17 答え

「リーナどういうことだ? 分かるように説明してくれ」


 突然崩れ落ちたリーディアをアマーリエが優しく揺さぶる。

 だがリーディアは揺さぶられるまま、その紫水晶の瞳を虚ろに開いたまま何も答えはしない。もしや内臓の負傷がぶり返したかと顔色を変え始めたアマーリエに、リーディアはようやく我に返った。そして、呟くように言葉をこぼし始めた。


「……マーレは私が違法奴隷を調べていたの、知ってるよね」

「ああ勿論だ。シェダ一族の課題だろう? それでブシェクについてきた」


 リーディアのフルネームはリーディア=シェダ。

 伝説の魔法使いヤン=シェダの血を継ぐ一族の末裔の末娘として育った彼女には、成人と共にひとつの課題が与えられていた。


 それは、彼女の住む辺境ザヴジェル領から違法奴隷をなくすこと。

 通常の奴隷ではない。犯罪の刑罰として、または貧困からの救済措置として確立されたその制度は、最低限の人道的保護が組み込まれている社会的に認められた必要悪だからだ。だが、違法奴隷は違う。犯罪組織が無辜の子女を誘拐し、裏社会で家畜として売り捌く残虐無道なものなのだ。


 そんな違法奴隷の末路を聞かされたリーディアは心を強く動かされ、すぐさま精力的に調査活動を開始した。

 数年に及ぶ調査はやがて迷宮都市ブシェクの太守バルトル家に辿り着き、ちょうど同都市の大迷宮を攻略するという幼馴染のアマーリエに誘われ、そのパーティーに加わるという名目でここブシェクに現地に乗り込んできたのだ。


「……それで、肝心のバルトル家は火事で曖昧になっちゃったけど、ダーシャを保護できた」

「ああそうだな。今あの子はしっかりと我々の宿で留守役の騎士に守られているな」


 リーディアがブシェクに入って隠密裏に調査を進める中、突然手がかりのバルトル家が大火災を起こした。

 取るものもとりあえず現地に駆けつけると、ただならぬ形相で逃げてくる一人の忌み子の少女に出くわした。それがダーシャ。初めは酷く衰弱し挙動不審だった少女も、忌み子の業を僅かに抑える効果がある祝福系の神聖魔法をかけて落ち着かせることができた。使う機会などないと思っていた魔法だったが、シェダの知識は無駄なものなどないと片端から仕込んでくれた祖父には感謝しかない。

 そうして宿に連れ帰り、リーディアが献身的な介護を続けるうちに、ダーシャが徐々に重い口を開き始めたのだ。


「……あの子はこう言ったわ、ヴァンパイアが奴隷の自分を逃がしてくれた、と」


 冷たく凍えるようなアイスブルーの瞳のヴァンパイア。

 血塗れで、泣き叫んでしまうぐらいに怖くて、でも本当は違う意味で泣きたくなるぐらいに優しいヴァンパイア。涙をはらはらと流しながら、そんなヴァンパイアが地下牢に囚われていて、違法奴隷として死ぬ運命だったダーシャを逃がしてくれた――そう話してくれたのだ。


 それ以上は錯乱したように泣き始め、時間を置いて尋ねても同じことの繰り返しで何も聞き出せなかったリーディア。

 きっとその場で起きた出来事で深い心の傷を負っているに違いない、そう思ってそれ以上の質問は止めていたのだが。


「ああ、とても信じられなかったが、今なら信じるぞ。そこの――ヤーヒムがあの子を救ったのだ」


 力なく地面に横座りするリーディアの肩を掴み、至近距離でその顔を覗きこんでいたアマーリエの視線が、ツ、と気を失ったままのヤーヒムに注がれる。そこには普段彼女がまとっている鋭さは欠片もなく、友リーディアに注がれるのと同じ暖かさが込められていた。


「……そう、ダーシャの言っていたことは全部ほんとう。……いいえ、それ以上だったわ」


 リーディアの調査が行き詰まり、仕方なくアマーリエ達のラビリンス行に同行するようになって、そこで思わぬ進展があった。

 なんとダーシャの言っていたヴァンパイアに会うことが出来たのだ。初めは怖いぐらいに赤く蠱惑的に輝いていた瞳も、戦いの場から離れればすぐにダーシャの言っていたアイスブルーに戻った。そして移動を始める直前、そのアイスブルーの瞳を覗き込んだ途端にリーディアには分かってしまったのだ。


