迎えにきてよ

 気を落ち着けるため、わたしはベッドに腰を下ろした。

 そんなに簡単に別れられるものだろうか。だって今朝、和佐を自分に譲れとアサミに号泣されたばかりなのだ。

「ほんとだから。ほんとに別れたから。今までほんとごめん。帰ってきたらあらためて謝るから、だから帰ってきて。聞いてる?」

 和佐は電話の向こうで鼻息荒くまくし立てている。

「……あの……さ」

 志賀さんに背中から抱きつかれながら、わたしはどうにか声を発した。

「アサミは納得したの? 朝は、とってもそんなふうには」

「本心まではわからないけど、とにかく同意させた。ただ、まあいきなりまったく会わないとなると荒れるかもしれないから、当面は友達としてやっていこうって」

「友達?」

 なあんだ。身体の関係込みのお友達か。気が抜ける。

「それは別れたって言わないんじゃない」

「いや違うから、最後まで聞いて」

 和佐の熱弁によると、とりあえずふたりは恋人としての関係を終わらせたそうだ。ただし天涯孤独であるアサミといきなり絶縁するのはあまりに不憫ふびんなので、彼女に恋人か友達ができるまでは、友人関係を続けるとのこと。

 あくまで友人として会いたくなったときは、必ずわたしを同伴して会いにゆく。けっしてふたりきりでは会わないことに取り決めたとのこと。

「げ、勝手に決めないでよ。わたしあの人に会ったらまためまい症になっちゃいそうなんだけど。もう会いたくないよ」

「そんな言いかたしないでよ。友達がひとりできるまでのことなんだから、すぐだよ。お願い。ね、だから帰ってきて早く」

「……」

 まあ、たしかにふたりきりで会われるよりはましと言わざるを得ない。

 言葉をなくしていると、わたしのスマホに耳を近づけて一緒に聞いていた志賀さんがまたひょいと奪って話しだした。

「たびたびどーもー。ねえ、おたくずいぶん勝手じゃない? 別れたからって今までのこと舘野さんが全部許すって決まったわけ? あとさあ、帰ってこい帰ってこいって言うけど、おたくがやらかしたことにたんを発して今こうなってんだから、自分が迎えに来るのが筋ってもんじゃないの。俺、さっき居場所言ったよねえ? 逃げも隠れもしないから車走らせてきなさいよ。……え? 持ってないの? あっそう」

 志賀さんは肩をすくめてみせる。

「じゃあ、電車でも何でも使って来なさいよ。桜木町のワシントンホテル。部屋番号はね、えっと」

 サイドテーブルに乗せてあったルームキーを取って渡すと、志賀さんはそれを見ながら部屋番号を和佐に告げた。なんだかこの展開が我が事と思えない。和佐は本当にここへ来るのだろうか。

「じゃあね、待ってっから。早くこないと舘野さんのこと食べちゃうよ~」

 ちょ、ちょっと。わたしの焦りをよそに、志賀さんは電話を切ろうとする。が、和佐がまだ通話口で何か叫んでいる。

「はいはい、何よ。……え? ……いやだからそれは言葉のアレっていうか。まだキスしかしてませんよ。へ? 俺が勝手にしただけですよ、おたくのかわいい彼女は清廉潔白ですよ。……はいはい。……はい? ……いや、だからそこはさあ」

 志賀さんは顔をしかめた後、大きく嘆息した。

「……わかったよ。送って行きます。鶴首かくしゅして待ってなさい。ほんっとにめんどくさいねおたく」

 志賀さんは今度こそ通話ボタンを切り、こちらを振り向いた。

「自分が駆けつけるまでの間に俺が舘野さんを襲っちゃうんじゃないか信用できないから、送り届けろだってさ。勝手だね」

 言い表せないかすかな失望が胸に広がった。

「でも、この部屋、せっかく……」

「ふふ。もったいないよね。やっぱり1回くらいセックスしとく?」

 志賀さんはいたずらっぽく笑った。

「冗談。あなたを送り届けたらまた戻って、一人淋しく贅沢に寝るよ。でも、次は遠慮しないからね」


 志賀さんは律儀にわたしを自宅マンションまで送り届けてくれた。

 すっかり暗くなった駐車場で和佐は待っていた。何かを握り締めていると思ったら、一万円札だった。

 志賀さんと一緒に車を降りて近づいてゆくと、和佐も駆け寄ってきてわたしの腕をぐいと引っぱり、志賀さんから引き離した。

 片手でわたしの頭を抱きかかえ、反対の手で志賀さんに万札を突きだす。

「こんなんじゃ足りないと思いますけど、とりあえず」

「いいよいいよ、受け取れないよ。ってか第一声がそれって」

 志賀さんは笑って拒否する。

 出逢った頃から大人っぽくて常識人だと思っていた和佐だけれど、志賀さんと対峙すると、その容姿も挙動もずいぶん幼く見えた。そのことにわたしは戸惑う。

「ほんとにお騒がせしました。お世話になりました。楽しかったです。ごはんもおいしかったです」

 わたしは和佐の身体を押し返し、志賀さんに頭を下げる。

「楽しかったね」

 志賀さんは少し口を尖らせ、本当に淋しそうに言う。わたしはせつなくなる。この優しい人をこんなふうに振り回すのは、本意ではない。

「もしまた泣かされたら、今度こそ俺とセックスしようね。彼氏だって他の女とやっちゃってるんだから、ねえ」

 志賀さんは挑むような口調で言った。和佐がびくりとする。

「そうですね」

 ああ、わたし今、「一矢いっしむくいて」いる。

「……それは俺たちの問題なんで、あなたには関係ないですよね。もうちょっかい出すのやめてもらえますか」

 和佐は持て余したお金をポケットにねじこみながら、硬い声で言う。

 敵対心むきだしの和佐なんて、久しぶりに見た。ああ、今日はなんて濃い一日なのだろう。

 志賀さんはまた肩をすくめて、

「自分がやられて嫌なことは、人にしないことだね」

と言った。

 志賀さんのフォルクスワーゲンが去るのを見届けたあと、和佐は冷えきった手でわたしの手を握りしめながら

「あの人、哀川翔みたいだね。全体的に」

とつぶやいた。

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