33 忌み子
「ヤーヒム助けて! ダーシャが、ダーシャがっ!」
ゆっくりと静まっていく砂埃の中からヤーヒムの視界に現れてきたのは、やはりフーゴとリーディアだった。
不意打ちのように脳髄を刺激してくる甘美なリーディアの血の誘惑――そんな事に気を向けている場合ではないのだが、懐かしさ、喜び、そして不思議な帰属意識のようなものが渾然一体となってヤーヒムの心に湧き上がってくる。
最近は周囲の人々の血の誘惑を無意識の内に遮断できるようになっていたヤーヒムだったが、リーディアのこの生気に溢れた血の匂いは思わず狼狽えるほどに彼の胸を高鳴らせていて――
「フーゴ、ダーシャを!」
「ヤーヒム、ダーシャの嬢ちゃんがおかしいんだ! なあ、もしかしてお前さんならどうにか出来ないか!?」
ヤーヒムの一瞬の動揺にはお構いなく、切羽詰まった顔で距離を詰めてくるフーゴ。その腕には背中に背負っていた子供が優しく抱え直されている。
それは、彼らの言うとおりダーシャだった。
地下牢に囚われていたヤーヒムの前に、血を提供する生贄として連れて来られた忌み子の少女。その後は無事リーディア達に保護され、ブシェクの宿で養生をしている筈だったのだが、今フーゴの腕の中で見るからに高熱にうなされている。
「ヤーヒム、この子、魔法も薬草も受け付けないの! 昨日の夜から明らかに変で!」
リーディアが乗馬から飛び降り、可憐な美貌を大きく歪めてヤーヒムの腕に縋りついた。相手の密かな動揺には全く気付いていない。
問題の少女、ダーシャはフーゴに力なく体を預け、苦しげに浅く早い呼吸を繰り返している。
気を取り直したヤーヒムが改めて彼女に目を遣ると、意識は混濁し、朦朧としているようだ。大きな外傷はない。少女らしい小柄な身体は記憶にある痩せ細ったものからはかなり回復していた。着ている服も質素ながらも上質な物で、随分と大切にしてもらっているらしい。
だが、それより何よりヤーヒムの目を引きつけたのは、ぼんやりと虚空を彷徨う彼女の瞳だった。それはまるで高位の魔の者のような、鮮やかな紅に変貌しているのだ。忌み子としては形だけの、濃い緋色だった筈なのだが――
「ヤーヒム、昨夜この子、私の神聖魔法を唐突に打ち消してしまったの。忌み子の業を抑える効果の、祝福系の強いやつを。それでいつの間にか瞳の色がこうなってて、それでマーレ達には先に行ってもらって、それで私とフーゴで様子を見ながらパイエルの街の神殿に連れて行こうとしてて、でも今日になったらどんどん熱が上がってきて!」
説明をする言葉と共にどんどん取り乱していくリーディアから、宥めるようにフーゴが続きを引き取った。
「姫さん、落ち着けって。なあヤーヒム、その、コレを言っちゃ申し訳ないが、お前さんも……時々こうなるだろ?」
腕の中に視線を落とし、一度ダーシャの紅い瞳を見遣るフーゴ。
「なんていうか、そっくりなんだよ。神殿に連れていってなんとかしてもらうしかないと思ってたけど、なあ、何か知らないか? お前さんがどうにか出来るならなんとかしてやってくれよ。頼む」
フーゴとリーディアの縋るような眼差しを受け止めつつ、ヤーヒムはもう一度ダーシャの様子を確認した。
忌み子。紅い瞳。こうなったのは昨夜。そして昨夜はたしか月が――
ヤーヒムはゆっくりと息を吸い込んだ。
条件は揃っている。フーゴもリーディアも、それは充分に承知の上だろう。ヴァンパイアならではの嗅覚を持つヤーヒムの鼻には、微かに人ならざる者の匂いが届いている。ようやく苛酷な境遇から逃れたのに、なんということだ……ヤーヒムの思案は重苦しく沈んでいく。
けれど、腑に落ちない点がある。なぜこの状態で留まっているのだ? この状態はまるで……そういえばダーシャには初めに血を与えた。確かあの日は……もしや、まさか…………
ヤーヒムは目を強く瞑り、奥歯を固く噛み締めた。
「……万にひとつの可能性だが、推測はできる。これから取るべき選択肢も、いくつか」
思い当たる悪夢のような可能性に、かろうじて言葉を絞り出すヤーヒム。
「ほ、本当っ?」
「おおおマジかッ! 助かった! で、どうすりゃいいんだ?」
同時に喜色を滲ませ、更に一歩ヤーヒムに踏み寄るリーディアとフーゴ。
ヤーヒムは荒ぶる心を押し殺して言葉を続けた。
「……今すぐどうこうはできない。それより、昨夜、何をしていた?」
「え? あ、マーレの所に報せがあって、私たち全員でザヴジェルに向けて大至急の移動をしていたの。夜駆けしてパウエルの街で馬を乗り継ぐ予定で、でも初めはダーシャも全然元気だったの。私の馬に同乗するのとフーゴの背中に乗せてもらうのと半々で――」
……身を晒しての夜駆け、か。ならばそれで片方の条件を満たしてしまったのだろう。
だが、もう一方は何故?
