六章 美しい孤独
ガゼルが遺物を手にしたちょうどその頃、ミラは西の壁を見上げていた。
女一人でスラムを闊歩するのは自殺行為にも等しい。
しかし今、隣にはアゾルフがいる。
薄汚く骨ばった老爺がいるだけで、ミラに近づこうとする者は誰もいない。通路の隅でうなだれた浮浪者も、ナイフを隠そうともしない屈強な男も、老爺を一目見ただけで、そそくさと去っていく。
「こっちだ、嬢ちゃん」
いつしか二人の周りには、人影ひとつ見当たらなくなっていた。
その二人さえ、表通りから消える。裏路地の闇の中へ融けるように。
途端に震えがこみあげてきた。あまりにも深い闇に、恐怖を覚えずにはいられなかった。
スラムは影の街だ。
深奥となれば、一層暗いのは当然である。
しかしここは両脇に建物、前面に壁がそそり立つばかりでなく、建物の隙間にできる光さえ遮られていた。雨漏り防止の撥水布が、建物から建物へかけ渡されているためである。
入口から迷いこむ頼りない明かりだけが、この場所を示すすべてだ。
アゾルフはその中を迷いなく進む。
ミラは老爺の背中にぴったりと付いて回った。
やがて老爺は、さらに狭い隙間へと滑りこんだ。建物と壁の間にできた、腰を折ることもできない空間だった。
恐るおそる、あとに続く。
息も苦しくなるほどの狭さ。
「こんなところに、外へ通じる穴があるんですか?」
不安を殺すべく訊ねると、不意にアゾルフが動きを止めた。
「わっ!」
肩と肩がぶつかった。闇の中で、ぞわりとシルエットが揺れた。
「おう、すまねぇな」
「い、いえ」
「それより、ここからはちと踏ん張りがいるぜ」
「踏ん張り?」
「登るんだ」
「へ?」
それだけ言うと、アゾルフは壁を登り始めた。小さな影がするすると頭上の闇を掻いた。
「心配すんな。背中をぴったりつけてりゃ落ちやしねぇ。手をかけるところもある」
「はあ」
ミラは闇を胡乱げに見つめ、壁に手を這わせた。
たしかに窪みがある。
指をかけ、摩擦で背中を支える。窪みをさがし、身体を引き上げる。
アゾルフはどこまで行ったのか。気配は感じるが、シルエットはもう見えなかった。
途端に暗闇全部が恐怖へとすり替わった。胸がきゅっと縮んで。かすれた吐息がもれだした。
「どうした、嬢ちゃん。小便でもしたくなったか?」
それを聞きつけたのか、下品な声が降ってきた。
ほっと胸を撫でおろし、慎重に窪みをさがした。
「まだまだ上だ。踏ん張れよ」
「はい、頑張ります」
声を追うようにして、よじ登る。ひたすら手をかけ、這い上がる。
それを何度くり返したときだったろうか。
突然、手を握られた。
「ひゃっ!」
驚きに声が裏返った。
途端に汗ばんだ手に引き上げられた。
衣をこするような感覚があった。
それからすぐ投げだされるようにして、床の上を転がった。
そう、床だ。
頬に冷たい感触が吸い付いていた。
「巡回はしばらくねぇな?」
「ええ、魔法使いなら、ほんの少しばかり前に帰りました」
闇の中から、地鳴りのような声が響いた。明らかにアゾルフではない、もう一人がいた。ミラは当惑し、息を殺した。
「なら、明かりをつけよう。長くはかけねぇ。ガキを出すだけだ」
「それじゃ、火をもってきます」
「ああ、頼むぜ」
重く気配が動いた。ガタガタと物音がして、最後にバタンと戸の閉まるような音がした。
どうやら地鳴りの男が去ったらしい。
ミラは止めていた息を吐き出し、手さぐりにアゾルフを探した。
「……ど、どこですか、アゾルフさん」
「ここだ。怖がるこたねぇ」
恐怖に震える手を、乾いた小さな手が掴んだ。
「今の、人は?」
「友達だよ。長く生きてると、友達も多くなんのさ。年の功ってやつだな」
「なにをしてくれるんです?」
アゾルフの声には、安堵をもたらす不思議な力がある。
とはいえ、突然、暗い部屋のような場所へ放り出されれば、不安のほうが勝っていた。
ましてここはスラム。暴力と裏切りの世界だ。
疑心暗鬼になるのは当然だった。
「これから明かりをもってくる。壁を外して、嬢ちゃんを逃がすためにな」
「壁を外す?」
「ああ。壁には穴を開けてある。だが、魔法使いは目敏い。そのままにしてあれば、巡回のときに気付かれる」
「蓋をしてあるってことですか?」
「そういうこった。この暗がりの中じゃ見えるものも見えねぇ。身をのりだして真っ逆さまなんてごめんだ」
「あたしたち、どのくらい登ってきたんですか?」
「知りたきゃ明かりが来てから確かめな。すすめはしねぇが」
そうこう話しているうちに、あの重苦しい気配が戻ってくるのを感じた。またガタガタと物音がしたと思うと、橙の輪が膨れ上がった。
闇が払われ、光が赤みを増す。
その中にひょっこりと禿頭が現れた。
