at the hotel

 ぱりっと糊のきいたシーツの上に、志賀さんはわたしを押し倒した。

 ゆっくりと唇を重ねようとしてくる。

 和佐の顔が浮かんだ。

「あっ、えっと」

 反射的に厚い胸を押し返してしまう。

 志賀さんはわたしを見つめたあと、ぼふっとベッドに倒れこんだ。

「……やっぱだめか」

 ふたりベッドの上に並んで、ホテルの天井を見つめる。

 志賀さんがとってくれた、シティーホテルの高層階の客室。

「ごめんなさい、ちょっとまだお腹がいっぱいで」

「いや、謝るのはまだ早い。夜にまたリベンジするから」

「そう……ですね」

 気の早い冬の西日が広い窓から差し込んでくる。


 飛び乗ったタクシーから電話をかけると、突然の連絡に驚きながらも志賀さんはわたしに指示して、降りた場所まで車で迎えに来てくれた。

 疲れ果てていた。アサミの家に乗りこみ、責め立てていたら逆ギレされ、帰宅してからは和佐を怒鳴りつけ、お昼も食べないまま家を飛びだした。心身ともに、疲労困憊していた。

 志賀さんも今日はまだ軽いブランチしかとっていなかったそうで、わたしをシュラスコ料理専門店のランチへ連れて行ってくれ、ふたりで死ぬほど食べた。胃壁がきりきりするほどに。

