが音に反応して目を向ければ、アヌベロの生首がこちらを見ていた。


「あッ……ああッ……!」

「騒いだ奴には、褒美をくれてやる」


 今にも噴きだしそうな悲鳴が、その一言で喉にとどまった。


 ガゼルの手にはL字型の物体。それが順に義兄弟たちの頭を見つめた。

 闇の中にあってもなお暗いその先端からは、鈍色の煙が揺蕩っている。


「アヌベロと遊ぶ権利をやるよ。黙ってた奴にはなにもやらない。どうだ、褒美が欲しいか?」


 ゴッヘルが大仰にかぶりを振った。

 たちまち、そこに蒼白い矢がとんだ。漆黒の物体から吐き出されたものだった。


 ゴッヘルの首が絶たれた。血はでなかった。

 ホーグは恐るおそる断面を覗いた。血肉が蝋のように融けていた。


 残された義兄弟たちは、太ももに爪をたて恐れを殺した。闇の中でちろちろと光る眼差しを挑むように見つめた。


「……なんだ、欲しくないのか? うんともすんとも言わないなんて生意気な奴らだな」

「……これからどうすればいいんだ、兄貴?」


 ホーグはあえて訊ねた。黙っていれば、また気まぐれに誰かが殺されると判っていたからだ。

 ガゼルが漆黒の武器を下ろし、ホーグを見た。その言葉を待っていたとでも言うように。


「……ジジイだ」

「え?」

「ミラを逃がしたのは、あのジジイしかあり得ない」


 ホーグは恐れとともに唾を呑みこみ、薄汚い老爺の姿を脳裏に描きだした。


「……アゾルフ」

「そうだ。奴が、俺から最も大切なものを奪った」


 ガゼルはそう言うと、テーブルのむこうへ回りこみ義兄弟たちと向かい合った。その口許はもう笑っていなかった。


「……運命ってのは、誰にでも結びついてるもんだ。魔法使いであろうと、ヨトゥミリスであろうと」

「あ、ああ……」


 ホーグの相槌はひどく震えていた。ガゼルの言わんとすることを理解していたからだ。


「もちろん、スラムの支配者であろうとな」

「……だ、だがよ、兄貴。奴は〝牙なし〟だぜ? 手をだして生き残った奴はいない」


 ホーグは死を覚悟して言った。アゾルフに挑むのもまた、すなわち死だからだ。


 ガゼルは一瞥しただけで、例の武器は掲げなかった。

 ただとり憑かれたように答えた。


「誰も運命から逃れることはできない」


 その時、子どもたちの胸に絶望がふかくしみ渡った。ホーグは、逃げ延びたミラに羨望の念を感じた。ずっとそうだった。彼女だけは、いつも安全な場所で胡坐をかいているのだ。


