七章 陰

 七人の男女は、陽光さえぎる枝葉の天蓋をくぐった。

 すると一筋の川が東西を横切る以外、産毛のような雑草しかない原っぱへ出た。


 宿をでた時はまだ低かった日も、今ではすっかり中天にまで昇りつめている。

 デボラとともに先駆けを務めるダウナスは、それを認めると大仰に顔をしかめた。


「ちと時間をかけすぎた。急ぐぞ」


 狩人の号令に、誰もよい顔はしない。


 当たり前だ。

 デボラ以外の五人がダウナスと顔を合わせたのは今朝のことである。どこの馬の骨とも知れない男を突然「仲間だ」と言われても、そう簡単に打ち解けられるはずがないし、命令されれば気も立とうというものだ。


 おまけに彼は〝旅団〟の人間である。

〝旅団〟と言えば、獰猛で傲岸な連中として有名だった。商人以外にはよい顔をしない偏屈な奴らだと専らの噂だ。


 しかし皮肉なことに、ダウナスは元〝旅団〟の人間だからこそここにいる。長旅の経験のないデボラ班にとって、狩人の知識ほど欲しいものなど他になかった。


「待って。私たちはあなたの指示に従う。だけど、これからどうするつもりなのか、考えくらいは教えてちょうだい」


 デボラの許に皆の視線が集まった。そのどれもが鋭い。無断でダウナスを引き入れた彼女もまた、不信と軽蔑の対象だったからだ。

 狩人からは、さも面倒だと言いたげな嘆息が返ってくる。


「……ここは〝光陰の裂け目〟、川を渡った先が〝陰〟だ。それくらい判るよな?」

「ええ」


 川より手前側が〝光〟、川向こうが〝陰〟。

〝陰〟の地には魔物が棲むと言い伝えられており、未だかつて屍すら戻ってきたことはないのだとされている。


 人智の及ばぬ地――すなわち〝陰〟。


「俺も〝陰〟に入ったことはねぇ。片足一本だってな。だが俺たちは行かなくちゃならねぇ。それぞれの目的のために。なら俺は、これまでの知識と経験を活かして、最良の手段をとる」


「その最良の手段っていうのは?」


「向こうを見てみろ」


 ダウナスは川向こうの地平線を指さした。

 朧な山の稜線が、東西に果てなく伸びている。右手のほうには、やや青みがかった山がぼんやりと浮かび上がって見える。


 狩人はどうやら、その青い山をさし示しているようだった。


「日が暮れるまでにあの山までたどり行く。あそこが今日の俺たちの宿だ」


 そこでようやく、殿しんがりを務めるビチャスの大きな口がひらいた。


「おい、嘘だろ? あそこまで何マイルあるんだよ」


 ダウナスは視線を返さず、呆れ切ったように肩をすくめた。


「知らん。二十マイルあるかないかってところだろ」

「二十マイル……」


 全員が息を呑んだ。


「そんだけの距離、日が暮れるまえにって……ギリギリじゃねぇのか?」


 ウルが、ニンニクのような鼻にしわを寄せていった。


「だから急ぐと言ったんだろうが。こんなバカみてぇな話をするより、さっさと足を動かしたほうが安全なんだよ」


「ちょっと、ダウナス。言い方ってものが……」


「うるせぇ。俺は、あんたらに協力すると約束した。だが、口の利き方に気をつけろなんて言われた憶えはねぇぜ」


 デボラは狩人をきつく睨みかえした。


 昨夜酒場で会ったときは飄々として見えたが、今はずいぶんと印象が違っていた。厄介な男を引き入れてしまった、と今更ながら後悔がこみあげる。


 しかし、どうすればよかったのだ。


 ダウナスの協力を得なければ、自然の餌食となるのは自明だった。ましてや〝陰〟は、魔物が棲むとされる曰くつきの地だ。なんの知識もなく攻略できるような場所であるはずがない。