更に深く沈んでいくヤーヒムの思案をよそに、二人の説明は続いていく。
「――そう、いくら軽いっても姫さんの馬の負担も馬鹿にならないからな。この嬢ちゃんなら乗せても構わないさ。知ってたかヤーヒム、この嬢ちゃん、俺たちがラビリンスに潜っている間に強くなりたいって言い張って留守番の騎士に毎日稽古をつけてもらっていたんだと。お前さんが何か言ったんだろ? 随分と慕われているようだな」
「それでねヤーヒム、日が落ちて夜になったら、急にダーシャは苦しみだしたの」
二人の説明は佳境に入っていく。
その時の状況を思い出しているのか、リーディアの紫水晶の瞳にはうっすらと涙がにじみ始めている。
「瞳の色が変わりつつあって、私が神聖魔法をかけたんだけどそれも打ち消されてしまって。一旦マーレに進軍を止めて貰って念入りにやってもみたんだけど、結局何も変わらなくて。で、話し合いの末に他の人たちには先に行ってもらうことにしたんだけど……ダーシャ、どんどん悪くなる一方で……私、何も出来なくて……必死に魔法を学んできたのに、それが全然意味がなくって……もしかしてこの子……そうだとしたら私、わたし…………」
ヤーヒムの腕を強く握り締め、身悶えるように言葉を紡ぐリーディア。フーゴに力なく抱かれるダーシャの浅く苦しげな呼吸音が、嫌に大きく周囲に響き渡っていく。
ヤーヒムは慰めるともいえる仕草でリーディアの手を叩き、感情を感じさせない声で低く囁いた。
「……状況は分かった。ここで話していても何も出来ない。街へ行き、落ち着ける場所で続きを話そう。それに」
ヤーヒムが振り返ったその視線の先には、隊商を率いるクレメンスと、護衛団を代表してラディムとシモンが遠巻きに彼らを見守っている。
「――あの、皆さん、お知り合いで?」
ヤーヒムは軽く頷き、言葉少なにリーディアとフーゴ、そしてダーシャを紹介した。
◆ ◆ ◆
全員の顔合わせが済み、結局揃って移動を再開した一行がパイエルの街に到着したのは日没の直前だった。
「騎士様、この度は本当に何と感謝を伝えればいいか――」
クレメンスが紹介してくれた宿の前で、鹿人族の親子を代表してヤルミルが何度も頭を下げている。
彼らはこの後、クレメンスとラディムに付き添われて神殿に行く。この隊商の面々なら彼らを託すに足る、短い時間とはいえヤーヒムはそう信じられるようになっている。そうして少なくとも一日か二日は神殿で治療を受けることになるため、ヤーヒムはここで正式に別れを告げることとしたのだ。
「気にすることはない。この先も親子、仲良くな。家族で支え合い、強く生きていってほしい」
「……はい」
潤んだその鹿人族特有の大きな黒い目に、決意を込めて頷くヤルミルと他の親たち。
子供達は荷馬車で横になって眠りに落ちたようで、今はそれぞれの親の腕に抱かれて浅い寝息を立てている。
「さあ、そろそろ神殿に向かいましょうか。暗くなる前に、子供達から順に診てもらいましょう」
クレメンスが話の切れ目を捉え、意識した明るい声で場を取り仕切った。
「ではヤーヒム殿とお連れの皆様、後ほどお会いしましょう。診察の結果などもその時にお知らせいたします」
そう言い残し、クレメンスとラディムは名残惜しそうに振り返る鹿人族の親子を引き連れ、夕闇の雑踏へと消えていった。ヤーヒムは深くかぶったフードの奥から無言でその背中を見送った後、軽く頭を振って自分の心に区切りをつけた。今は別の相手に正対するべき時だ、顎を噛みしめて振り返るヤーヒム。
その場に残っているのはリーディアとフーゴに抱えられたダーシャのみだ。リーディアがシェダ一族の姫君ということで、クレメンスは隊商が泊まる宿とは別の高級宿を手配してくれていた。
「……ねえヤーヒム、本当にダーシャは神殿に連れていかなくていいの?」
「なあヤーヒム、それってもしかして――」