 ――ダーシャが言った「冷たく凍えるようで、本当は泣きたくなるぐらいに優しい」という言葉が真実であることを。


 そのアイスブルーの瞳は、彼女リーディア=シェダに流れる血の奥深いどこかを鷲掴みにした。

 そして、幼いダーシャの言っていた以上のものが、伝説の魔法使いの血を引くリーディアには見えてしまった。


 ――そのどこまでも透きとおった氷壁のような瞳の中に、途方もない絶望と孤独が横たわっていることが。


 その峻烈さにリーディアの魂は激しく揺さぶられた。こんなにも切なく哀しい瞳は見たことがなかった。無闇に人を襲うヴァンパイアではないことは分かっている。ダーシャを助け、そしてどうやらこのラビリンス内でも多くの人を助けているらしいからだ。血を飲む絶好の機会である筈なのに、そんな素振りは一切見せずに。


「……シェダの私には分かった。彼の魂は誰よりも清らかで、善良で……孤独だったの。だから……もっと話してみたかった」


 地下墳墓型の階層を先行するパーティーの面々の後ろ、泣きたくなるぐらいに距離を保って静かに歩いてくる孤独なヴァンパイア。リーディアは分かれ道の度に、必要以上に明るく振り返って進む道を教え続けた。自分の振舞いで少しでも彼の気持ちが解れるように、そして、彼がはぐれてもう二度と一人になったりしないように。


「だからあの晩、通信魔鉱石を渡したのだろう? あれからリーナはおかしくなった。何があったんだ?」

「…………」


 そう、ようやく訪れた休息の時、リーディアは思い切って彼に即席の通信魔鉱石を渡してみたのだ。

 通信魔鉱石を使って彼と話し始めたリーディアは、そのぶっきらぼうな中にも不器用に彼女を受け入れようと歩み寄ってくる僅かな気配に、凍りついた心を自分が融かせると狂おしいほどの喜びを感じた。有頂天になって余計なことまで喋ってしまった気もするが、徐々に彼が楽しんでいることが伝わってきて、心がふわふわと舞い上がって自分でも何を話したか正確には覚えていない。


 そして尋ねてしまった。

 ダーシャを助け出した時の話を、彼が囚われていたバルトル家で何が行われていたかを。


 その瞬間、通信魔鉱石から流れてきたのは息苦しいほどの沈黙。

 そして無言にもかかわらず、彼の自己に対するどす黒い絶望が、怒りが、哀しみが怒涛のように流れ込んできたのだ。


 暴れ狂う感情の渦の中、リーディアは激しく混乱しながらも初めは通信魔鉱石が壊れたかと思っていた。ヴァンパイアならではの強い空間属性が、彼の激情を流しつつも耐え切れずに壊れてしまったかと。


 だが、表に駆け出して、一部始終を見ていたケンタウロスのフーゴに話を聞いて愕然とした。彼は、ヤーヒムは自ら通信魔鉱石を握り潰し、物凄い形相で一人ラビリンスの奥の暗がりへと駆け去っていったというのだ。いつまで待っても戻ってくる気配は全くない。

 つまり、あれだけ内心で人を求めていた彼が、再び孤独と絶望の世界へ戻ってしまったということ。そして、リーディアに向けて僅かに開き始めてくれた心、その繋がりこそ強く拒絶されたということだ。あんなに硬い通信魔鉱石を、粉々に握りつぶすほどに。


 リーディアは気付いてしまった。

 彼の激情のきっかけが自分だということに、自分の言葉が彼の溶け始めたばかりの凍った心に、どこまでも深い傷を負わせてしまったということに。


 リーディアは気付いてしまった。

 ダーシャは違法奴隷。生も死も主人の言うがまま。彼女はヤーヒムのいた地下牢で死ぬ運命だった。ヤーヒムを見て初めは泣き叫ぶほど怖かった。

 そしてヤーヒムは――ヴァンパイア。

 そう。

 ダーシャは、まさにヤーヒムに血を捧げるために地下牢に連れて行かれたのだ。


 彼はそもそも、いつから地下牢に囚われていたのだろうか。

 リーディアが生まれるだいぶ前にヴァンパイアは世の中から姿を消していた。ならばおそらく、ヤーヒムは少なくとも五十年以上、あの地下牢に囚われていたということ。


 ――もしかして、ヤーヒムはずっと、無理やり違法奴隷の血を飲まされて、生かされていた?

 ――だからこそ流れてきた、あのどす黒い自らに対する絶望と、怒りと、哀しみなの?

 ――そして私は、あの優しいヴァンパイアに、その事実を無神経に掘り起こして、目の前に突きつけようとしていた?


