十七章 分の悪い賭け

 雨粒に瞼を叩かれ、エヴァンは我に返った。


 天涯に蓋をする雷雲はいまや紫紺に煌めき、脈打つように稲妻を迸らせていた。雷鳴は天地を割るように響き渡り、方々から押しよせる破壊の反響とまじりあい渦をまくようだった。


 雷の手が天にひらかれれば、指の一本が〝九つ頭〟の頭上に長くいびつな爪をのばした。三の頭が貫かれた。


 突如、氷山めいた巨人が歩みをとめた。唸り声ひとつあげることなく、ただ立ちすくんだ。


 威容を見上げたエヴァンは、どうかこの化け物を冥府の女神ヘロウへと送り届けてくれと名も知らぬ雷の神に乞うた。


 しかし神の手は、瞼の裏に残像を焚きつけただけだった。

 雷を受けて岩山が身悶えることがないように、ヨトゥミリスもまた雷を意に介さず歩きはじめたのだ。

 

 たて続けに視界が白んだ。

 アオスゴルの近くに白い槍がつき刺さり、凍てついた大地を焦がした。

 それは愚かな願いを乞うた人族への叱咤だったのかもしれない。


 その時エヴァンは、白い槍から熱波がふき荒れ、およそ四分の一マイル離れたこの地までもが焦土に変わる光景を幻視した。

 

 幻は刹那だった。

 はっとして手を見下ろすと、ひどく震えていた。


 恐怖ではなかった。

 目を射る閃光に、彼の中のなにかもまた射抜かれ、砕け散っていた。


『――ン。エヴァン」


 それは仲間の死によって暗く翳った心が、無意識に奥へおくへと封じこめてしまった記憶だった。


 中から芽吹くのは、セピア色の情景。彼を形作ってきた、無数の枝葉の一つだ。


『エヴァン……どうやら儂は、ここまでのようじゃ』


 雨音がひき延ばされ、雷鳴が潰れた。

 現実の音色をぬり替えたのは、弱々しい嗄れ声だった。

 彼はその声をよく知っていた。脳の芯にまで声や言葉、志を刻みつけたはずだったのだ。


 しかし日々の営みに摩耗した心は、いつの間にかその記憶を暗い深淵の中へと封じてしまっていた。


 エヴァンは自嘲的に笑い、記憶の枝葉にそっと手を伸ばした。


『あとは任せた……。抗い、生き、人を生かすのだ』


 そう言った師の姿を、今でも鮮明に思い出すことができる。


 老いてなお屈強であったエズは、片腕、片脚からおびただしい量の泡立つ血を流し、煙を噴きながら倒れていた。頭部にも出血があり、鴉鉄からすがねの胸当ては内側から破裂、腹部は襤褸雑巾のようにねじれていた。羽織ったローブも半ば灰と化し、杖は木端となって散らばっていた。生きているのが不思議でならないほどの重傷だった。


『未来のため。儂とお前が出会った、人と人が出会う世を守るために……頼んだぞ』


 意識を失うまでの間、エズは殊勝な笑みを浮かべ続けていた。残った手で拳を握り、震える弟子の許へそれをさし出しまでした。


 弟子もまた拳を作り、それを打ち合わせた。乾いた音が鳴った。最後の会話だった。その後、師は奇跡的に一命をとりとめたが、二度と杖を掲げることはなかった――。


 エヴァンは、遠い記憶とともに拳を握りしめ目を伏せた。

 雨音が脳を叩き、雷鳴が胃の中で暴れた。


「……南だ」


 まなじり決して呟いた。濡れた樹皮を掴み、泥の上へ着地した。雨粒を呑み、肺がはち切れんばかりに息を吸いこんだ。そして、吐きだした!


「南だあああぁッ!」


 絶叫に楡の木々が震えあがり、葉に溜まった雨粒が滝のように降り出した。仲間たちもまた雷に打たれたようにびくりと震え、エヴァンを見た。気を失っていたパックまでもが目を見開いた。


