13 同道者

「なあ、メシ出来たんだけどよ、あっちで一緒に食わねえか?」


 三時間に及ぶ激闘の末、第六十五階層地下墳墓の魔獣を殲滅したヤーヒムとザヴジェル騎士の特務部隊<ザヴジェルの刺剣>。彼らはようやく訪れた小康状態に二手に分かれて休息を取っていた。


 凄惨な有様の戦場から程よく離れた場所で一人枯れ木に背を預け、瞑想するように座っているのはヤーヒム。

 ひとつ前の砂漠の階層を含めると実に一日半近く動き回っていたことになる。さすがのヤーヒムも疲労の極限にあった。フードを深くかぶりしばらく静かに目を閉じていたところに、妙に上機嫌な笑みを浮かべた厳ついケンタウロスが声を掛けてきたのだ。


「あんまり大したモンはねえけど、あったけえシチューを作ったんだぜ。ほら――」


 開けっぴろげな笑顔と共に手振りで示すのは、相変わらずの薄闇の中、五十メートルほど先の小広場で焚き火を囲んで身体を休めている騎士装備の面々。各々が湯気を立てる深皿を手にしており、ぽつりぽつりと会話をしながらしみじみ味わっているようだ。


 一人無言でぼんやりしているのは、何十発もの大魔法でおそらく一番戦果を上げているハイエルフの末裔リーディア。

 長丁場の激戦で魔法を使い過ぎたのか、蒼白な顔で深皿を持ったままぐったりと地面に横座りしている。確かに後半は魔法も小出しになっていたが、それはあの異様な魔獣の雲集ぶりが想定外だったのかもしれない。現在この地下墳墓には動くものは欠片もなく、フォレストスパイダーがいた六十三階層と同じく、階層中の魔獣が一気に押し寄せてきたということだろう。

 

 そのリーディアと逆に、意外な食欲を見せているのは白銀鎧のアマーリエ。

 疲れで肩が落ちている盾騎士たちに時おり何かを話しかけながら、驚くほど上品に、だが止まることなく匙を口に運び続けている。それもそうだろう、彼女はその緑白に輝く魔剣を縦横無尽に振い続け、<姫将軍>の名に恥じぬ蹂躙劇を最後まで繰り広げていたのだ。あの集中力と運動量を維持するために食事は人一倍必要な筈だ。


 実際、アマーリエとリーディアの戦闘力はヤーヒムが懸念した以上のものだった。二人を含めた<ザヴジェルの刺剣>でヤーヒムの数倍の魔獣を倒しているのではないか。咆え狂う突風の如きケンタウロスの暴力とは正面から戦えるが、魔剣や魔法といった二人の攻撃手段はヴァンパイアであるヤーヒムにとって鬼門なのだ。

 油断は出来ない、か――ヤーヒムは本来のアイスブルーに戻りつつある瞳で、フードの下から探るように騎士装備の五人を見詰めた。


「……もたっぷり入ってるからよ、間違いなく体力回復になるぜ? あ、でも流石にグールの肉は入れてねえからな、がはは」


 目の前では、ヤーヒムを誘いに来たケンタウロスが未だに喋っている。

 この磊落な半人半馬があのシチューを作ったのだろうか。それにしても――


 ……マジックポーチ、か?


 焚き火の傍らには調理台や食器などが広げられ、調味料と思しき小瓶なども並んでいる。

 あんな物を持っていた気配はなかった。大量の荷物を運搬できるマジックポーチは確か、大食漢で有名なアベスカというリス型魔獣の頬袋で出来ていて非常に高価だった筈だ。なぜならアベスカはヴァンパイアと同様に稀有な空間属性持ちの魔獣で、見つけづらい上に危険を察知するとすぐに転移で逃げるという厄介な性質を持っているからだ。


 それにしても――


 ヤーヒムは未だ喋りつづけている、誘いに来てくれた相手に視線を戻して小さくため息を吐いた。

 ヴァンパイアの主食は生血だが、別に人間達の料理が食せない訳ではない。先の戦闘でたらふく血は喰らったが、この裏表のないケンタウロスの好意は素直に嬉しいし、作ってくれたスープが美味そうな匂いを立てているのも分かる。