それまで無言を保っていたリーディアとフーゴが、振り返ったヤーヒムに一斉に声を掛けてきた。同行していた鹿人族親子の事情を聴き、彼らなりに遠慮をしてくれていたらしい。
けれど、通常であればここまで具合の悪いダーシャは神殿に連れていくのが一般的だし、彼らは元々そのつもりでこのパイエルの街目指して疾駆してきた。だがヤーヒムはダーシャを神殿には診せたくないという。それはつまり、彼らが口に出さずとも心の奥底で密かに怖れていた、忌み子のダーシャが本当に――
「……話はここでない方が良い。部屋に入ろう」
言葉少なにそう言い残して踵を返したヤーヒムに、フーゴとリーディアは口を閉ざし、沈痛な表情で後へと続いた。
通りの向かいの茶屋から幾つかの人影が歩き出し、夕闇の雑踏に紛れて消える。いつからか尾行していた者達だ。
パイエル一番の高級宿、新緑の薫風亭。
その最上級の
「――で、どうなんだ?」
馬体を横たえ、上半身を形だけソファに預けたフーゴが、遂に待ちきれずに口を開いた。
「やっぱりその、ダーシャの嬢ちゃんは……なっちまったのか、人狼ってやつに」
「フーゴっ!」
フーゴが口に出した死刑判決ともいえる言葉に、リーディアが短い悲鳴を上げた。
――
紅き瞳は魔の証、人系種族にはそういった言い伝えがある。この手の色の瞳に生まれた人間は、満月の晩に凶暴な獣に変貌するという。それが人狼。
人という存在から外れ、敵味方も善悪も全て忘れ、見境なしに暴れ回る危険極まりないけだものだ。
ひとたび人狼になってしまえば人間に戻ることなく、それはもはや国が軍隊を派遣して討伐する第一級の危険魔獣。数十年に一度、大陸のどこかで発生する最優先駆除対象であった。
「ダーシャがそうと決まったわけじゃないわ! 瞳の色がちょっと変わっただけ、まだ人のままだもの!」
リーディアの叫ぶような声に、誰も答えを返さない。
だが、それも一理はある主張だ。紅に近い瞳を持った子供が産まれるとそれは忌み子として忌避される。けれど、実際に人狼となってしまうのは忌み子の中でも数十年に一人いるかどうかの稀有な例なのだ。
そしてダーシャに至っては、濃い緋色という紅からは遠く離れた瞳色だった。リーディアが念のため忌み子の業を抑える効果のある祝福系の神聖魔法をかけており、それを受けていて人狼になった例は未だかつて報告されたことがない。
だが、昨夜の夜駆けで全身に満月の光を浴び、瞳の色が一気に紛れもない紅へと変貌して原因不明の高熱にうなされ始めたのも事実だ。
ヤーヒムが救い、リーディアが保護した筈のこの何の罪もない少女が、危険魔獣として駆除されるなど――
「……そう、ダーシャは半分はもう完全なる人狼だ。血から魔の匂いがしている。間違いない」
フーゴの問いに端的に答えたヤーヒムの言葉に、リーディアはソファに崩れ落ちた。
「だが」
ヤーヒムは話を続ける。
「残りの半分、それはもしかしたら――」
ダーシャは、ヴァンパイアになりかけているのかもしれない。
ヤーヒムは重苦しい口調でそう締めくくった。衝撃のままに口を開け、文字どおり言葉を失うリーディアとフーゴ。
長い沈黙を挟み、やがてヤーヒムはぽつりぽつりと己が種族の禁秘を語り始めた。それはかつて人系種族に明かされたことのない、ヴァンパイアという禁断の種族の真実。リーディアとフーゴはその重大さに居住まいを正し、厳粛な面持ちで耳を傾けていく。
ヴァンパイアに血を飲まれたり、その血を飲んだりしても、それだけでヴァンパイアになることはない。ヴァンパイアになるにはそれらに加えて月の光と儀式が必要である――それは人系社会で一般的に信じられていること。
これは確かな事実だ、ヤーヒムはそう断言する。
「……眷属を作るにしろ新たなヴァンパイアを作るにしろ、親となるヴァンパイアがまずその血を啜り、自らの体内で力を加えたものを子に返す――吸血させなくてはならない。親が力を注ぎつつ互いの血を飲ませ合う、それは絶対的に必要な行程だ」