「とにかく急ぐぞ。時間が惜しい。それともあんたら、〝陰〟を前にして怖気づいたのか?」


 その一言で、デボラたち魔法使いは、怒りを忘れうつむいた。

 ただ一人、切れ長の眼差しを光らせたキルフだけが、誰とも視線をあわせず〝陰〟の大地を見つめていた。


「……俺も早く行くべきだと思うな。グズグズしてちゃ危ない」


 キルフの許に視線が集まる。彼はそれを居心地わるそうに見渡した。


「空を見てくれ。結構な数の鳥がいる」


 促され見上げてみれば、青く澄んだ空へ吸いつくようにして、十羽ほどの影が旋回しているのが見えた。


「なんの鳥かは判らないが、峯主ホスだとしたらまずい。こんな見晴らしのいい場所、夜中に襲われたらひとたまりもない」


「どうやら多少頭のキレるのもいるらしいな。そいつの言ったとおりだ。日の暮れる前に身を隠せなきゃ、獣どもの餌食になるのは目に見えてる」


 デボラ班の面々は互いに顔を見合わせた。

 やがて苦虫を噛みつぶしたような顔で、渋々頷いた。了承の合図だった。


「最初から黙って付いてくりゃいいんだ。ド素人どもが」


 悪態を呑もうともせずに、狩人は踏み出した。

 一行はさらに剣呑な気配を噴きだし、怒りのやり場を探してデボラを睥睨した。

 彼女は逃げるようにして、川を跳びこえたダウナスの隣に立った。


「ねえ」

「あ、なんだ?」

「もう少しなんとかならないの?」

「なにがだ」

「あなたのその態度」

「さっきも言っただろうが。俺はな――」


 デボラはその唇に人差し指をつきつけ遮った。


「あなただって生き残らなくちゃいけない。それなら仲間との信頼関係も大事でしょ」

「……ッ!」


 その瞬間、不意にダウナスの眼差しが色を変えた。無機質な呆れに満ちていた双眸に、ごおと炎が燃え上がった。


「信頼……? くだらねぇことをホザくな。必要なのは、各々がそれぞれの役目を果たすこと。お前らの役目は、俺の言うことを忠実に守ることだ。クソみてぇな慣れあいなんて必要ねぇ」


「だから、その言うことを聞かせるためにも、信頼を築くべきでしょ」


「うるせぇ。いいから黙って歩け。体力の無駄だ」


 ダウナスは有無を言わせなかった。もはや視線を交わそうとすらしない。心なしか歩調まで速まったようだった。


 デボラはその背中に投げかける言葉を探した。

 しかしついに見つからなかった。

 重い沈黙と視線の痛みに耐えながら、ただ歩くしかなかった。


 こうして〝陰〟の冒険は、最悪の形で幕を開けたのだった。


               ◆◆◆◆◆


 唯一デボラの荒んだ心を癒すのは、皮肉なことに〝陰〟にそよぐ風だった。

 一歩踏みだす度に、高級なシルクの緞帳を潜っているかのような心地よさが全身を撫でるのだ。


 あれほど恐れていた〝陰〟は、拍子抜けするほど穏やかだった。今のところ、魔物どころか獣の姿すら見当たらない。遠く、空のシミのように鳥獣がくるくると旋回しているのが映るばかりだ。


 ずっと平穏を求めてきた。防区でヨトゥミリスと対峙したあの日から。


 ひょっとするとこの場所こそが、理想郷なのかもしれない。静謐が錯覚を呼び起こした。


 弛緩する肉体と、かろうじて緊張を留めた精神とのギャップに、眩暈さえ感じられてくる。

 どうやら皆も同じ感覚に陥っているようだ。茫洋とした眼差しが、それを物語っていた。


 ただ一人ダウナスだけが、険しい眼差しを周囲へ送っている。時折、長く伸びた雑草があると、むしりとってしきりに観察した。


 そこからなにを知れるのか、デボラには判らない。長さ以外に違いがあるようにも見えない。無論、種類など判るはずもない。


 訊ねるべきか、訊ねぬべきか。

 ダウナスの横顔を見上げ、逡巡した。


 また黙れと言われるかもしれない。

 だが万が一という場合もある。ダウナスが真っ先にリタイアすれば、デボラたちは野垂れ死ぬだけだ。今のうちに吸収できるものは吸収しておいたほうがいいだろう。


「……なにを視てるの?」


 恐るおそる訊ねた。

 すると狩人の一瞥があった。


「雑草だ」


 あっさりと答えが返ってきたのは意外だった。もう口を利くつもりもないのかと思っていた。

 しかし返された答えは充分でない。


「それくらい判るわよ。その雑草を視て、なにを読み取れるのか訊いてるの」


「これは特になにもなさそうだが、中には獣の痕跡を見て取れるものもある。食いちぎられてりゃ歯形が残る。そこから獣の正体を知れる。糞がついてる場合も、識別材料になる。虫の種類でもある程度推測できるかもしれねぇ」