 その時、楡の森近くに小型ヨトゥミリスが徘徊していた。〝九つ頭〟から生み出されたそれは、叫びを聞きつけ楡の森へと跳びこんだ。


 エヴァンはとび散る雨粒と、殺戮者の荒い呼吸を聞いた。落ちた杖を拾い、すぐさま詠唱の文言を呟いた。


「応えよ、神風。汝は一粒の雨をも逃がさぬ千の刃。汝は雷にも捉えられることなき敏なる翼也」


 片腕を腰で溜め、踏みこんだ。

 泥がとび散った。降りしきる雨をみどりの翼が弾き返した。


 木々の間隙から異形がおどりでた。雷光がひらめいた。世界がモノクロームに明滅した。


 背景の白が失せると、二つの影はすでに交錯していた。

 小さき者の手のなかで、碧の太刀がうなりをあげた。


「ゴッ……」


 数瞬の後、小型の脇腹から血とはらわたが飛びだし、楡の幹を赤くそめ上げた。巨躯はくずおれたが、それでもなお泥で傷口を埋めようとでもするように地をかきもがいた。

 そこへ容赦ない一閃が振りおろされた。ヨトゥミリスの喉から鮮血がしぶき、身体が大きく跳ねあがった。


 エヴァンは杖を振りぬき、仲間たちへ振り返った。返り血にぬれた相貌に、決然とした二つの輝きが瞬いた。


「私は南へ向かう。混乱した者たちを導く必要がある。貴様らにまだ生きる意志があるならば、私に続け」


 おずおずと樹上から魔法使いが下りてくる。


 半狂乱に陥った二人は震えているものの、どうやら束の間、正気をとり戻したらしい。ばつが悪そうにエヴァンを見返していた。


 サイフォンが口を開いた。


「あの馬鹿でけぇのを前に、南へ向かって意味があるんですか? もう誰も助かりやしませんよ……」

「皆がそのような心持ちならば誰も助からんだろうな」


 エヴァンはぴしゃりと言った。


「だが、我々はまだ生きている。最後まで、できることをすべきではないか? 私は生き残った者らを南へ導き、海を目指そうと思う」


 とたんに仲間たちの表情が凍りついた。パックが自らを抱くように胸のまえで腕を組んだ。


「恐れながら中尉、海を渡ろうなんて正気とは思えません……。海には、あのヲームルガドラがいるんですよ?」


 このミズィガオロスに、未だかつて海の外を見た者は存在しない。航海に踏み切った者たちは、皆例外なく、海の底へ呑みこまれ死んでいった。


 大海蛇ヲームルガドラ。

 身動ぎだけで津波を起こし、舌をだすだけで千の命を奪うといわれる海の支配者。


〝古の時代〟には討伐を試みた猛者もいたらしい。しかしかつての文明の力を以てしても、たった一匹の大海蛇を討つことはできなかった。大海蛇の刃のような鱗は、如何なる武器も魔法も通すことはなかったのだという。


 その棲家たる海へ赴こうというのだから、彼らが正気を疑うのも無理はなかった。エヴァン自身、無謀な決断であることは承知しているつもりだ。


「そうだな。しかしあの巨人は、自ら小型を生みだし続けているようだ。いずれ瀑布からも巨人が現れるだろう。ここに留まれば、遅かれ早かれ死ぬ。ならば乾坤一擲、足掻かねばなるまい」


 エヴァンは仲間たちを見わたし言い切った。

 仲間たちは互いに目配せした。


 その時、〝九つ頭〟の一歩が大地を震えあがらせた。

 パックが恐怖に喘ぎ、胸を押さえた。他の仲間たちも大きく目を見開き、震えあがった。


「強要はせん。だが私は行く。すぐにだ。舟を作る時間もどれだけ残されているか解らんしな」


 実際問題として、あの山のようなヨトゥミリスが二体も存在する中、舟をこしらえる時間があるかどうかは定かでない。そもそも、海の向こうにミズィガオロスのような大地があるとは限らない。


 無謀な賭けである。

 それでもこの身ある限り、望みを捨てるべきではないはずだ。


 この身に宿る魔法は、鍛えられた心は、ミズィガオロスに生きるすべてのものを守るための力だ。人類の存亡が危ぶまれる状況だからこそ、今ある力を信じ邁進しなくてはならない。


 エヴァンは仲間たちに踵を返し、重い一歩をふみ出そうとした。

 その隣に一人の魔法使いが並び立った。

 ホルクスだった。


「俺も行きます。自分の死に方くらい、自分で決めたいので……」

「莫迦を言うな。貴様は自分の生き方を決めたのだ」


 仲間の言葉を一蹴すると、エヴァンは南へむけて駆け出した。

 ホルクスはすぐさま強化魔法を行使し並走した。


 仲間たちはすぐに雨の煙の向こうに見えなくなった。

 結局、他の魔法使いが付いてくることはなかった。


                ◆◆◆◆◆


 マクベルから半マイルばかり南へ下ったところに、カルハブラの森がある。カルハブラの木々はさして大きくないシャラの木ばかり。低地を隠す下生えもほとんどなく、ヨトゥミリスの目を誤魔化すのに適した逃げ場とはとても言えない。