「え? そ、それじゃヤーヒムとダーシャはお互いに血を……」
「我は人の血を飲まぬと誓った身。それはあり得ない」
ヤーヒムのきっぱりとした否定に、明らかにほっとした様子を隠せないリーディア。視線が少し泳いでいるのは、二人がベッドで互いに血を飲ませ合っている光景でも想像してしまったのかもしれない。
「だが、親となるヴァンパイアとのそうした血の遣り取りの繰り返しが、徐々に子の身体を作り変えていく仕組みだということは理解してほしい」
親の資質と分け与える力の量、繰り返す回数で事の成否と最終的な子の資質が変わっていく。それがヴァンパイアの子なり眷属なりを作る根本の原理だと語るヤーヒム。
「じゃあなんでダーシャの嬢ちゃんが――?」
フーゴの尤もな疑問に、ヤーヒムは深々と溜め息を吐いた。
「……ダーシャをあの地下牢から逃す前に、それまでの傷を消そうと血を飲ませた記憶がある。そしてこれは、ひとつの可能性に過ぎないが」
もしかしたら忌み子の血が影響しているかもしれない、そうヤーヒムは呟いた。
ヴァンパイアが子を作る際の血の遣り取りは、その相手をヴァンパイアという魔に染めていく行程とも言える。だがダーシャは忌み子、元々その血の奥深くに人狼という魔を潜ませていた。
そしてヤーヒムが飲ませたヴァンパイアという魔を含んだ血が、その人狼の魔を刺激し結合増幅してしまっていたとしたら――
「……昨夜満月の光を浴び、人狼の魔が目醒め始めた。だがそれは完全なる人狼ではない。ヴァンパイアの魔が混じったもの、そういう状況に見受けられる。同族には分かる、匂いのようなものを今のダーシャから微かに感じるのだ」
それに、今のダーシャの状態――魔法も薬も効かない、別次元の意識の混濁と高熱――は、ヤーヒムがヴァンパイアになった直後の苦しみと非常に似通っている。
思い起こせば、ダーシャに血を与えたあの夜は、奇しくも
ヴァンパイアがその子を作る際、月の魔力が一番降り注ぐ夜、つまり満月の夜に血の遣り取りをするのが一番親の力が伝わりやすいとされている。
さらに人の目に映らない五つの影月も全て満ちている<新生の月夜>の夜ならば、それは至高のタイミングであるという。
その辺りの要因も影響している可能性が高い、そうヤーヒムは補足する。
「じ、じゃあダーシャはどうなってしまうの」
「……ダーシャの中の人狼とヴァンパイアの魔の状態次第だ、としか言えぬ」
ヤーヒムは視線を伏せ、ため息と共に今後採るべき三つの選択肢を話し始めた。
「ひとつ目は、今からでも神殿に連れて行き、ダーシャの中にある人狼の魔を祓ってもらう方法だ」
これは非常に分の悪い賭けだった。
まず瞳の色を見て分かるように、既にここまで魔に染まったダーシャが手遅れと見做され、問答無用で討伐対象として捕縛通報される可能性が非常に高い。
もし話を聞いてもらえたとしても、ハイエルフの血を引くリーディアの神聖魔力すら弾く今のダーシャに、果たして街の神殿にいる程度の者がどこまで出来るのか。
つまり危険ばかり大きくて、解決出来る可能性はごくごく小さい。出来ればこれは最後の手段としたい、ヤーヒムはそう付け加えた。
「姫さんの魔法ですら効かないんだ。こんな中途半端な街の神殿にそれ以上の事ができるとは思えねえな」
「で、でも神殿には聖水とかあるし」
「……あれはおそらく、我と同様、今のダーシャには毒にしかならぬ」
「そんな……」
「クソ、ヤーヒムの言うとおり、こりゃ最後の手段だな。他がいよいよダメだったら、嬢ちゃんの具合を見ながらにはなるけども、どうにかして王都の中央神殿あたりにねじ込んで言う事を聞かせるやり方を考えようぜ」
フーゴがソファに預けた上半身の肩をすくめ、ヤーヒムに次の選択肢を求めた。
「……二つ目の選択肢は、このまま手厚く看病してどうにか今の高熱を乗り越えさせ、今後絶対に月の光を浴びずに生涯を送らせる、そんな方法だ」