 なんということをしてしまったのだろう。

 あの泣きたくなるぐらい冷たく哀しい瞳をした人に、絶望と孤独から狂おしいほど必死に助けを求めていた人に、私は、ひどいことを。


 そう。

 それがあの通信魔鉱石を渡した晩にあった全て。

 そして今、リーディアの前には、再び黙り込んでしまった彼女を心配そうに覗き込む皆の顔が並んでいる。


「………………」


 フーゴが語ってくれた断片的な話から彼女を稲妻のように貫いたひとつの悲惨極まりない可能性、それが今リーディアの頭の中で猛然と駆け廻っている。


 確かめなければいけない。

 リーディアは震える声で尋ねた。


「……ねえフーゴ、私の怪我が治っているのは、この人の血を飲んだからだって言ったのよね? それと、この人の血とポーションを混ぜると……あのブラディポーションとそっくりな匂いになるって」


 リーディアの頭にあるのは、ダーシャが話してくれた地下牢のヤーヒムのこと。

 冷たく凍えるようなアイスブルーの瞳。血塗れで、泣き叫んでしまうぐらいに怖くて、泣きたくなるぐらいに優しかった。


 そう。

 この人は、地下牢で血塗れで囚われていたのだ。


「――ああ、そう言ったな。そのとおり、姫さんの回復の理由はそれ以外に考えられねえし、さっきこの手でポーションで薄めたそいつだって」

 未だマクシムの手の中にある杯を指差すフーゴ。

「ブラディポーションとそっくりな匂いをしてる」


「ああ、なんてこと……」


 戦慄く自身を強く抱き締めるリーディア。

 そして、消え入りそうに小さく細い声で二つ目の質問をした。


「……もうひとつだけ教えて。ブラディポーションって……いつぐらいから出回っているの?」

「んん? そんなのもうずっと前からあるぞ? そうだな、バルトル家が太守を独占し始めたのが百年前ぐらいからだから――」



「――っ!」



 声にならない悲鳴を上げて、その紫水晶の瞳からはらはらと大粒の涙を零し始めるリーディア。


 ……それは、百年ぐらい前から、ずっと。


 違法奴隷どころではない。

 もっと陰惨で痛ましい、人間の醜い欲望の犠牲者が目の前に横たわっていることを悟ったのだ。


 リーディアは声を詰まらせながらも、自らの推論を語り始めた。




  ◆  ◆  ◆




「がああああッ! あんの、バルトルの糞ババアがあああッ!」


 フーゴの憤怒の雄叫びが轟いた。

 その髪は逆立ち、全身はあまりの怒りにわなわなと震えている。


「俺がこの手でぶっ殺す! 糞ッ垂れがあ!」


 巨大なハルバードを鷲掴みにし、その荒ぶる馬体の四脚で今にも駆け出そうと――


「――待て!」

 辺境の姫将軍、アマーリエが鋭く制止した。

「いいから落ち着け。周りをよく見ろ」


 アマーリエがぐるりと見回す十メートルの安全領域の外には未だ無数のガーゴイルが群がり、虎視眈々と中の様子を窺っている。


「我らだけではこの囲みは突破できない。違うか?」

「ぐッ、そんなの、分かってるけどよお! 糞! 姫さんは悔しくねえのかよっ、腹が立たねえのかよっ!」 

「腹が立っているに決まっているだろう、ここまでの無道、怒りを感じぬ訳がない」


 奥歯を噛みしめ、その鋭い琥珀色の瞳を更に剣呑に光らせているアマーリエ。


「だが、バルトル家はあの火災以降没落し、当主も行方不明だと聞く。今さら行ってどうする」

「…………糞っ!」

「今、我らに出来ることは少ない。まずこの先どうするか――マクシム、意見を聞かせてくれ」


 アマーリエが常に傍らに控えているザヴジェルの筆頭上級騎士を振り返った。

 マクシム=ヘルツィーク、ザヴジェル<鉄壁>騎士団で副団長を務める男だ。経験豊富で信頼できる彼の冷静な判断は、このような場で常にアマーリエに尊重されている。


「は、アマーリエ様。まずは――」


 マクシムが淡々と述べたのは次のようなことだ。

 まずは眼前の状況について。

 進むか戻るかで言えば進むしかない。何はともあれ、目の前に次層への転移スフィアがあるのだ。この層を戻ろうにもガーゴイルと彼らの相性は悪すぎるし、そもそもラビリンスコアを手に入れるためにこの大迷宮に潜ってきたのだ。進むという選択に基本的な間違いはない。