 だが。


 いくら共闘したとはいえ、ヤーヒムはヴァンパイアなのだ。盾持ちの騎士達がさり気なくヤーヒムをその視界に収め続けていることは充分に分かっている。

 そしてその警戒を追認するように、あの極上の血を持つ女二人の甘い匂いが、ここにいて五十メートル離れていても艶めかしく執拗にヤーヒムを誘惑してきているのだ。特に紫水晶の瞳の魔法使いには激しく心を掻き乱される。いくらヤーヒムに人の血は飲まぬという誓いがあっても、あの場で面と向かって焚き火を囲むなど――


「べ、別に無理にとは言わねえがよ……そうだ、俺の名前はフーゴってんだ。元々ここブシェクで傭兵をやっててな、このブルザーク大迷宮の知識を買われてあのザヴジェルの騎士さんたちに同行者として雇われてんだ。なんでも精鋭騎士を選りすぐった特務部隊らしいぞ。街にも国元からのサポート役がしっかり控えてんだ」


 ヤーヒムはチラリとフーゴの逞しい上半身を覆う装備を眺め、その無骨ながらも極めて上質な半身鎧に納得の頷きを返した。


「それでさ、俺の知り合いが大勢あんたに命を助けられてんだよ。<連撃の戦矛>だろ、<幻灯狐>だろ、それと<ひげ鬼>と<片耳竜>もだな。何が言いたいかっていうと――」


 ヤーヒムにとっては聞き覚えのない、だが薄っすらと見当がつく名前を指折り数えていたフーゴが突然、深々と頭を下げた。


「奴らを助けてくれて、本当にありがとう。本人たちも言いたいだろうけどよ、あんたが人前に出たがらない理由も分かったから、俺がまとめて言っとくわ――仲間を助けてくれて、本当にありがとう。出来ることがあれば掛け値なしに何でも言ってくれ。死なない程度であれば、今この場で俺の血を飲んでくれても構わない」


 長年ラビリンスで多くの悲劇を見てきたであろう瞳に真剣な色を乗せ、再び深々と頭を下げるフーゴ。ヤーヒムがヴァンパイアだという事実を遠回しに口にしながらも、その顔にヤーヒムを忌避する気配は全くない。むしろ、世話になった相手に礼を申し出る義理堅い戦士の顔というべきか。



「…………人の血は飲まぬ、そう誓いを立てた」



 ヤーヒムがその鋭くも優美に整った闇の種族ならではの顔を僅かに歪ませ、俯き加減でフードの中から言葉を返した。

 若干口調に自嘲が混じったのは、奴隷の血を散々飲まされた長い囚われ生活が存在するからだ。


「そうか」


 フーゴが表情を動かさずに頷いた。

 逞しい筋肉に覆われたその躰は、美しい栗毛の馬の下半身を含め微動だにしない。

 そのままじっとヤーヒムの顔を見詰め、そこに何を読み取ったのか、歴戦のケンタウロスはゆっくりと口を開いた。


「……俺が小さい頃はまだヴァンパイアがちらほら残っていてな、子供心におっかないもんだって思ってた。でも、あんたみたいなのもいるんだな。まだ生き残りがいるとは思ってもいなかったけど、初めて会ったヴァンパイアがあんたで良かった。なあ、名前を教えてくれないか」


「…………ヤーヒム。姓は捨てた」


「そうか、ヤーヒムか。じゃあヤーヒム、あんたの誓いを汚すつもりは毛頭ないが、さっきの申し出は俺が死ぬまで全て有効だ。困ったことがあったら何でも声を掛けてくれ、こう見えても俺は多少のコネはあるんだ」


 フーゴはそう言って、ヤーヒムの眼前にぬっと右手を差し出した。野趣溢れるその顔にはふてぶてしくも頼もしい、漢気おとこぎに満ちた笑みが浮かんでいる。


 ヤーヒムは僅かに躊躇い……そして右手を伸ばし、フーゴの手を握った。



 ――ヤーヒムにとって二百年ぶりとなる人系種族との握手は、ゴツゴツしていて、仄かに温かいものだった。




  ◆  ◆  ◆




 それからヤーヒムと<ザヴジェルの刺剣>の面々は休憩を早めに切り上げ――結局ヤーヒムが焚き火のそばでフーゴのシチューを食べることはなかった――、野営をする前に次層への転移スフィアまで少しでも移動しておくこととなった。

 以前の層でヤーヒムが魔獣を殲滅した時はかなりの長時間魔獣が出てくることはなかったが、楽に移動できるこのタイミングで少しでも距離を稼いでおきつつ、野営に適した場所を探していこうということになったのだ。