 特に情報を隠そうという気はないらしい。狩人の知識を与え、それを活かす。最低限の約束は守るつもりがあるようだ。


「へぇ。今のところ痕跡は一つもなし?」

「あればなにかしら指示を出してる」

「じゃあ、私たち素人でも判る痕跡はないの?」

「糞だな」

「糞?」

「ああ。糞と言えば黒や茶を想像するかもしれねぇ。だが草食動物のそれは緑がかってたりする。雑草の中に、草の塊みたいなのが落ちてたら、それは草食動物の糞だ」

「なるほどね」

「肉食動物より草食動物のほうが安全に狩れる。警戒心が強いから取り逃がすこともあるがな」

「じゃあ糞を見つけたら、辺りを捜索してみるの?」


 訊ねるとダウナスが辺りを見回した。お前もこれを見てみろと言わんばかりだ。


「……あー、ここじゃ捕まえられそうにないわね」

「そういうことだ。こんな見晴らしのいい場所で、弱い奴らは姿を見せない。糞の知識を活かすのは、森に入ってからだ。痕跡のあった付近に罠をはる」

「探すんじゃなく待つのね」

「探す場合もあるがな。子どもの気配が感じられれば、近くに巣のある可能性が高い」


 訊ねれば、ダウナスは饒舌だった。疎ましがる様子もない。熱心な生徒を撥ねつけるほど、ひねくれてはいないらしい。


「……」


 ただ、なんとなく会話の糸口を見失ってしまった。ダウナスからも補足はなかった。


 草をふむ音が風とまじり、辺りをめぐっていた。それを切るように、荷物ががさがさと音をたてる。鳥の穏やかな囀りが降り、旅人たちの湿った呼吸が土にしみた。

 音の代わりに返ってくるのは匂いだった。土のまとわりつくような香りが、雑草のそれと混ざって、やや酸い刺激を与える。


 景色は一向に変わりがない。青い山が、ほんのわずかに濃さを増したかどうか。輪郭は確実に膨れたが、まだ見上げるほどではなかった。


 平穏で優しい印象のある土地ではある。

 しかし途方もない旅だと、改めて感じた。

 この広大な緑を歩き、実在不確かなドワーフを探し出さなければならないのだ。

 不意に不安がせりあがってきた。


「……ねぇ、山まであとどれくらいかかりそう?」


 ダウナスは旅人たちを振りかえり答えた。


「判らん。だが、ペースは落ちてないし、おそらく日が暮れるまでにはたどり着ける」

「もうどのくらい経ったかわかる?」


 ダウナスに合わせて行進しているが、実のところ、脹脛はもうパンパンだ。枢都では訓練こそ欠かさなかったが、それと歩行によって使用する筋肉とは異なる。魔法使いとして培ってきた気力と体力だけが、彼女を――デボラ班を歩み続けさせる唯一の命綱だった。


