「彼女」の部屋で[後]

「ただの浮気相手っていう扱いでもないしさあ。酔っ払ってうっかりえっちしちゃっただけなら、もう連絡してこなきゃいいだけじゃない? あるいはさ、友達になろう、でいいわけじゃない?」

 こんなときに、三浦くんとのことを思いだした。

 たった一度の、あの交わり。ラブホテルの部屋に置かれていた、変なオブジェ。彼がわたしを抱く前に眼鏡を外し、サイドテーブルにかしゃんと投げ出すように置いたこと。

 一夜限りのことでも、意外に詳細に覚えている。そしてわたしは、三浦くんとの未来は選ばなかった。でも和佐は、アサミとのその後を自ら望んだ――。

「……でも」

 この場でわたしが彼女を言い負かすことで事実がくつがえるわけではないけれど、それでもわたしは必死で言い返す。

「和佐、同情している部分は大きいって言ってましたけど。あなたが……その、天涯孤独だからとかなんとかで」

「そりゃあそうだろうね。かずくん、優しいもん。じゃなきゃボランティアなんてしないでしょ」

 アサミは顔色ひとつ変えない。片手で犬の頭を撫で、片手でニットの毛玉をむしり続けている。

「身寄りもない孤独な女に気に入られて、一発やっちゃって、それでスルーするなんてことできる人じゃないよ」

 なぜこの人の言葉はこうも品がないのだろう。利害関係以前に、わたしは彼女と会話するだけで消耗してしまう。

「でも、あなたとのことは一時的だって言ってました。わたしとは、永続的だって。昨日話したときに」

 できることならこれは言いたくなかった。でも、残酷な事実でも受け入れるべきと言ったのは彼女だ。

 さすがにこれは少々効いたらしく、アサミは口をつぐんだ。犬の首を、ぎゅっと両手で抱きかかえてうつむいている。

 すん、とはなをすする音が聞こえた。なんだか、わたしがいじめているみたいだ。

 愛人の自宅へ乗りこむ本妻。そんな陳腐な場面を自分が演じているようで、ものすごく居心地が悪い。

 壁時計の秒針の音がやけにうるさく聞こえる。

「……いいじゃないのよ」

 ぞっとするような低いトーンで、アサミは言った。

「あなた、あんな素敵な人に9年も10年も一途に愛されたんでしょ。今度はあたしに譲ってくれたっていいじゃないのよ」

 きっ、とわたしを見据えた目は、暗い情念を宿してらんらんと輝いている。全身の肌がぞわりとあわ立った。

「そんな義理ありません。和佐はわたしの大切な」

「あなたさあ、苦労したことある?」

「は?」

「片親だからっていじめられたり、大学進学を諦めたり、明日の食べるものにも困ったりしたことある?」

「……」

「あなたどうせさ、あれでしょ。両親に愛されて育って、苦労したことなんてないでしょ。大学だって四大で、私立文系で、実家に仕送りしてもらってたんでしょ。あくせくバイトなんかしなくても浮かれた大学生活送れたんでしょ」

 ぞっとした。

 和佐は彼女にわたしのことをどこまで話しているのだろう。

 犬が所在なさげに飼い主を見上げている。

「母子家庭って、どんなものだかわかる? ねえ。想像もつかないでしょうね。そのたったひとりの肉親を失って、持病持ちの犬とふたり暮らしで、どんなに心細いかわかる? ねえ。かろうじてジハツカンの資格取って自分の食い扶持を自分で稼ぐことができることになるまで、どんなに苦労したか、ねえ、想像できる? ねえ!」

 アサミは泣いていた。だくだくと涙を流し、鼻声でわたしを糾弾する。

 その剣幕に押されつつも、わたしはかろうじて言葉を絞りだす。

「だからって……境遇が違うからって、人の彼氏を」

「そんなみじめな生活にさあ、好意を持ってくれそうな男の人が現れてさあ、カラダでも何でも使ってつなぎとめたくなる気持ち、わかるでしょ? X大出るくらい頭いいんだからさあ」

 アサミはわたしを遮って叫ぶ。もはや支離滅裂だ。自分の言葉に自分で興奮し、ますますヒートアップしている。

 和佐がわたしの出身大学まで彼女に話していることに、頭がくらくらした。ふたりきりで、わたしについての話をどれだけしているのだろう、この人たちは。

「そんなに恵まれた人生だったんだからさあ、彼氏のひとりくらい諦めたっていいじゃないのよ。あなたくらいかわいかったらモテるでしょ。すぐに相手見つかるでしょ。譲ってくれたっていいじゃないのよ」