 それに、あれだけ魔獣を屠ったのだ。グールやスケルトンが勝手に甦ることはないとはいえ、その人型の死骸が散乱する凄惨な場所から離れたいという女性陣の気持ちを慮った結果でもあった。ヤーヒムとしても、口には出さなかったが只でさえ強烈だった腐臭が戦闘後ますます強まっており、その場を離れるという判断に異議を差し挟むことはなかった。


「姫さん、進むのはこっちでいいんだな?」

「ああ。このまままっすぐ奥へ、それで良い」


 薄暗く荒涼とした地下墳墓の中を迷いなく先導するザヴジェルの騎士達。

 フーゴがヤーヒムに語ったところによると、白銀鎧のアマーリエが持つ魔剣はラビリンスと共鳴しており、ラビリンスコアへと導いてくれる代物だという。初めはフーゴも半信半疑だったが、あの広大な砂漠の階層でもまっすぐ転移スフィアへ辿り着くことが出来たし、過去のフーゴが雇われていないラビリンスでも騎士達はそうやって何度もコアまで至ってきたというのだ。


 それでも今回、<ザヴジェルの刺剣>が先行するに当たってはひと悶着あった。

 それはつまり、ヤーヒムが後ろに立つのを公認するに等しいということである。男性の騎士達ははっきりと異議を唱えた。明確に言葉にはしなかったが、ヴァンパイアに無防備な首筋を晒すなど、ということだろう。

 だが、白銀鎧のアマーリエの一言で決定は下された。


「彼の動きと強さは見ただろう。これ以上の殿しんがり役はまずおらん。それに、我らに害意があれば先の乱戦でもうやっている筈だ。違うか?」


 このひと声で議論に幕が引かれ、きびきびと動き出し先導を始めた<ザヴジェルの刺剣>一行。

 一歩引いたところからそれを遠目に見守っていたヤーヒムは、無言のまま彼らの後ろを歩き始めた。


 時おり後方から襲い来る魔獣を一閃の下に屠りながらヤーヒムは思う。

 これまで追い立ててきた人間達とはどこか違う彼ら。果たして、どこまで信頼していいものだろうか――と。




  ◆  ◆  ◆




 ブルザーク大迷宮、第六十五階層。

 地下墳墓型の洞窟は時に開けてうち棄てられた墓地となり、時に通路だけとなって延々と広がっている。地上の人間達の欲に塗れた思惑から遠く離れたここはしかし、一切の油断を許さない魔境でもある。


 前人未踏のその地を進むザヴジェル特務部隊<ザヴジェルの刺剣>一行とヤーヒム。


 先導するアマーリエが見向きもしなかった横道から禍々しい冷気が忍びやかに押し寄せ、一人遅れて進むヤーヒムのフードをその冷たくも整った顔にまとわりつかせていく。ザヴジェルの騎士達との距離は五十メートル、しんがりとなった彼が保ちたいギリギリの距離だ。


 ヴァンパイアならではの鋭敏な知覚を持つヤーヒムにすれば、この程度の距離であれば迷わず追随するなど簡単なこと。

 そして何より重要なことに、リーディアとアマーリエが放散する芳醇な血の気配を耐えることも、余計なお喋りを回避することも出来る距離だ。二人の護衛らしき騎士達にしても歓迎すべき距離感だろう。


 ただ、ヤーヒムの頭を悩ませているのは、彼ら<ザヴジェルの刺剣>もまたラビリンスコアを目指しているらしい、ということだ。


 今はいい。

 彼らがあの広大無辺な砂漠の階層でまっすぐ転移スフィアまで進んできたことを考えると、ケンタウロスのフーゴが言った魔剣の共鳴は本物だ。この迷路のような地下洞窟をヤーヒムが闇雲に動くより、騎士達について行った方が確実な筈だ。



 だが、いよいよラビリンスコアに近付いた時――



 同じものを求める者同士、どうなってしまうのだろうか。

 ヤーヒムは答えの見えない未来に惑いながらも、五十メートルの距離を増やしも減らしもせずに追随を続けるのであった。



 分かれ道になると、先行する<ザヴジェルの刺剣>は一旦立ち止まる。

 その度に決まって一人だけ無手の小柄な女が小走りに数歩戻って、その先で複数に分岐した洞窟のいずれかを指差す。黄金色の髪と紫水晶の瞳を持つ魔法使い、リーディアだ。


 先程の休憩では動く気配もないほど疲弊していた彼女だったが、動き始めた今はそれなりに回復している様子だった。

 そんなことをしなくともヤーヒムは後についていけるのだが、彼女なりの気遣いなのだろう。可憐とも言えるその顔が視界に入るたび、ヤーヒムの心に二百年前の記憶が甦り、痛烈な慙愧の念と不思議な胸の高鳴りを彼にもたらしていく。


