偽りの平穏

 表面上は平穏な日々が戻ってきた。

 和佐はアサミとふたりだけで逢うことを本当にやめたらしく、わたしを苦しめた「今日、遅くなる」のLINEやわたしひとりきりの夕食はなくなった。

 和佐は在宅時、自分のスマートフォンの定位置をダイニングテーブルの上にした。

「俺のiPhone、うちにいるときはいっつもここに置いとくから。パスワードでロックするのもやめたから。いつでも見ていいよ」

 潔白の証明のつもりなのだろう。でも、着信やメールであればいくらでも履歴を消せるのでは、と思う。別にもう、疑わないけれど。

「別に今までも見たことないし、これからだって見ないよ」

 そう言っても、彼のスマートフォンはテーブルクロスの重しのようにそこへ置かれ続けることとなった。


 志賀さんも言っていたように、アサミと別れたからと言って和佐のしたことがなかったことになるわけじゃない。わたしの傷は癒えていない。

 それを口にするたび、彼は平身低頭謝った。

「ごめんなさい。本当にごめん。もう二度と、あんな思いさせないから」

「でも、お互いに気持ちを残してるんじゃないの?」

「……少なくとも、俺はもう、ない。由麻が俺の前からいなくなるかもしれないって思ったら怖くなって、他に向ける気持ちなんてなくなった。だからもう、変な男についていったりしないで。この部屋出ていくなんて言わないで」

 和佐はそう言って、わたしを強く抱きしめる。アサミとキスしたという唇を近づけてくる。

 どうしてもそれはまだ受け入れられず、わたしはそのたびに顔をそむけた。


「ね、たまには会社休んでどっか行かない?」

 ネーブルオレンジを剥こうとしていると、和佐がわたしの後ろに歩み寄って腰を抱きながら言った。

 以前の和佐なら絶対に口にしないであろうその提案にわたしは驚き、セラミックの果物ナイフを持った手が滑りそうになる。

「ちょっ、危ないよ、ナイフ持ってるんだから」

「わっ、ごめん。ね、来週あたり行かない? どっか」

「どっか、って? 和佐は休み取れるの?」

 和佐は計測器を製造・販売する会社で内勤営業をしている。

 就職した当時、「計測器って何?」とたずねると「ノギスとか、マイクロメーターとか……」とわたしの辞書にない語彙が飛び交い始め、わたしは深い理解を諦めてしまっていた。

 業界の中では比較的ホワイトな企業で、働き方改革も進んでいるらしく、過度な残業や休日出勤が発生することもさほどなくて、和佐は公私のメリハリある生活を送っていた。

「12月って、四半期の決算とかじゃないの? 営業なのに、平気?」

 重ねてたずねるも、和佐はびくともせずに笑う。

「うちのチームはそういうの全然平気。ノルマとかあるわけじゃないし」

「……でもさ、どうせ和佐の誕生日とクリスマス、どっか行くじゃない? 何も平日使わなくても……」

 以前の和佐とあまりに違うので、にわかに不安になった。まじめを絵に描いたような彼はどこへ行ったのか。

「いや、平日プランの方が安いし、いろいろお得だからさ。実はもう調べちゃったんだ」

 彼は片手に握り締めていたスマートフォンを操作して、いくつかの画面をスクロールしながらわたしに見せた。

「半額で泊まれます! カップルプランありの温泉旅館」「彼女と行きたい冬の温泉いろいろ」「平日限定☆カップルにお勧め! 冬のお得な箱根」浮き立ったようなカラフルな文字や写真が羅列されている。

「ほら、これなんていいと思うんだ。露天風呂付き客室」

 ネーブルオレンジの汁が付いた手を洗い、画面に軽く手を添えて凝視する。源泉かけ流しの露天風呂が付いた客室に半額で宿泊可能。クリスマス前のシーズンだからこその平日限定カップルプラン。絶景を眺めながらの入浴と豪華な海鮮料理が、恋するおふたりをお待ちしております。

「由麻のこといっぱい苦しめちゃったし、思えば夏休み以降全然出かけてないじゃない? たまには贅沢しよ。クリスマスはクリスマスで、ボーナス使ってどっか泊まろう」

 いいのだろうか。彼が気持ちを証明したいというなら、付き合ってもいいかもしれない。当時の彼氏と箱根旅行をした長谷川さんを羨ましく思ったことが蘇る。

 何よりも、単純に露天付き個室に惹かれてしまい、わたしは結局胸を痛めながらも伊佐野さんに有給休暇を申し出た。


 箱根の温泉旅館に泊まった夜、わたしは久しぶりに和佐を受け入れた。

 アサミと交わったその身体、その体重、その体温。触れられるたび、突き上げられるたび、胸の奥から悔しさや情けなさが湧き上がる。生傷が痛む。

 もしかして、和佐はセックスがしたかっただけなんじゃないのだろうか。家ではずっと拒否しているから――そんな疑念さえ胸に生じた。

 世間ではきっと、よくあることなのだろう。パートナーが浮気して、でも別れには至らず、すべてを許容して続いてゆくカップル。あるいは夫婦。

 それでもわたしは、あの一連のできごとを虚空に葬り去るなんてできそうになかった。

 イミテーションのような平穏。

 セックスのあと、速やかに彼から離れて大浴場へ向かう途中、触ればぽきりと折れそうな細い月が廊下の窓から見えた。

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