第292話 ロイスマリア武闘会 ~一歩先へ~
大会一日目の第三試合までが終了した。これまでの戦いに興奮が冷めやらぬ観客達は、本日の最後となる試合に心を馳せた。世界各地には、戦いの映像がペスカのわかりやすい解説付きで届けられ、多くの者達を熱狂させていた。
そしてこの日、エルラフィアのとある街でも、歓声が起こっていた。先の大乱にて、モンスターの大群から街を守り抜き、王都に上京した少年剣士ゼル。彼を応援する為に。
エルラフィアでは既に知名度の有るゼルが会場へ姿を現すと、人間側の観客席から歓声が上がる。しかしベヒモスの登場は、その歓声を打ち消す程に圧巻であった。空からゆっくりと降りてくるベヒモス。ドーム球場を何個も収容出来る程に大きい円形の試合会場は、ベヒモスが降り立つだけで窮屈さを感じさせる。その体には、使い切る事が無いと思わせる程に大量のマナが渦巻き、周囲の空気を蜃気楼の様に歪ませる。圧倒的な存在感を放つベヒモス。そして会場に着地すると、地響きが起き風が舞った。
象の様な容姿であるベヒモスの体は、小さな山にも匹敵する。人間からすれば、見上げる様であろう。その巨大な体躯故に、開会式には不参加であったベヒモス。世界一巨大な生き物を目の前に、依然として盛り上がっているのは魔獣側の観客席のみ。亜人側の観客席からは、息を呑む様などよめきが広がり、人間側の観客席からは溜息が漏れていた。
山の様に巨大なベヒモスを前に、ゼルは少し身を震わせる。なにせ相手は、大きいだけではない。剣など簡単にへし折ると思わせる程に、全身の皮膚は頑丈そうに見える。どう戦い、どこを狙えば良いのだろう。考えを巡らせるゼルの遥か上空から、柔らかな響きの声が聞こえた。
「僕の事が怖いかい?」
覗き込む様にし、ベヒモスはゼルに問う。ゼルは圧倒的な存在感に似合わない柔らかな口調に、少々驚きながらも首を縦に振った。
「はい怖いです。ただ・・・」
言い淀むかの様にゼルの言葉が途切れる。その瞬間、ゼルは母の事を思い出していた。自分の事を応援し続けてくれた母、その母を助ける事は出来なかった。思い出せば、今でも胸が苦しくなる。
あの日ゼルは痛みと共に冬也から教えられた、何もかもが足りていないのだと。それからゼルは考え続けた、何が足りないのかを。技か、力か、それとも違う何かか? しかし、どれだけ考えても答えには辿り着かなかった。
ある日の巡回で、ゼルは声をかけられた「いつもご苦労さん」と。見慣れた王都の住人から、笑顔を向けられゼルの心は温かくなった。それはほんの些細な事だった。ゼルは、その笑顔をじっと見つめて暫く佇んでいた。
「わかるかゼル。お前に向けられた笑顔の意味が、お前にわかるか?」
「隊長?」
「お前は真っ直ぐな男だ。憧れが有るなら、それを目指せば良い。だけど忘れちゃいけない。目的と目標をすり替えちゃいけない。シグルド殿への憧れは、お前の後悔を埋める為に有るんじゃない」
一緒に巡回していたトールは、両腕を大きく広げる。
「見ろよゼル! この光景は、俺達、いや世界中のみんなが戦って勝ち取った物だ! 平和だろ? 俺はこの平和を守りたい、お前はどうだ? お前は何でもう一度剣を握った? お前にも有るんだろ?」
その時ゼルは悟った。自分は後悔する余り、いつの間にか視野が狭くなっていたのだと。本当に守りたかったものは、何であったかを。
母の笑顔がもう一度見たかった。もう心配ないと言いたかった。祖父や故郷の人々は、いつも優しかった。だから守りたかった。だから剣を取り戦った、守る為に戦った。単純な事だ、でもそれだけで良かったのだ。
「何もかも背負った気になるな・・・か。確かにそうだ。俺はまだまだ足りない事だらけだ」
その日ゼルは、改めて母の魂に誓った。自分は前に進み続ける事を。
☆ ☆ ☆
ゼルを覗き込んだベヒモスは、瞳の中に宿る意志を悟り、再び問いかけた。
「ただ、何だい?」