 ただ単に髪と瞳の色が同じで、そして血の匂いに似ている部分があるというだけだ。なぜそんなに自分が動揺するのか分からない。

 そう、こちらは生気に満ちた大人の女性で、あちらは幼き頃から病弱の、いつも彼について歩きたがった骨と皮だけの少女だったというのに。


 ヤーヒムはもう振り向いてくれるなと願いつつ、<ザヴジェルの刺剣>が立ち止まる度に真っ先にその後ろ姿を確認してしまうのだ。まるで、その美しい紫水晶の瞳を再び目にしたいと願っているかのように。



 薄闇に包まれた地下墳墓の六十五階層。

 ザヴジェルの騎士達とヤーヒムとの距離は五十メートルから増えも減りもせず、淡々と両者は進んでいく。




  ◆  ◆  ◆




「――今日はここで夜営しようと思うんだけどよ?」


 荒れ果てた空き地を囲む岩壁に空いた大きな亀裂を指差し、フーゴがヤーヒムに申し訳なさそうな視線を寄越した。

 その背後には逞しい盾騎士三人が緊張した面持ちで二人のやり取りを見詰めている。ヤーヒムを誘惑する血の気配の持ち主二人はフーゴが指差す亀裂の奥に入って検分を始めており、中はそれなりの広さがあるのだろう。


「心配は無用。我はそこで良い」


 亀裂から充分に離れた、空き地の隅にある岩壁の窪みを指差すヤーヒム。

 騎士達の心配は理解できた。護るべき主をヴァンパイアの側で眠らせるなど、護衛騎士としては絶対に避けたいものなのだろう。これまで見てきた三人の姿からするに、忠義に篤い者達だということが容易に伝わってくる。遠い昔、かつて自分も騎士だったことを思い出し、ヤーヒムは何のわだかまりもなく身を引いた。



「……かたじけない、ヤーヒム殿」



 ヤーヒムの目に浮かんだ理解と配慮を読み取ったのだろうか、ひと際大柄な壮年の盾騎士がすっと前に歩み出てきた。先の激戦でずっと白銀鎧のアマーリエの背後を守っていた男だ。

 先の激戦でのその円熟した戦いぶりはヤーヒムも認めるところだったが、改めて正面から見る彫りの深い実直な顔、誇り高き錆色の瞳、揺るぎのない身のこなし――それらはヤーヒムの胸に自然と敬意を抱かせるものがあった。その壮年の騎士の錆色の瞳が、礼の言葉と共に真っ直ぐにヤーヒムに向けられている。


「我らはザヴジェル騎士団に所属する者。あのお二人を護るのが絶対の責務であり、誓いなのだ。……申し遅れたが私はマクシム=ヘルツィーク、ザヴジェルの筆頭上級騎士でありこの特務部隊<ザヴジェルの刺剣>の隊長、国元に戻れば<鉄壁>騎士団の副団長を務める者だ。これは上級騎士のダヴィット=チェルニーとテオドル=ドレイシー。今は口頭でしか伝えられぬが、共闘と心遣いの礼はまたいずれ」


 壮年の騎士はそう言うなり、踵を鳴らして綺麗な騎士礼を施した。

 風雪に負けず己を磨き続けてきた年月が滲み出ている、美しく完璧な騎士礼だった。背後の二人も見事な礼を施している。ヤーヒムは思わず右肘を水平に上げ、拳で複雑に左胸を叩いて直立不動の姿勢を取った。遥か昔に身につけた、古めかしくも典雅な騎士答礼。長らく忘れていたそれが、勝手に身体を動かしていた。