 故に、カルティナたちの背後には、大型ヨトゥミリスの威容があった。鈍重ではあるが、その一歩はあまりに大きく、疲弊した魔法使いが逃げきるのは容易でない。


 だが彼らには勝算があった。

 尤もそれは、ひどく分の悪い賭けであったが。


 赤褐色の木々の間を、人族の影がぬう。腕、足、マントにいたるまで、決して木々に触れることなく。


 しかし巨大な肉体をもつヨトゥミリスはそうはいかなかった。特に大型ともなれば、木々が邪魔で仕方がない。草を払うように、木々を薙ぎ払いながら驀進ばくしんする。白い花がふわりと舞い上がり、たちまち雨に叩き落とされて萎れる。


 カルティナたちは振り返らず、ひたすら南を目指し走った。中にはすっかり頬が上気した者もいたが、誰も隠れてやり過ごそうとする素振りはみせなかった。


 何故なら、この森には〝悪魔〟が棲んでいるからだ。


 木々に触れ足を止めれば最後、怒り狂った〝悪魔〟たちは、自らの命も顧みず闖入者の排除を敢行する。


 そしてそれは今まさに、森を荒らすヨトゥミリスへむけ烈しい怒りを爆発させていた。


 折れた木々の中から、褐色の粒がぞろぞろと溢れだしていた。それらは雨の中でも怯まず、怒りに我を忘れたように巨人へと猛進する。さながら地の神の威光を受けた大地の荒波であった。


 肉食蟻――〝肉食にくはみ〟である。


 彼らは木々の幹をくり抜いて巣を作り、その表面から伝わる振動で獲物を識別する。振動ひとつ感知すれば、どんな巨大な相手にも臆せず襲いかかる、矮小なる挑戦者である。


 中でも特筆すべきは、獲物をその目にうつす限り、雨に流されようとも立ち止まることない執念と、疾風のごとき俊足だった。


 たちまちヨトゥミリスの許に〝肉食み〟が殺到した。爪先や踵から、褐色の軍隊が猛然と這い上がってゆく。


 見る間に脛の中ほどまでが褐色のうねりに呑み込まれた。

 まるで足許から肌が粟立ってゆくかのように。


 これにはヨトゥミリスの頑強な外殻も意味をなさない。〝肉食み〟は、外殻の僅かな隙間にまで入りこみ、少しずつ肉を喰らってゆくのだ。筋肉で補強された頑強な肉体も、金属の顎をもつ〝肉食み〟の前では紙切れ同然だった。


「ゴアァ! ゴ、ゴゴゴッ……」


 ヨトゥミリスは痛みに喘ぎ、片脚を押さえた。

 その間にも〝肉食み〟の大群は、獲物の四肢を絡め取ろうとする蛇の如くヨトゥミリスの巨体を蹂躙する。


 カルティナたちとヨトゥミリスとの距離は、徐々にひらけていった。

 だが足を止めることはない。怒りに喰われるヨトゥミリスの姿も、一瞥に留める。

 減速するどころか、泥を跳ねあげ加速した。


「かなりの数が来てるぞっ……!」


 息も絶えだえにリッキルが言った。


 背後に褐色の濁流があった。

 彼女たちもまた〝肉食み〟の獲物として認識されていたのだ。


 高速移動の余波で木々が振動し、方々の洞の中から血肉に飢えた捕食者が溢れ出してくる。


〝肉食み〟の足は恐ろしく速い。魔法を行使したカルティナたちでも、ほんの少し足を緩めれば、すぐさま血肉の泡と化す。互いの身体を押しあいへし合いしながら、大群は怒りの牙を前へまえへと伸ばすのだ。


 逃げ切れるかしら……。


 幸い、〝肉食み〟は決して森の外へでない特異な習性をもつ。嗅覚に優れない彼らが孤立しないための習性だと考えられているが、たしかなことは枢都の識者の間でも未だ解明されていない。


 とにかく森を脱出することさえできれば、ひとまず安堵に胸を撫でおろせるのはたしかだ。

 

 問題なのは距離。このまま直進しても、森の外へ出るまで三マイル以上ある。体力を消耗している彼らにとって、その距離を、魔法を維持しながら全力疾走するのは容易でなかった。


 リスクを負ってでも、街道を進む状況は避けなくてはならなかった。あの二大巨人を目にして、南北のいずれかに逃走を図った者たちがいるはずだから。


 だが、そのために自分たちが犠牲になるのか?