「一番怖いのは、あなたから何も得る事無く、敗北をする事です」
その言葉に、ベヒモスは円らな瞳を細めた。
「強いね。君はとっても強い。俺も君や我が王の様に強かったら」
そう呟くとベヒモスは、そっと目を閉じた。
ベヒモスは、食物連鎖の頂点である事を放棄した存在である。他の魔獣はもとより、小動物も食らった事は無い。
食われるだけの小動物を憐れんだだけでは無いが、ベヒモスはドラグスメリア大陸西部から南部にかけての広大な敷地に果実の成る木を植えた。もしベヒモスの行動が無ければ、生まれて間もなく親元を離れた巨人の子供が、成長する事も山の神や冬也と巡り合う事は無かっただろう。
誰よりも優しい魔獣であるベヒモス。その優しさ故に、悲劇は起きた。邪神ロメリアの残滓が、大陸西部を襲った際に、ベヒモスは他の魔獣の盾となった。例え残滓とて神の洗脳は強力である。単一の存在のみで抗えるものではない。そしてベヒモスは、邪神ロメリアの手に落ちた。これが引き金となり、四大魔獣が次々と邪神の手に落ちる事になり、ミューモを襲う結果となった。
ベヒモスは、今でもこの事を悔いている。だからこそ、研鑽を重ねて来た。二度と間違わない為に。
そして向かい合った両者は、互いに何かを掴み取ろうと闘志を漲らせる。冬也から告げられる試合開始の合図。開始と共に両者は動いた。
鋼鉄で出来た極太の鞭と言っても過言ではない。ベヒモスの長い鼻がしなりながら、空を切り裂きゼルに迫る。振り下ろされるベヒモスの鼻をまともにくらえば、どれだけマナを集中させて肉体を強化しようと、ゼルの全身は木端微塵に砕けるだろう。掠っただけでも、致命傷は待逃れまい。ゼルは巧みにベヒモスの鼻を躱しながら、懐に入るべく機会を伺う。ゼルとベヒモスでは体格が違い過ぎる、鞭の様にしなりながら、速度を上げて襲いかかる鼻を避けるだけでも、至難の業である。ましては、それを掻い潜り懐に潜り込むなど不可能に近いだろう。
ただ一見する限り、ベヒモスの視界は狭いに違いない。前方にある頭部についた小さな瞳では、体の左右どころか後方など視認出来るとは思えない。ゼルはそう仮定すると、正面から間合いを詰めるのを諦めると、走る速度を上げベヒモスの左側に回り込んだ。
ゼルの誤算だったのは、ベヒモスが格闘ではなく、魔法を専門としている事だろう。周囲の動きはマナで感知している。どれだけ俊敏にゼルが動こうとも、ベヒモスには手に取る様にわかる。
背後を取ろうと懸命に走るゼルであるが、ベヒモスも体を反転させながらゼルを負い、鼻をしならせて再三に渡る攻撃を仕掛ける。
この大会は、魔法の使用を禁じていない。もしベヒモスが、魔法を使って攻撃をしていれば、この時点でゼルの敗北は決していたかも知れない。だが、ベヒモスは肉体強化と周囲の感知以外に魔法を使用していなかった。ベヒモスは、目の前に居る高潔な少年と、同じ土俵で堂々と戦いたかった。必要以上の魔法は無粋だと感じていた。
そしてゼルは事前に聞かされていた。ベヒモスが魔法を得意としている事を。例え格上だとしても、不得手の戦法で戦う相手には負けられない、負けたくない。そう強く思っていた。
ゼルにとってこの戦いは強者への挑戦であった。
一見、ベヒモスの攻撃から逃げ回るだけの様に見えるゼルの動き。ただ、観客達は気が付いていない。それがどれだけ凄い事なのかを。
ベヒモスの鼻が振るわれる度に、空気が裂かれて突風が巻き起こる。合わせて、鼻先から放たれる強烈な鼻息。それはまるで刃の様にゼルを襲う。近距離から中距離に渡って放たれるベヒモスの攻撃を、回避し続ける事こそがゼルの天才たる証でもあろう。
激しい攻防は続き、段々と観客達は魅了されていく。恐らく多くの者が、一方的な展開を予想していたに違いない。ベヒモスの登場以降、意気消沈していた人間側の観客席からも、歓声が上がり始めた。