「運命にさえも、運命は絡みつく。あざなえる縄のようにな」


 不意に、ガゼルの相貌に笑みが戻った。眼差しだけが凍えるようだった。


「そして運命が運命を喰らうときが来た。アゾルフには――」


 ランプの中の炎が揺れた。周囲の闇さえ怯えたように震えた。

 ガゼルがいっそう暗く獰猛に笑った。


「退場してもらおうじゃないか」


                ◆◆◆◆◆


 ガゼルの開戦宣言から、およそ十分後。


 スラム街西端に打ち捨てられた崩落した壁の前に、一人の男が立った。

 彼は抜け目なく周囲へ警戒の視線を投げると、その華奢な身体を瓦礫の隙間へとねじこんだ。


 寝床――ではない。

 襤褸の一つも敷かれておらず、空洞は長く続いている。彼は休むことなく、そこを這い進む。


 入口から忍びこむ月明かりが唯一の光源だ。ゆえに、まったき暗闇と言っても過言ではない。


 しかし行き先は身体に沁みついていた。

 やがて男は、ややひらけた空間にでる。そこで身体の上下を入れ替えた。臀部をこすって進むと、すぐ段がある。さらに進めば、次第に歩けるようになってくる。


 ここで初めてランプを取り出した。火打石からでた火花を芯に移すと、橙の光の輪が、石造りの壁に覆われた螺旋階段を照らした。


 やがて彼がたどり着いたのは、これまた石造りの壁に囲われた小部屋だった。スラムのさらに深き闇――秩序の執行者〝闇執矛アンセム〟の隠しもつ部屋の一つである。


「親仁の言った通りでした。奴は危険ですね」


 小部屋の扉を閉めるなり、男は口をひらいた。


 彼とテーブルをはさんで向かい合うのは、「親仁」と呼ばれた老爺。全身を薄汚い襤褸で覆い、乾いた唇の隙間から黄色い乱杭歯をのぞかせる〝牙なしのアゾルフ〟であった。


「揉め事は起こしたくねぇんだがな。その様子だと、やっこさん、よからぬことを口走ったらしいな?」

「ええ、アゾルフを退場させると」

「大胆なクソガキだ。頭に血が沁みついてやがる」


 口調とは裏腹に、その表情は穏やかだった。怒りも怯えもなく、ごちるように淡々としていた。


「嬢ちゃんが教えてくれた通りか。本当に〝運命〟ってやつになるつもりかね。肥溜めのガキ風情が」

「運命……。そのようにも言ってましたね。運命が運命を喰らうときが来たとか」


 アゾルフは柔和に笑む。


「へっ……。ワシも奴の言う運命かい。デカく見られたもんだ」

「どうします、親仁? すぐに仕かけますか?」


 男が問うと、アゾルフは眉根をよせ腕組みした。


「冥府の女神様にガキを献上する趣味はねぇ。だがガゼルの野郎、最近ハデになってきたよなぁ」

「〝表〟の連中は〝影の子どもたち〟が暴れていると」


 老爺は鼻で笑った。


「〝影の子どもたち〟か。言い得て妙だな」


 男は無表情のまま、笑いを返さない。アゾルフに対する絶対の忠誠が、彼から表情を奪ったのはずいぶんと前のことだ。


 無機質に仕事を行う。彼は、そんな自分を誇らしく思っていた。

 すぐに「殺せ」と言って欲しかった。自分には、それが躊躇なくできるからだ。

 ところがアゾルフは、まだ迷っていた。


「おめぇはどう思う。ガゼルを殺すべきだと思うか?」


「早急に処するべきかと。あれは危険に過ぎます。ただ口のデカい阿呆とは異の者でしょう」


「まあ、それはワシにも解るぜ。あいつはイカれてやがる。だが、まだガキでもある」


「ガキも大人もありやしません。皆、平等に辛酸をなめてきた。スラムとはそういう場所でしょう」


「まあな。だがよ、昔たまたま魔法使いを殺したバカがいたぜ。ワシはそいつを拾った。ガキだったからな」


 男はまっすぐに向けられた視線を躱すように目を伏せた。それは紛れもなく彼の過去だったからだ。


「……ですが、あれはもう成人です」


 男は苦し紛れに言った。


「成人か……。そいつの生きてきた年月が、大人か子どもかを決めちまう。ルールっつうのはつまらねぇな」


「そんなことを仰っている場合ですか、親仁。命を狙われているのは、あんたなんですよ」


「老い先短い命に、どれだけの価値がある? 老いぼれの身体は衰え、頭はかすむばっかりだ。だがガキはこれから長く生き、力をつけ、ワシの考えられないことを考えられるようになる。こんなちいせぇ世界じゃねぇ。もっとデカい世界を作ってくれるかもしれねぇんだ。ガキの首を安易に刈るようになっちゃ、それこそ未来はねぇぜ」


 男は挑戦的にアゾルフを見つめた。


 彼の言うことは正しいのだろう。男の良心は、彼の言葉にたしかな感銘を受け濡れていた。


 アゾルフはスラムのルールそのものだ。情報を糧に己を守り、ついぞ伝説にまで仕立て上げた。それを基に、いくつもの暗黙の了解を作ったのだ。


 しかし秩序は優しさだけでは成り立たず、慈悲に偏れば機能しないものだ。時に惨たらしく牙を剥くことも、未来を守るためには欠かせないはずである。


「親仁、命じてください。殺せ、と。俺も、仲間たちもそれを拒みやしません。躊躇なく闇を馳せますぜ。放置しても、ガゼルの心は腐ってく一方だ。膿が浅いうちに、終わらせてやりましょう。子どもたちに影を踏ませるなんて、それこそ酷じゃねぇですか?」


 たたみかけられた老爺は、その熱に打たれたようだった。こめかみを押さえ唸り声をあげた。

 ところが、それでも「殺せ」とは言わなかった。


「……分かった。ワシもお前の言葉が正しいと思ったぜ。だがな、最後にあいつと話をさせてくれや」


 男は額を押さえ、呻いた。


「正気ですか。あれは親仁を殺すと言ってるんですよ」


あめぇやり方じゃ秩序は成り立たねぇ。だが秩序のために秩序を守れば、本質を見失う。〝闇執矛俺たち〟がスラムに根付いてるのは、くだらねぇルールを守るためじゃねぇだろ?」


「……はい」


 クズにクズなりの生き場を作ってやりてぇんだ。

 雨にさらされ、寒さと恐怖に震えていた男は、その言葉とともに立ちあがったはずだった。


「殺すと言われて、すぐに懐のブツを見せるのが大人のやり方ではねぇはずだ。物騒な輩だからこそ、安易に目線の高さを合わせるべきじゃねぇ、解るよな?」

「ええ……」


 男はその先の否定を呑みこんだ。危険は承知だが、主人の手足となり、守るために自分がいる。

 アゾルフのまっすぐな眼差しは、信頼の証に他ならない。


「ただし、ワシも善人じゃねぇ」


 不意に主人の瞳に剣呑な光が宿った。


「……おかしなマネしやがったら、躊躇なくれ」

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