「……っ!」


 カルティナは弱気な自問を、唇を噛んだ痛みで焼き消した。


 雷雨ふりしきる中、渇いた喉を諌めながら彼らは走った。一縷の望みへと手を伸ばしながら。


 ところが現実は、そう簡単に望みあるものの手中に、玉を握らせてはくれない。


「うあっ! やめ、こないでっ……たす――」


 一瞬の痛みにつんのめったリッキルが褐色の波に呑まれたのは、雷鳴が瞬くのと同じ刹那の出来事だった。


 リッキルは抗った。悪魔の腹の中で炎魔法を行使し、焼き払おうとしたのだった。


「いた、いだいぃ! いだ、いだあぁ、ああ! あああっ……!」


 だが、徒労に終わった。


 絶えず降りしきる雨に炎は弱り、空間という空間をおおう褐色の波は、すぐに酸素をかすめとった。得意の水魔法で全身を覆うこともできただろうが、彼の行く末は変わらなかったに違いない。いずれ魔力が尽き、より凄惨な最期が待っていただろう。


「あああぁぁ――」


 悲鳴は雨音と雷鳴におし潰されて消えた。


 褐色の人型がこんもりと浮かび上がった。それがカルティナたちへ手を伸ばし、小刻みに震えながら、うつ伏せに倒れた。


 誰もその手をとる者はなかった。

 戻れば、止まれば、待っているのが死だと知っているからだ。


 ヨトゥミリスの猛攻から逃れられたとしても、この道を選んだ以上、森を抜けるまでデッドレースは終わらない。


〝肉食み〟は仲間たちのテリトリーまでバリバリと破壊しながら、いよいよ氾濫した激流の如くカルハブラを侵しはじめる。


 カルティナたちはギリギリと奥歯を噛みしめ、魔法に集中する。意識の手綱をほんの一時でも手離せば、魔法の精度はおち、くず肉へと変えられてしまうだろう。消耗し目を開けているのも困難な中、恐怖や後悔に囚われていては前に進めなかった。


 下手くそな抽象画のような景色を視界のはしに捉えながら、カルティナは吐き気を堪える。負荷が大きい。徐々にではあるものの、風の力も衰えてきている。


 その証拠に、先程まで後ろを走っていたはずのファゼルが隣を走っていた。彼は治癒魔法にすぐれる治癒術師で、強化魔法の扱いには不慣れだったにもかかわらずだ。


「兵長、大丈夫ですか?」


 この森を抜け出せるか。抜け出したあとどうするか。


 カルティナの中で、沸々と疑問が浮上しはじめた。


 畢竟ひっきょう、そんなものは解らなかった。

 だがここまで付いてきてくれた仲間に無用な憂慮を抱かせるわけにはいかない。こちらの心情を悟らせるわけにはいかない。


 カルティナは片方の口角を上げ、両の瞼をいっぱいに開いて狂った笑みを浮かべてみせた。


 ファゼルは数瞬の動揺を見せたのち、自らも微笑んだ。この絶望的な状況の中に見る狂気は、むしろ彼を安堵させるよい材料となったようだった。


 とはいえ、状況が好転したわけではない。彼らの足は決して速まらず衰え、〝肉食み〟の数は増えてゆくばかりだった。


 森の終わりも見えない。〝肉食み〟との距離は、ほんの数ヤードにまで迫っていた。


 稲光が、暗くなる視界を殴りつけるように瞬く。

 それが空の口を閉ざしたのだろうか。

 不意に雨のいきおいが衰えた。


 雨の障壁が薄れるやいなや、西の巨人が動き始めた。

 微かに地が波打った。身震いするようにシャラの木が揺れた。


 その時だった。

〝肉食み〟の動きに乱れが生じたのは。


 一方向に猛進していた波が渦を描き、怒りの矛先を衝突させたのである。


 後方から生じた微かな衝撃波と大地のゆれに〝肉食み〟は混乱していた。視力も嗅覚も衰えた彼らにとって、信頼できるのは触覚しかなかったからだ。


 カルティナたちはこの機に、ひときわ成長した大樹へと跳んだ。風の力を仲間たちにまで伸ばし、樹上へゆっくりと降りたった。カルティナとファゼルは同じ木で、ハリュトスたちは隣の木で荒い息をはき出した。


 地上へ目を向けると、先のゆれに反応した〝肉食み〟がぞろぞろと北へ進軍してゆくのが見えた。雨の打ちつける振動には反応せずとも、この強いゆれまでは無視できなかったらしい。