「……和佐じゃなきゃ」

 いやだ、と言おうとして、言葉に詰まる。

 裏切られていた。

 酔った勢いとは言えアサミと関係して、そのことをずっと隠していた和佐。その身体で、わたしともたくさんセックスしていた。

 涙がこみあげる。けれど、わたしは必死で押しとどめた。彼氏のもうひとりの恋人の家で泣くなんて、みじめになるだけだから。


 がちゃりと鍵を開け、ずんずん部屋に入る。

「あ、お、おかえり!」

 居間のソファから跳ねるように身を起こした和佐に向かって、アサミの家で投げつけたハンドバッグをわたしはもう一度投げつけた。わっ、ととっさに顔をかばった和佐の手に当たって床に落ちた。

「ちょっ、何す……」

「隠してたんだね」

 息を切らして、わたしは言う。

「アサミと、セックスしてたんだってね」

 和佐ははっとした顔になり、硬直した。

「その身体で、わたしとも」

 涙声になる。泣かない。奥歯をかみしめる。わななく両手を握りしめる。

「……最低」

「ごめんっ」

 和佐が床に土下座した。

「ごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめん」

 狂ったように「ごめん」を繰り返す。

「由麻に嫌われるのが怖くて、言えなかった。ほんとに、ほんっとうにごめん。ごめんなさい」

 声が震えている。

「アサミに触れた身体で、もうわたしに触らないで」

「ごめん。いやだ。由麻」

「ずっと嘘ついてたんだね。気持ち悪い。もう何も信じないから。キスでもセックスでもお好きにどうぞ」

 泣き声になるのを必死にこらえながら、わたしは投げつけるように言った。

「いやだっ」

「誕生日もクリスマスもアサミと過ごせばいいじゃない。この部屋でアサミと暮らせばいいじゃない。こそこそしないで毎日毎日好きなだけセックスすればいいじゃないっ」

「いやだ、由麻」

 和佐は起き上がり、わたしを抱きしめる。その腕を、力いっぱい押し返した。

「触らないでって言ったでしょ」

「由麻、頼む、聞いて」

 和佐はなおもわたしを抱きしめ、そのままソファに押し倒した。

「やめて! もうこういうことも、したくないっ」

「由麻」

 無理やり口づけられる。アサミとも何度もキスしたというその唇。

「やめてってば!」

 わたしはとうとう、和佐の頬を平手打ちした。

 和佐はソファに身を起こし、呆然とわたしを見つめる。

「アサミに、会ってきたの?」

「うん。全部聞いたから」

「……そっか」

 和佐は絶望したような表情を浮かべた。

「……セッ……クス、したことは、あれは、俺は、セックスだと思ってない」

 震える声で言いわけを始める。

「本当に、ほとんど記憶がないんだ。めちゃくちゃ酔ってて、気分が悪くて、本当に休みたくてホテルに寄ったんだ。それで眠りこんでたら、彼女が……」

「もういいよ、その辺も聞いたから」

「ごめん。勝手だけど許してほしい。俺が甘かった。まさか女性の方から、あんな」

 和佐がリードしたセックスではなかったようであることだけが、わずかな救いだった。

「……だから、あれはノーカウントにしてほしいと思ってる。彼女には申し訳ないけど」

 わたしは、気を落ち着けようと呼吸を繰り返した。

「でも、キスはしているもんね。カップルそのものだね」

「……」

「まあいいや。わたしもしたから、志賀さんと」

 するりと、そんな言葉が出た。

「えっ」

 顔色を変えた和佐を無視して、わたしは立ち上がり、投げつけたハンドバッグを拾う。

「えっえっ、誰、シガさんて」

 冷然と居間を出て、追いかけてくる和佐を振り払いながら、自分の部屋と寝室を行き来していくつかの持ち物をハンドバッグに突っこんでゆく。スマートフォンの充電ケーブル。外泊用の化粧ポーチ。着替え一組。下着一組。

「ね、ちょっ、何してんの」

「帰らないから。今度こそ」

「由麻っ」

 部屋を走り出る。ずっと首に巻きつけたままのマフラーが扉に引っかかりそうになる。追いかけてくる和佐の目の前でドアを閉める。

 マンションの通路に置いてある不在時受け取り用の生協のコンテナを、閉じたドアを外からふさぐように置いて、ささやかなバリケードを作る。和佐が内側からドアを開けたせいで、それはがらがらと音を立てて崩れた。その隙に、ひたすら走る。

「由麻っ」

 全速力で、通りまで走る。神の救いのように走ってきたタクシーに手を挙げて、わたしは飛び乗った。

 今夜は、本当に、帰らない。

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