 そこにダウナスの無機質な声が返ってくる。


「およそ三時間ってところか。山もあんなに近くなった」

「そんなに近くなったかしら……?」


 絶望的な気分で返した。


「なっただろうが。もうしばらく辛抱しろ」

「頑張るけど……」

「安心しろ。明日からはこんなに歩かねぇはずだ。俺だってこんな距離毎日歩きたかねぇしな」

「本当?」


 縋るような気持ちで訊ねた。


「本当だ。今日は寝る場所が必要だから山まで行く。だがよ、そもそも俺たちの行き先は決まってねぇ。食料を確保して、どこへ向かうか相談する時間が必要だ」


 デボラはほっと胸を撫でおろし、痛む足をなだめた。


「さあ、あと半分だ。踏ん張れ」


                ◆◆◆◆◆


 じんわりと茜色が空ににじむ頃、一行はようやく山の麓に膨れ上がった森へと進入した。


 途端に空気が弛緩し、疲労が重くのしかかった。

 しかし狩人は、まだ休ませてはくれなかった。


「おい、お前ら。気を抜くな。もう少し奥まで行くぞ」


 恨めしげな視線が集まった。安堵と疲労が負の感情へ裏返ってしまったかのようだ。


 それでも誰一人、文句までは口にしなかった。口論する体力も尽きかけていたし、紅の帳を遮る森の中はおどろおどろしかったからだ。


 今は狩人に従うのが賢明だ。誰もがそう解っていた。

 ところがダウナスは容赦ない。


「お前ら、石や木の枝を見つけたら拾え」


 これにはさすがに反駁の声が返った。


「この期に及んで、どうしてですか。荷物が増えちゃ、もうもたないですよ……」


 普段は温厚なロガンも、苛立ちが鬱積しているようだった。

 そこへ狩人の冷たい視線が返った。


「明日、目が覚めなくてもいいのか? 俺の言うことを聞かなけりゃ、自然の餌になるかもしれんぞ」

「え……?」


 ダウナスが掬い上げるようにして、なにかを投げた。それが緩やかに放物線を描いて、ロガンの正面に転がった。

 小さな骨のようだ。僅かに弧を描き、先端が刃物のように尖っている。


「これは……」

疾狗シイクの爪だ。三インチはある。間違いなく成獣だ……。それもかなりデカい」


 峯主が山岳の王、あるいは空の支配者と呼ばれるのに対し、疾狗は夜の王、あるいは地の殺戮者と呼ばれる。非常に獰猛で狡猾、そして恐ろしく素早い。暗闇の中で目をつけられれば、その残滓を見ることすら能わず命を終えることになる。恐ろしい獣だ。


「火を焚く必要があるんだよ。獣は火を嫌うからな。それに光も必要だ。万が一襲われれば、疾狗が相手じゃ逃げられねぇ。迎え撃つしか生き残る術はねぇ。夜目の利かねぇ俺たちには、ちょっとした工夫が必要なんだ」