「なっ――!」


 言葉を失ったマクシム、そして背後の上級騎士二人。この場で唯一騎士の作法を知らないフーゴですら口をぽかんと開け、直立不動で微動だにしないヤーヒムを見詰めている。

 それもそのはず、ヤーヒム自身も何故今更そんなものが飛び出してきたのか分かっていないのだ。



「……我が名はヤーヒム。騎士の誓いの重さは理解している」



 ヤーヒムは何とか言葉を絞り出し、場が固まっているうちに踵を返した。

 最近、妙に昔のことばかり――フードを深くかぶり直しながら、ヤーヒムは先ほど自分が指差した岩壁の窪みへと歩き去った。




 それからしばらく。

 ヤーヒムは自らが宣言したとおりの窪みに背を預け、フードを目深にかぶって坐ったまま眠りの体勢に入っていた。少々肌寒くはあるが、ヴァンパイアの強靭な肉体は僅かな仮眠でも充分に体力を回復するし、万が一何者かが接近しても鋭敏な知覚のお陰ですぐに目を醒ますことが出来るのだ。


 あの後、亀裂の検分を終えたアマーリエとリーディアが、ヤーヒムが亀裂を使わずに夜営すると知るなり血相を変えてヤーヒムの処へ詰め寄ってくる一幕もあった。だがヤーヒムはここで充分。逆に血の誘惑の匂いをそれ以上撒き散らすなとばかりにそのアイスブルーの瞳で睨みつけ、無事に退散願ったのだ。

 ヤーヒムですらここまで疲労困憊している。

 彼ら<ザヴジェルの刺剣>が直前の砂漠の階層でどこまで休息を取れていたか知らないが、先の激戦を女の身で戦い抜いたのだ。せっかく絶好の野営ポイントを見つけたのだから、ゆっくりと休めばいい。そう思っていた。


 それからは手際良く夜営の支度を進め、亀裂を何度も出入りしていた<ザヴジェルの刺剣>の騎士達。

 しばらく怒っていたらしき女性陣二人もやがて気が紛れたのか、焚き火の明かりと共に和やかな笑い声が亀裂から漏れ聞こえてくることもあった。最後に亀裂の隙間から顔を覗かせ、二人揃って律儀に謝罪と就寝の挨拶などもして寄越したのだった。



「――ヤーヒム、まだ起きてっか?」



 ケンタウロスのフーゴが一枚の毛布を持って近付いてきたのはそれから少ししてのこと。

 この階層は冷えるから、せめてこれを使えとのことらしい。ヴァンパイアに優しいことだ、ヤーヒムは内心で精一杯皮肉な言葉を思い浮かべつつ、無言でその申し出を受け取った。その毛布を見た瞬間に冷えきっていた心の何処かがじんわりと暖まり、少なからず狼狽えるぐらいの喜びが湧いてきたからだ。随分と久しぶりに味わった感情だった。


「礼は金髪の方の姫さんに言ってくれ。俺は寝ずの番のついでにお使いを頼まれただけだ」


 ニヤリとからかうような笑みを浮かべるフーゴ。

 おどけて竦めてみせるその肩の向こう、亀裂の入口にはいつの間にか新たに火が熾されている。亀裂の中とは別、寝ずの番をする者の為の焚き火ということだろう。


「騎士さんたちはこんなおっさんケンタウロスにも騎士道精神とやらを発揮してくれてな、いつも一番楽な最初の寝ずの番を割り振ってくれるのさ」


 ヤーヒムの視線に気付いたのか、フーゴが焚き火を振り返って言う。


「悪くない仕事だったな、初めはどうしたもんかと思ったが、受けて正解だったぜ。気持ちのいい雇い主だし待遇もいい。なんとパーティーで倒した魔獣の魔鉱石の半分を俺が貰っていいんだぜ? 流石にさっきのスケルトンやらの魔鉱石は回収しきれなくて捨ててきたけど、これでまた里の奴らに鉄やら薬やらを送ってやれるってもんよ。長年攻略が止まってた階層更新の名誉もついてきたしなあ」


 前脚で軽く地面を蹴り、ぐふふ、と笑うフーゴ。


「そうそう、もしヤーヒムが寝てなかったら、ということでもうひとつお願いもされてんだけど――」


 フーゴはそこで思わせぶりに言葉を切った。

 少し間を開け、ニヤニヤと面白がっているような笑顔を浮かべてはいるが、その目には微かにヤーヒムを気遣っているような色も浮かんでいる。


 そして気の良いケンタウロスは、やや躊躇いがちにヤーヒムに爆弾を投下した。



「――なあヤーヒム、金髪の姫さんと内緒で話す気、ある?」






―次話『ざわめく心』―

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