避けながらも隙を伺い動き続けるゼルと、ゼルを追い攻撃を繰り出し続けるベヒモス。ただ、素人でさえも勘付く事に、ゼルが気が付かない筈はない。対格差の違いは、体力の違いにも相当する。このまま打開策の無い状態で、試合を続ければ必ず敗北が訪れる。
勝てるとは思っていなかった、だが負けたくもなかった。ゼルは懸命に頭を動かす、必ずどこかに状況を覆す鍵が有ると信じて。
閃きは、無為に時を過ごす者の下には訪れない。真摯に向き合い、取り組んだ者の下にしか訪れない。
ゼルは体を反転させる様にし、ベヒモスの下へ潜り込む。その行動は、観客全てに悪手だと思わせた。それもそのはず、ベヒモスはただしゃがむだけで、ゼルを巨大な体躯で圧し潰せるのだから。
しかし、ベヒモスは動かなかった。正しくは、動けなかった。この瞬間、ベヒモスはゼルを見失っていた。確かにベヒモスは視界が狭い。だから、マナを利用して周囲を探る。言い換えれば、マナが消失すれば、感知が出来ない。
そう、ゼルは腹の下に潜り込む瞬間に、気配を消す様にマナを体内に押し込めた。マナでの身体強化をせずに、地力で駆けた。
ベヒモスは、後方部から痛みを感じるまで、ゼルの存在に気が付かない。ゼルは、攻撃の一瞬に剣の先へマナを集中させて、ベヒモスに攻撃を加える。それ以外は、マナが感知されない様に、体内に押し込めて、ベヒモスの死角に回る。
ゼルの一撃は、ベヒモスにとって致命傷とは程遠い。しかし、何度も繰り返されれば、ダメージは蓄積する。それでも、ゼルが優勢になる事は無かった。
ベヒモスはゼルを捉える事を諦め、鼻先から噴出される鼻息で、自身の体を急回転させる。それはまるで、高速回転する巨岩。マナで身体強化していないゼルは、ベヒモスの体にぶつかり弾き飛ばされた。
ぶつかる瞬間に、体がバラバラになる様な痛みを感じ、ゼルは意識を失いながら転がり落ちる。ゼルが意識を取り戻した時には、冬也の口からベヒモス勝利の宣言が告げられていた。
「立てるかい?」
「いえ。難しいようです」
「君は充分強い。だけど、これからもっと強くなる。俺も負けない様に、精進しなければならないね」
勝者に向かって仰向けのままでは失礼だと考えたゼルは、上体を起こしてベヒモスに答えた。痛みが酷いゼルには、それが精一杯であった。
そんなゼルに対し、ベヒモスは円らな瞳を再び細める。柔らかな瞳の輝きは、無理をするなと語っていた。そしてベヒモスは、上空へと昇っていく。
自由に体を動かせず、救護を待つゼル。端から勝てると思っていない、だが負ける事が悔しいとも思っていなかった。もっと戦えた、でも太刀打ちできなかった。悔しくてたまらない。人目を憚る事なく、ゼルは涙を零す。
悔しい、負けたくない、勝ちたい、勝ちたい、必ず、必ず。ゼルは、涙を止める手段を持ち合わせていなかった。
「勝負はな、絶対に勝つって気持ちが無ければ、勝てねぇよ。今日お前が負けたのは、気持ちの差だ」
泣き崩れていたゼルに声がかかる。その声にゼルが顔を上げると、目の前には二柱の神が立っていた。
「ガキは悔しがって泣いてる位が、丁度良いんだ。そうだろ、アルキエル」
「馬鹿か冬也。弱い奴には、興味がねぇ! 相手をしてやるのは、こいつがもうちっと強くなってからだ」
「だってよ。よかったなゼル」
「いいか、調子に乗るんじゃねぇぞ! シグルドの奴は、俺に一撃を加えたんだ。てめぇがその域に到達してぇなら、死ぬほど精進しやがれ!」
そう言い放つと、アルキエルはゼルから背を向ける。
「この敗北を糧にしろよ、天才少年。それでいつかは、俺と勝負しよう。今度はマジでな」
そして冬也もゼルから背を向けた。
以前は冬也に失格の烙印を押された。今回は冬也から勝負しようと言われた。
悔しさに溢れ涙が止まらない少年は、憧れに向かい一歩先へ歩みを続ける、苦難の道を一歩ずつ確実に。次代の英雄はこうして敗北を味わい、強く成長していく。
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