 ロガンはしばし眉根を寄せ、ぱくぱくと口を開閉していたが、ついに反論の余地がないと気付いたらしい。背筋を伸ばし、目を伏せた。


 周囲から重い吐息が重なった。デボラも疲れ果て同調した。


 それでも皆、重い身体を引きずり、ダウナスのあとに続くしかなかった。石を、枝を拾い集めた。獣の気配に神経を尖らせた。一層身体の淀みが粘り気を増していくようだった。


 やがて狩人が足を止めたのは、灌木の茂る平地だった。


「ここはなかなか悪くねぇ。そろそろ休むか」


 その一言に、誰も解き放たれるような思いがした。発散された緊張が目に見えるようだった。

 メズなどは、その場にへたりこんでしまう。


「まったく。休むかとは言ったが、気を抜けとは言ってねぇぞ。ちょっと移動したくらいで疾狗の縄張りを抜けたわけじゃねぇんだ。死にてぇのか?」


 ダウナスはにべもなく言った。だが、彼自身もさすがに疲れた印象を受けた。声に覇気がなく、眼光もやや虚ろだった。


「とりあえず、枝と石をここに集めてくれ。早速、火を焚く」


 魔法使いたちは渋々ダウナスの許へ集まり、拾った石と枝を放り投げた。それについて悪態が返ってくることはなかった。


 狩人は黙々と石を環状に並べ、その中に枝葉をしき詰める。謎めいた木の実も放りこんでいた。


「その木の実は?」


 デボラが訊ねた。


「油みてぇなもんだ。こいつがあれば、すぐに火が消えるようなことはねぇ」

「へぇ。魔法は必要?」

「は?」


 訝しげな視線が返ってきた。


「火をつけるのに、必要かと思って。炎魔法を使えば、すぐに着くから」

「はあ、なるほど。便利だな。だが、必要ねぇ。火くらい簡単につけられる」


 枢区では基本的に魔法使いの家系以外、魔法を教わることはない。


 狩人は少ない荷物の中から火打石を取り出し、それを打ち合わせた。チッと小さな火花が灯る。それを二、三度繰り返すと、熾火の呼吸が始まった。


 そこに手をかざし、ふいごの如く息を送る。暗い光が明滅し、それはそれはゆっくりと成長していくのが判った。


 するとダウナスが立ち上がり、魔法使いたちを見渡した。そして、木陰に身をあずけ、今にも眠り落ちそうな彼らへ向けて言い放った。


「お前ら、近すぎる。休んでも構わんが、もっと遠くで寝ろ」


 怪訝な視線が、一斉に狩人を包囲した。


「火に近すぎるのは、却ってよくねぇ。目が眩むし、獣どもからも目につきやすくなる。もっと遠くで、そして灌木の影で眠るんだ」


 とろとろと融けかけの意識を練り合わせ、魔法使いたちが動き始める。ダウナスは細かく指示を飛ばし、それぞれの寝床を用意してやってからやおら立ち上がった。


 辺りはもうすっかり闇の中だった。フクロウの鳴き声が遠く揺れ、樹木から下がった枝葉が、怪物の手のように朧だった。


 デボラは全身に石を詰めこまれたような、軋む疲労を感じていたが、それが却って眠りを妨げていた。


 焚火の明かりに濡れて、ぼんやりと浮かび上がった狩人の背中を呼んだ。


「ダウナス」


 狩人が振り返った。

 デボラは立ち上がり、軋む身体を引きずって歩み寄った。


「どうした。早く休め」

「なにをしてるの?」

「見張りだ」


 彼はさも当然のように言ったが、デボラは耳を疑った。


「嘘でしょ? 一睡もしないつもり?」

「今日はかなり歩いた。お前ら、疲れたろう?」

「そりゃあ、疲れたけど。あなただって同じでしょ」

「一日くらいなら問題ない。慣れてる」


 頑なな響きだった。


「優しさのつもり?」

「バカな。そんなわけねぇだろう。明日からは、それぞれ見張りも務めてもらうさ。だが今日のお前らの様子じゃ、任せるのも恐ろしくなった」


 デボラは呆れてかぶりを振った。


「理由はどうでもいいわ。とにかく無茶よ。あなたに休んでもらわなくちゃ、私たちだって危ない」


「お前も見張りをするってか?」


「交代でやればいいでしょ。私だって色々負い目はある。休みたいけど、今日くらい我慢するわ。みんなを裏切った代償よ」


「妙な奴だな。まあ、助かるが」


「じゃあ、あとで起こして。必ずよ」


 ぐいと顔を寄せ、きつく言い含めた。

 ダウナスは薄ら笑いで応えた。


「近くで見たらいい女じゃねぇか」

「妙な気を起こさないでね」

「起こすかよ。魔法使いをヤるより、疾狗をヤったほうがまだ安全だ」

「そりゃどうも」


 口汚く下品な男だ。


 しかしその言葉の裏、行動の中に、意外な誠実さがある。契約に忠実で、責務を完璧に果たそうとしているのが感じ取れる。


 嫌な奴ではあるが、信用はできるかもしれない。


 デボラは自分の寝床へ戻り、身を横たえた。

 それだけで、なぜか先程は落ちなかった意識が、すんなりと闇の中へ沈んでいった。


                ◆◆◆◆◆


「――い。おい、起きろ」


 揺蕩う意識の海に、声が降ってくる。あまり馴染みのない声。けれど、たしかに知っている声。


「おい、早く起きろ!」


 声とともに身体が揺さぶられる。夢の中に撹拌されていた疲労が分離し、意識の端がちりちりと覚醒した。


 重い瞼をひらくと、景色が薄らと白く濡れていた。見下ろす顔はダウナスのもの。疲労が濃くにじんで見える。


 空は紫紺。まだ夜は明けていないようだ。


「ん……交代ね?」

「そんなのはどうでもいい。いいから眠気叩きだしてよく聞け」


 切迫した声色だった。

 不意に頭のなかが澄み渡り、鈍い痛みのようなものを覚えた。胸がどくんと打った。


「なにかあったの?」

「ああ」


 ダウナスは即答した。

 デボラは咄嗟に半身を起こし、月光に濡れた蒼い森を一瞥した。遠くで弱々しく炎が揺れていた。獣らしき姿や気配は、一切感じられなかった。


 だが、おそらくそういうことだろう。

 疾狗が現れたに違いない。


「奴はどこにいるの?」


 声をひそめ訊ねた。

 すると、ダウナスが小さくかぶりを振った。


「そうじゃねぇ。疾狗じゃねぇんだ。ただ――」


 予想だにしない答えに当惑した。眠気を追い出し、状況の整理を試みようとする。

 しかし、ちぐはぐな状況に理解が追い付つかない。狩人の言葉の意味が解らない。

 そして返された答えは、さらに荒々しい混沌へと、デボラの思考を叩き落とした。


「……消えた」

「え?」

「ビチャスが消えたんだ」

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