それを聞いた二人の顔に一斉に落胆の表情が浮かぶ。実に消極的な方法だし、これも賭けには変わらないのだ。
ヤーヒムがそんな二人に指摘するのは、昨夜満月の光を浴びるまでダーシャは瞳の色も変わらず普通に過ごせていたこと。
ダーシャの中にあるヴァンパイアの魔は完全に根付いている訳ではない。うまくいけば時と共にヴァンパイアの魔が抜け、瞳の色も元の緋色に戻ってくれるかもしれない。
「でもなあ、結局それって苦しんでる嬢ちゃんを運任せで放っておくってことだろ? それに今後ずっと月の光を浴びちゃいけないとか、条件が可哀想すぎるぜ」
「……ならば三つ目の選択肢だ。これは出来れば避けたいが、聞くだけ聞いてくれ」
ヤーヒムはそこで言葉を切り、やがて心を決めたように口を聞いた。
「三つ目は、我が血を更に飲ませ、ヴァンパイアの魔で人狼の魔を塗りつぶす方法だ。……ただしダーシャは最終的に完全なヴァンパイア、少なくとも我が眷属となる可能性が高い」
「な――! そ、そんなっ!」
「我はダーシャの血は飲まぬ。ダーシャには何の力も込めない我が血を飲ませるだけだ。通常であれば眷属にすらなることはない。だが、それでここまで反応したダーシャが相手だ。ほぼ確実に人狼の魔は塗りつぶせる。加減を間違えなければ、ヴァンパイアにならずに人狼の魔だけを塗りつぶすところで終わらす事も可能かもしれない」
「そ、それはそうかもしれないけど……」
「我もこれは避けたいと考えている。忌み子をヴァンパイアにしようとした話など聞いたことがないのだ。どうなるか見当もつかない。しかも、いかに<新生の月夜>だったとはいえ、ひと舐めの血を与えただけでダーシャはここまでヴァンパイアの魔に染まりつつある。余程うまく見極めなければ少なくとも眷属に、下手をしたらあっという間に完全なるヴァンパイアになってしまうだろう」
ヴァンパイアなどとという呪われた存在は自分だけで充分だ、最後にそう力なく付け加えるヤーヒム。
「あ――ご、ごめんなさい、私、そういうつもりで言ったんじゃ……」
ヤーヒムのアイスブルーの瞳に一瞬浮かんだあまりの孤独感に、感情的に反対していたリーディアが大きく息を呑んだ。そのままその紫水晶の瞳に痛烈な悔恨を滲ませ、必死の謝罪を並べ続ける。
と、フーゴが呆れたように大袈裟に笑い出した。
「まったくもう、ヤーヒムも姫さんも、お前ら何言ってんだ? ヴァンパイアだってヤーヒムのようなのがいるだろ。俺は好きだぜ。それにきっとたぶん、ダーシャの嬢ちゃんも意外とそれを望む気がするぜ? くくく、お前さんは知らないけど、ラビリンスの帰還後にもうちょっとでお前さんに会える所だったと聞いた嬢ちゃんは――――うおっ! 危ねえ姫さんッ!」
唐突に身を捩り、手近にあったソファのクッションを力任せに投げるフーゴ。
それを跳ねのけ、不意打ちで襲いかかってきたものがある。
開け放たれた寝室の扉から、俊敏な動きで飛びかかってきたのは――
――漆黒の巨大な狼、完全な人狼と化したダーシャだった。
「クソッ! 勘弁してくれ!」
馬体をすっかり横たえていたフーゴはすぐに立ち上がれない。その場でクッションを更に投げつけるが、狂暴な巨狼と化したダーシャはそんなものはものともせずに飛び込んでくる。
「きゃあああっ」
ソファに腰掛けていたリーディアが大きく悲鳴を上げ――
「……がはっ!」
何の衝撃も来なかったリーディア。
その耳に届いているのは、荒い獣の息遣いと、何かを豪快に啜るような水音。
嫌な予感と共に、恐る恐る視線を上げると――
自分を庇うように体を入れたヤーヒムの広い背中と。
その肩口に激しく噛みつき、盛大に吹き出す血を喉を鳴らして飲み干している人狼の姿だった。
―次話『ダーシャの選択(前)』―
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