エピローグ

「……あれ? 舘野たてのさんって、もう平塚から通ってます? もしかして」

 長谷川さんが、梅酒ソーダを飲みながら顔を寄せてきた。

 3月最初の金曜日。

 丹羽さんの契約満了による退職祝い、長谷川さんの誕生日祝い、そしてわたしの正社員登用祝いのために、駅前の居酒屋に集まっていた。

 プライベートで3人でこうして飲むのは、最初で最後の機会になりそうだ。丹羽さんにも社員化の話があったそうだけれど、「普通の主婦に戻りたい」と往年のアイドルのような台詞で断ったという。

「えっ……、うん、あの、今週から」

「やっぱり! なんかバスで全然見かけないから。え、え、じゃ、もう一緒に住んでるんですか!?」

「え、そうなの!?」

 長谷川さんが色めきたち、軟骨の唐揚げを食べていた丹羽さん(ダイエットはもういいのだろうか)も驚いてわたしを見る。

 照れまくりながらうなずくと、店内の喧騒に紛れてふたりが嬌声を上げた。


 引っ越したのは、先週末だ。

「俺、何のためにひとりには広い部屋に住み続けてたと思う? 兄貴と何かあったらいつでも逃げこめるようにじゃん」

 真先くんはそう言って、一日も早く越してくるよう促した。

 和佐はハイチへ発つまでの間、実家に身を寄せることになった。

 大きな家電をリサイクルや下取りに出したり、細々とした私物を分別したりする作業を、わたしたちはたった10日間でやりおおせた。

 有休消化に入った和佐が昼間もどんどん進めてくれるおかげで、嘘みたいなスピードですべてが終わった。ただ、急に決まった退去だったのであと少し部屋を借りなければならず、和佐を残してわたしが先に出ることになった。

 和佐と過ごした濃厚な9年と半年と半月の歴史は、たったの10日間で片付いてしまう程度のものだったのか。そう思うとおかしくもあり、悲しくもあった。

 長年共に暮らした部屋を出るときは、さすがに感傷がわたしをとらえた。

 和佐は、

「今生の別れじゃないし。むしろ嫌でも会っちゃうかもでしょ」

と笑ってくれた。だからわたしも、笑って別れた。


「やだもー、やだもー」

 長谷川さんはまだ興奮している。片手にグラスを持ったまま、わたしの肩をばしばし叩く。顔が真っ赤だ。耳まで染まっている。

「ってことはー、毎朝一緒にアルファロメオで来てるんですかっ!?」

「そうですね」

「ってことはー、もう毎晩、いちゃいちゃ……!? きゃー!」

 こらこら、とさすがに丹羽さんがいさめに入ってくれるけれど、顔は笑っている。

「ちょっと……! ってか、あれ? 長谷川さんってお酒飲めないんじゃなかったっけ?」

「今夜はいいんですう」

 大丈夫なのだろうか。和佐を呼びだして、お酒の怖さを語らせたいところだ。

「すみませえん、この人たちラブラブなんですけどお」

「やめなさいって、もう。いや、でもその話、もっと詳しく」

 照れくささのあまり、わたしはやけになって梅酒のお湯割りをあおった。追加注文のためにメニューを開く。

 そうだ。今年は梅酒を漬けよう。真先くんと毎晩、晩酌しよう。

 林檎酒や桃酒、パイナップル酒もおいしそうだ。ソルダム酒――は、それだけはやめておこう。


 昨夜、「一万回」のうちの千分の一を済ませた真先くんは、裸のままわたしを抱きしめて言った。

「あのね」

「……うん」

 真先くんの情熱を全力で受けとめた後は、呼吸を整えるのに時間がかかる。

「6年と8ヶ月前の、夏の日に」

 真先くんも、まだ息が切れていた。重ね合わせた胸から、激しい動悸がダイレクトに伝わってきた。

「新大久保駅のガードの下で、緑のワンピース着て立ってる女の人を見かけたんだ」

 ワンテンポ遅れて、自分のことだと気づいた。

「その瞬間に、わかったんだ。俺、この人に会うために生まれてきたんだって。思ったんじゃなくて、わかったんだ」

「……」

 胸が詰まって、声が出なかった。

「で、ああ俺、生まれて初めてナンパするのかって思いながら声かけようとしたとき、兄貴が現れてその人の肩を叩いて、一緒に歩きだしたんだよね」

「……」

 あいつ、俺の真似してるだけだよ。

 和佐の言葉は、もう呪いではなかった。

「それでも、諦めようとしたんだよ。何度も」

 真先くんはわたしを抱きかかえ直し、髪に顔を埋めた。脚が絡み合う。

「兄貴と別れて俺とも他人になって会えなくなるよりは、義理の弟として一生そばにいられる方がましじゃん? まあ、それでも死ぬほど辛いけど」

 ああ、この人は絶望を知っている――。

「もし泣かせるようなことがあったらいつでも奪いにいく構えだったけどね。実際あんなことになって、ほんとに涙を見るまではまだびびってたけど」

「……真先くん」

 胸がいっぱいになって、わたしは広い背中を力のかぎり抱きしめて泣いた。


 じーん。じーん。

「あれ、誰か携帯鳴ってるよ」

「携帯っていうか、スマホでしょ、丹羽さんたら」

「通じるでしょ! いいじゃないのもうっ。これだから平成生まれは」

 じーん。じーん。

「あ、わたしだ」

 鞄からスマートフォンを取りだすと、姉の名前が表示されていた。はっとして、通話ボタンを押す。戦慄が走る。

「もしもし……、うそっ、おめでとう!!」

 店内中に響き渡る声で、わたしは叫んでしまった。

 長谷川さんと丹羽さんを振り向いて、「甥が産まれたの」と報告する。涙声になった。ふたりが歓声を上げてくれる。

「いやーん! あたしと同じ誕生日じゃないですかあ」

「桃の節句に産まれる男の子なんてかわいいわあ」

 ふたりの祝福の声を背中で聞きながら、店の外に走り出た。金曜の夜の街を闊歩する幸福そうな人たちを見ながらしゃがみこむ。

「喋って平気なの?」

 3時間前に命の塊を産み落としたばかりだという。

 甥は4,000g超えの巨大児だそうで、産院のルールで今夜だけは母子別室なのだそうだ。

「産後2時間爆睡したから平気。面会時間終わってみきくんもお母さんたちも帰っちゃったし、どうせ出産ハイで眠れないからさ」

「そっか。個室なの? 大部屋じゃなくて」

「うん、ここ全室個室だから」

「そっかあ……ほんとにお疲れ。やっぱり、痛かった?」

「死ぬほど痛かったけど、死ぬほどかわいいよ。会いに来てよ、彼氏と一緒にさ」

「……お姉ちゃん」

 驚くかな。今、話すべきなのか。

 梅酒がほどよく回ってきた。酔いに後押しされて、わたしはやっぱり言うことにする。

 頬をなぶる風の中に、ひとすじの南風を感じた。


【完】



 ご愛読いただき、ありがとうございました! 心より感謝いたします。

本作の番外編『Extra edition of 炭酸水と犬』ではそれぞれの過去や未来のエピソードが綴られていますので、よろしければまた由麻たちに会いに来てやってくださいね。


砂村かいり


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