 そのまましばらくドライブした後、志賀さんは無言で車をこのホテルの駐車場に入れた。

 男性の車に乗るというのは、そういうことなのだろう。覚悟はしていた。もう子どもではない。

 どうにでもなれ、と思った。

 当て馬にしてもいいと言ってくれた志賀さんに甘えることしか思い浮かばなかった。

 まさか部屋に入るなり押し倒されるとは思わなかったけれど。


「まあ俺もさ、自分に気持ちが向いてない子を無理やり犯す趣味はないからさ」

「……ごめんなさい、甘えてしまって」

「謝らないで。凹むから」

「ごめんなさい。……あ」

「だから」

 志賀さんは笑った。

「今日はさすがにちょっと……誰かに甘えたくなってしまって」

「いや、そんだけ修羅場をくぐり抜けてきたらそりゃあヤケも起こすよ。そんなときに俺を思いだしてくれたのは嬉しいよ」

 志賀さんはわたしを抱きしめた。

 志賀さんの好きな煙草、「アメリカンスピリット」の香りがする。

「よくがんばったね」

 頭を撫でられて、少し泣きそうになる。

 色恋で修羅場を演じるなんて、大学生の荒れていた頃以来だ。

 和佐にものを投げつけたことなんてもちろん初めてだ。ヒステリックに叫んだりして、嫌われたかもしれない。

 ……いやいやいや。志賀さんの胸の中で、わたしは自分に突っこみを入れる。

 アサミに身も心も奪われている和佐に、今更嫌われようがどうだっていいじゃないの。

「泣いてる?」

「や、大丈夫です」

 ベッドの上で抱きしめられてこんなに優しく扱ってもらっているのに、その腕の中でわたしはやっぱり和佐のことを考えている。

 結局、そういうことなのだろう。代わりなんていないのだ。

 でも、今だけは誰かに寄りかかっていたかった。帰らないと宣言して家を飛び出してしまったことだし。

「ねえ」

 志賀さんがわたしの目を覗きこむ。

「はい」

「無理やりはしないけど、やっぱこんなの生殺しだよ」

「え」

「ちょっとだけ触っていい?」

 待って、と言う間もなく、志賀さんはわたしのスカートの上から尻を撫でた。

「や、ちょっと」

「ずるいよ、舘野さんは。俺が夢中なの知ってて」

 反対の手が胸に触れる。

「あ、ちょっ」

「やっぱ無理。こんなの無理。やっぱ、する」

 志賀さんはわたしの上に身を起こし、覆い被さるようにキスをした。

「んっ」

 力が強い。唇を押し当てたまま、志賀さんはわたしの両手に指を絡ませた。和佐もセックスのとき、よくこんなふうに手をつないだまま、する。和佐……。

「ん、んん」

「好きだよ」

「志賀さ……」

「それとも、先にシャワー浴びる?」

「あ、あの、わたし、やっぱり」

「なに」

 力が緩んだ隙に握られていた手を離し、志賀さんの胸をもう一度押し返した。

 身を起こして、頭を下げる。

「やっぱり、あの、まだ気持ちの整理がつかなくて。彼氏のこと考えてしまうから、だめです」

 ふぅーーーーーーーっ。

 志賀さんは、長い長い溜息をついた。

「ほんとにごめんなさい、こんなとこまで連れてきてもらって」

「やっぱ俺じゃだめ? こんなに気が合うのに。バツイチだから? 一回り上のおっさんだから?」

「いえ……志賀さんより年上の方と、……したこと、ありますし」

 付き合っていたわけではないので、事実に忠実に言おうとしたら、直接的な言い方になってしまった。和佐と出会う前の話だ。

 志賀さんはあぐらをかき、腕組みをして

「なんだよ、妬けるなあ」

と拗ねたように言った。ちょっとかわいい。わたしはもう、中年男性の魅力をだいぶ理解しているつもりだ。

「……メロメロなんだよ」

 志賀さんは、顔に両手を当てて嘆息した。

「初めてなんだよ、あなたみたいなの。女の子に司馬遼太郎貸しつけられたり、新撰組について語られたりとか。才色兼備なのに酒飲みで大食いとか。わけわかんないよ」

「……」

「ほんとにはまってるんだよ。俺にチャンスちょうだいよ。彼氏はほんとにあなたと一緒にいる価値ある男なの?」

 志賀さんのまっすぐな言葉が、傷ついた胸にすーっと入っていく。

 じーん。じーん。

 口を開きかけたとき、スマートフォンの振動音が聞こえた。床に投げ出されたわたしのハンドバッグからだ。

 じーん。じーん。じーん。じーん。

「ご、ごめんなさい、ちょっと」

 慌ててベッドから降りる。画面を確認するまでもなく、和佐だった。

 家を飛び出して最初の1時間ほどは狂ったように着信していたのに、その後はぱたりと止んでいた。

 画面を見つめたまま硬直していると、志賀さんがわたしを後ろから抱きしめた。

「なに、彼氏?」

「はい……」

「ふーん、小平和佐っていうんだ」

 着信は一度途切れ、またすぐに鳴り始める。

「出なよ」

「でも……」

「じゃ、俺が話す」

 志賀さんはわたしの手からスマホを奪い取り、勝手に通話ボタンを押してしまう。

「あっ、ちょっと」

「もしもーしっ」

 ああ、もう。どうにでもなってしまえ。

「……はい。どうも志賀といいます。……ええ、いますよ。ここ? 横浜のワシントンホテル。……へ? 知らんがな。ところでおたく、浮気してるんだって?」

 志賀さんは強気に和佐と通話している。

「悪いけどねえ、おたくがふらふらわけわかんないことしてるから舘野さん泣いてるでしょうが。もう俺、もらっちゃうからね。知らないよ。……え? ええ、ああ、そう。どこまで本気か知らないけどね、まあいいや、直接言いなよ」

 志賀さんがスマホを投げるようにわたしに寄越す。仕方なく耳にあてる。

「……もしもし」

「ちょっと、由麻! 何なの、なんでホテルにいるの。誰なのシガさんて」

電話の向こうで和佐は興奮して息を切らしている。

「和佐にそれを責める権利あるの?」

「……ないよ、ないかもしんないけど、いきなりすぎてびっくりするでしょ」

「志賀さんは優しい人だよ。誰かと違ってわたしのこと大事にしてくれそう」

「由麻!」

 和佐が大声を出す。

「わかった、それはもう帰ったら聞くから」

「帰らない」

「頼むから帰ってきて。お願い。由麻がいないと俺、生きていけないってよくわかったから。あのね、聞いて、俺ね」

「帰らない」

「聞いて。アサミとは別れたから」

 ……え?

「もう、ふたりでは絶対に会わないから。今、アサミに電話して説得して、ちゃんと別れたんだ。もう由麻のこと苦しめないから。だから帰ってきて」

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