ミラは悲鳴を呑みこんだ。
目が合った。
禿頭の男が苦笑して、小部屋へと這い上がってきた。
「安心してくれ、嬢ちゃん。アゾルフさんの連れを取って食うほど、俺は肝の据わった男じゃねぇからよ」
そうは言ったものの、男の相貌は厳めしかった。一方の目に深い裂傷の痕がはしり、鼻は歪に曲がっていた。
「それはともかく、ロープももってきました。あまり長くはないですが」
「ああ、忘れちまってたぜ。助かる」
男は異様に体格がよかった。筋骨隆々で、おまけに手足まで長い。
にもかかわらず部屋の天井は低かった。アゾルフでさえ腰を曲げて座っているくらいだから、きっと屋根裏部屋かなにかなのだろう。
「嬢ちゃん、怖がってくれてもかまいやしねぇが、ちょっと場所をあけてくれ。外に出たいんだろ?」
「は、はい」
やはり恐れは払拭できず、縮こまって後ずさる。
すると男が、空白を埋めるように這いつくばった。
明かりが辺りを濡らすと、入口が布に覆われていると判る。おそらく屋根から垂れた撥水布だ。秘密の小部屋を隠すカモフラージュなのは間違いなかった。
布をめくると、すぐ正面に隔壁がある。一見しただけでは、なんの変哲もない壁のようにしか見えない。
だが、よくよく目を凝らしてみれば、わずかに窪んだ個所が見て取れる。男はそこに指をねじ込んで、力任せに引き抜いた。
「……わぁ」
そこに濃緑の世界があった。四角く切り取られた風景画があった。
見たことのない美しさがあった。
「これが外の世界……?」
感嘆の息がこぼれた。
アゾルフがそれを掬い上げた。
「そうさ、これが外の世界。誰の束縛もねぇ、自由の世界さ」
「すごい」
「ああ、すごい。だが、すごすぎて危険だ。気を抜けば死ぬ。外では死だって自由だ。それでも行くんだな?」
ミラはごくりと喉を鳴らし、小部屋の二人を見比べた。次いで隅にわだかまった闇を見た。
死だって自由。
怖かった。死にたくないと切に思った。
それでも、これ以上は耐えきれない。すぐにそう思った。
ガゼルに隷属して生きるのは辛い。義弟たちが日々荒んでいく姿を眺め、罪悪感に苛まれ、恨まれる。もうごめんだ。
「……行きます。この街を出ます」
できることならば、アヌベロも連れて行ってやりたかった。
傷つきながらも優しい義弟と、ともに旅立ちたかった。
でも、あたしは卑怯者だから……。
たった一人でやって来てしまった。
あばら家の暴君を弑することのできぬまま。愛しい義弟の喪失を恐れて。
逃げ出してきてしまった。
「……幸運を祈るぜ、嬢ちゃん」
「俺もだ。無理だと思ったら帰ってきな。日が中天にある時、壁を叩け。そうすれば、また蓋をあけてやるから」
「ありがとうございます」
ミラはアゾルフを抱きしめ、男の手を取った。
「さっきは怖がってごめんなさい」
厳めしい顔が破顔した。
「気にしてねぇさ。それより、腕あげな。ロープ結んでやるから」
「はい」
手際よく命綱が繋がれた。
いよいよ旅立ちのときだ。
穴の縁に手をかける。眩い緑の世界が迫る。
頭を突きだし見下ろすと、胃の腑が縮まるほど高かった。
生唾を呑みこみ、振り返った。
「行ってきます」
二つの頷きが返ってきた。
長くは見つめなかった。名残惜しくなる気がしたから。
意を決して向き直り、転がるように飛び出した。
「きゃあッ!」
たちまち、ぐっと大地が迫った。空気の塊が吹きつけた。世界が巨大な槌となって、頭を叩きつけようとするようだった。
しかし命綱がピンと張りつめ、跳ね返った。何度も宙を上下した。
クラクラした。中のものが腹と胸を行き来して、気分が悪かった。
けれど命綱を解き、緑のクッションに受け止められたとき、途方もない感銘がこみあげてきた。
風が涼しかった。小鳥の囀りが澄んでいた。草木の匂いが甘かった。
知らない感覚ばかりだ。
眩暈や吐き気はちっぽけだ。自分の感覚はちっぽけだ。
外は、すべてが大きい。自分が感じているもののはずなのに、どれもが大きく鮮明で、誰かの五感を借りているような気になる。
これからあたしは、ここで生きていくんだ。
そして感覚の奔流は、これまでに感じていた多くのことを洗い流し、途方もない空白を生み出した。
義弟や老爺の顔が脳裏をかけめぐり、消え、膨張して、消えた。
ミラは孤独を自覚した。
誰も助けてくれる者はないと。
どんな美しい世界にも、もう自分以外に頼れるものはないのだと。
なにから始めればいいか分からない。どこへ向かえばいいのかも分からない。
たゆたう雲がすっかりちぎれてしまうまで、ミラは茫洋と虚空の過去と対峙し続けた。
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