「もう少しで半分と言ったところでしょうか」


 雨のいきおいはほとんど小雨と言っていいほど弱まり、おかげで随分と声を聞き取りやすくなっていた。


「ええ、そうですわね。ところで、あなたお名前はファゼルでよろしかったかしら?」


 班を組んだ時点で全員の名前は確認済みだったが、普段の編成にないメンバーの名前を覚えるのは難儀なものだった。特に集団行動を苦手とするカルティナにとっては。


「はい、ファゼル一等兵であります」

「ごめんなさい、名前を覚えるのは苦手ですの」


 年下の女兵長にそう言われ、ファゼルのプライドはいくらか傷ついたかもしれない。だが彼は、それをおくびにも出さなかった。


「いえ、お気になさらず」

「では、遠慮なく訊かせていただきますけれど、あなた、魔力はまだ残っているかしら?」


 問いかけるとファゼルは、担いだ女性を幹にもたせかけてやりながら答えた。


「そう多くは残されていませんが……何故ですか?」


 カルティナは自らの足まで覆い隠した大樹のマントをおもむろにめくりあげた。


 ファゼルは若い女の脚を見て恥じらうように目を伏せたが、その数瞬あとには、驚愕に頬を引きつらせていた。


「……まさか〝肉食み〟に?」


 カルティナの足、その膝から下は血に塗れて真っ赤だった。出血量の割に傷は深くないようだが、そこここに赤い肉がのぞいている。中には〝肉食み〟の頭部だけが未だ肉を噛んでいる個所もあった。


「そのようですわ。幸い数が少なかったので、すべて殺しましたけど」


「治癒の余力なら、まだ。治療を行うだけなら、むしろ魔力は回復するでしょうし、問題ありません。しかし、傷を完治させるには時間がかかりますよ」


「よろしくてよ。どのみち休まないと、もう体力がもちそうにありませんの」


 目下の危機から逃れた所為か、カルティナの心には綻びが生じていた。部下を励ます余力はつき果て、むしろこちらを励まして欲しいとさえ望んでいた。興奮が冷めてきたことで、過負荷症状による精神の疲弊がより表出してきたのかもしれない。


 おもむろに頷いたファゼルが治癒魔法を行使し始めると、カルティナは細く長い息を吐いた。


 精神に乱れが生じているのなら、すぐに正さなければならない。いつ動き出さなければならなくなるか判らないこの状況下で、鬱屈としたままでいては、仲間まで危険にさらす恐れがある。


 実際、ミズィガオロスは今、予断を許さない状況だ。東西双方から歩み寄る、恐ろしく巨大な二つの影は、終末の化身そのものだった。


 片や東にそびえる〝九つ頭〟。

 ここからはまだ遠い。歩調も緩やかだ。〝肉食み〟も、あれの振動までは感知できていなかった。あれがカルハブラに根を下ろすまでは、まだ半刻と猶予がありそうだった。


 だがもう一方はどうか。

 全身に黒い鎧をまとった、あの巨人は。

 

 正面こそ〝九つ頭〟に向いているが、いつこちらに進撃してきてもおかしくない距離にいる。おそらく十マイルと離れていないだろう。


 特異な形態も不気味だ。


 ヨトゥミリスの肌や外殻は総じて紺青で、どこかぬめり気のある光沢をもっているものだ。だが、あれは全身が鋼に似た黒。光沢も金属に近しく、肩の半球状の物体と隻眼だけが絶えず黄金こがね色の光を発している。腰には袴のように下へ行くにつれて広がる謎めいた部位があり、背部には、背中から脚にまでずらりと刺のような突起が生えている。加えて外殻の隙間や、柔らかそうな部位が一切見受けられず、暗雲の下で光る隻眼さえ、どこか硬質な印象を受けるのだ。


 あれに勝てるものなど、他にいるのか……?


 カルティナの目には、〝九つ頭〟よりも黒鎧のほうがよほど化け物じみて見えた。


 ところが、ひたすら西へ向かう〝九つ頭〟とは違い、黒鎧のほうは、どうも様子がおかしかった。


 というのも、あれはまだ一歩も前に進んでいないのだ。

 焦ったように一歩ふみ出しては、ふらついて同じ場所へ戻る。それを繰り返し続けているのである。


 カルティナには黒鎧が、今しがた歩行を覚えようとしている赤子のように見えた。


 思いこみを払拭しようと隣の樹上へ目をやると、ハリュトスがディーンを寝かせているところだった。ディーンの顔は蒼褪めているが、出血は止まったのか、鼻の下の血は乾いていた。


 深呼吸し、黒鎧の巨人へ視線を戻す。

 天を衝く威容は、まだふらふらと前に進んでは後退を繰り返していた。


 カルティナの中で沸々と疑念が浮かび上がってきた。


 あれは本当に、我々の知るヨトゥミリスなのか?

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