 ただし、先の戦いでポーションと帰還の宝珠の手持ちが無くなってしまっている。

 撤退の判断は早めに下したいが、まずはこの安全地帯で充分に体力を回復し、それから慎重に動き始めるべきだろう。


「――そして、ここにある杯についてですが」


 ヤーヒムの血が注がれた五つの杯にその錆色の視線を流し、マクシムは言葉を続けた。


「彼の志です。謹んで頂戴しましょう。ただ、全てを今ここで飲んでしまうのはあまりに惜しく、幾許かを今後のポーション代わりに残しておきたくはありますが。今後、負傷する度に彼に頼むのは身勝手が過ぎるかと」


 一旦そこで口を噤み、歴戦の筆頭上級騎士は主筋の姫君、アマーリエに対して覚悟の籠った礼を施した。


「……彼、ヤーヒム殿の来歴については存じませんが、おそらくヴァンパイアになる前は名のある騎士だったかと。これまで疑いの目で見ていたことは改めて私が誠意を以て謝罪します故、どうか彼、ヤーヒム殿をこのラビリンスにいる間だけでもパーティーに加えてくださいますよう」


 深々と頭を下げるマクシム。

 フーゴがやれやれと馬体の尻尾をひと振りし、略式の騎士礼を受けたアマーリエは我が意を得たりとばかりに頷いた。


「ふふふ、そこまで改まらなくとも、私は初めからその心算だったがな。まあそれは本人次第だ。他の者も異論はないな?」


 当然だ、と鼻を鳴らすフーゴ。リーディアは既にヤーヒムの側から離れる様子もない。残る上級騎士二人も後悔と義憤の色を瞳に浮かべ、大きく頷いている。


「よし、ではマクシムの言うとおりまずは暫しの休憩としよう。各自負傷具合に応じてブラディポーションから飲み、残った分は先程の空き瓶に移しておけ。けして彼の血を無駄にしないようにな。装備の点検と補修も怠るなよ」


 騎士達がてきぱきと動き始める中、アマーリエはその場から動こうとしないリーディアを振り返った。


「リーナ、彼の世話を頼めるか。諸々は無視しても、少なくとも我らの命の恩人だ。……ふふ、その様子だとこれ以上は言わずとも良さそうだな」

「くく、リーディアの姫さんにヤーヒムの馬鹿野郎を取られちまった――おおう、そんなに睨むなってばよ。がはは、仕方ねえからちょっと次の層の様子でも見てくるぜ」

「ふふふふ、頼むぞフーゴ、くれぐれもリーナの邪魔はしないようにな――くくく、怒るなリーナ」


 からかわれて子供のようにむくれるリーディアに、アマーリエはふと真剣な顔になって話し始めた。


「彼――ヤーヒムが抱えている過去はあまりに重く、酷い。だが彼は、人に忌避される運命さだめのヴァンパイアでありながら、その重すぎる過去を持ちながらも、それに逆らうように人を助けることを止めない。ダーシャを助けたように、我々を助けたように。――強く気高い、類稀な男だと思わんか」


「運命に逆らう……強く、気高い人…………」


 眼前で苦しげに眼を閉じる、鋭くも優美に整った顔をリーディアは切なげに見詰めた。 


「そうだ。私の婿にしても――くはは、冗談、冗談だぞリーナ。そんなことをしたら流石にザヴジェル家が吹き飛ぶ。ただ、こう考えるのだ。その彼が、その重すぎる過去を我らを助けるために明かしてくれた。極限の状態だったとはいえ、我らがバルトルの輩と同じことをする可能性は常に彼の頭にあった筈だ。それはまるで多少なりとも我らを――」


「信じて、くれた…………」


「そういうことだ。その信頼に、我らは応えねばな」

「…………うん」


 伝説の魔法使いの末裔、紫水晶の瞳を持つリーディア=シェダはゆっくりと力強く頷いた。

 そうして一行は第六十五階層の終点において最後の行動を始めたのだった。




  ◆  ◆  ◆




「おおう、こう来るか……」


 一人先立って六十六階層に転移してきたフーゴが、口をぽかんと開けて周囲を眺めていた。

 青く静謐な光を放つ転移スフィアの周りは十メートルを残して光届かぬ深淵となっており、中央に一本の長い道が彼方へと浮かんでいる。魔獣の気配はないが、道の先から流れくる湿り気のある生暖かい空気がフーゴの乱髪を弄び、馬体の総毛を撫でていく。



 ――その光景は、ここがこのブルザーク大迷宮の最深層であることを物語っていた。






―次話『過去、そして未来へ』―

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