「彼女」の部屋で[中]

 今……今、なんて?

「『もうしない』って、なに?」

 わななきながら、わたしはアサミの顔を見据えた。息が、うまく吸いこめない。

「あ、かずくんの許可なく言っちゃった。でも、もう隠すのも限界だししょうがないよね。だって、確信があったから今日、確かめに来たんでしょ」

 アサミには、反省の色も見えない。そもそも反省する必要があるとも思っていないのだ。

 今日の彼女は胸元の深くくれた山吹色のニットを着ていた。前回は気づかなかった豊満な胸の谷間にどきりとする。

 その胸に、和佐は触れたのだろうか。そう考えると、全身の血が沸騰するような気がした。

「……あなたを恋人にしたいって最初に彼が言ったとき、キスもセックスもしないからって言いました」

「あー、そっかあ。うん、セックスはでもね、最初の1回だけだよ。それしかしてない。どんなに誘っても応じないよ。あなたのことが大事なんだね」

「最初の1回って?」

 予感はしていた。

 出会ってものの数時間で恋人同士になったと説明されても腑に落ちなかったし、付き合う理由として「責任」という言葉を持ち出されたときも違和感を覚えた。

「酔ってて何がなんだかわからなくて」とも言っていた。セックスに至ったことを指していたのだ。

「いやほら……、最初に会った日。この前も言ったけど、あたし一目惚れしちゃったんだよね。かずくん、右手に指輪はしてたけど左手ではなかったし、既婚者じゃないならとりあえずいっとけと思って」

 アサミはまたペリエを一口含み、喋り続ける。

「飲み会には来てるけどほんとはお酒そんなに得意じゃないんです、とか言うから……ごめん、黒酢ドリンクと烏龍ハイを入れ替えたの、あたしなんだ」

「はあ!?」

 思わず大声を出した。眠りかけていた犬が、びくっと顔を上げる。

「ごめんね。これは本当にごめん。かずくんにも内緒ね」

 アサミは手を合わせて拝むポーズを取ったけど、それはなんだか芝居がかって見えた。このイレギュラーな事態を、どこか楽しんでいるかのように。

「濃いめに作ってもらったやつだったんだ。それでもあんなに簡単に酔っ払っちゃうとは思わなくて。気持ち悪そうにふらふら帰るところを、『休んで行ったら?』ってラブホに誘ったわけ」

「は……犯罪じゃないの」

「でも、ちゃんと歩いて付いてきたよ、彼。薬を盛ったわけでもないよ」

 ああ、聞きたくない。けど、ここで真実から目を背けるわけにもいかないのだ。

「で、まあ、彼にしたら焦っただろうね。酔いが醒めてきたと思ったら、出会ったばっかの女が体の上にまたがって腰振ってんだから」

「やめて!」

 わたしはハンドバッグを投げつけた。それはアサミの顔をかすめて、壁にぶつかって落ちた。

 犬が身を起こし、わたしに向かってわん、と吠えた。

「最低! 最っ低」

「彼女さんさあ、知りたいの? 知りたくないの? 本当のこと」

 アサミは顔色ひとつ変えず、魚のような目をして言った。

「あたしだったら知りたいけどなあ、好きな人の本当のこと。残酷だけど」

 煮えたぎる怒りをこらえて、わたしは奥歯を噛んだ。

 感情が乱れたら、奥歯を噛め。

 小さい頃、喧嘩して泣きわめくわたしや姉に祖母がよくそう言っていた。

 上げた腰を下ろして、座り直す。大きく深呼吸をした。こんなに血圧が上がるのはいつ以来だろう。

「ごめんね。昔から肉食系女子ってやつなんだ、あたし。それにしてもあまりにもうまいこと行き過ぎて、あたしだってびっくりしたよ。この人を逃したらもういないって思った。もう33だし」

「えっ」

 33歳? 雰囲気や話し口調からして、年上かなとは思っていたが。

「カラダでも何でも使うしかないのよ、他に何も取り柄もないし。あなたみたいに若くてかわいくもないし」

「……」

 わたしだってもう三十代だけれど。

「でもね、カラダだけってわけでもないよ。ラブホ出たあと、気を落ち着けるためにカフェに入って――あ、そっからは話してある通りね。かずくん、すごい前のめりであたしの話聞いて、刺激的な話がいっぱい聞けて楽しかった、人生観変わりそうだ、って言ってくれたよ。付き合ってってお願いしたら、彼女がいるからっていったんは断られたけど…」

 アサミは両手で自分の頬を包み、しばしうっとりとした表情を浮かべた。

「その夜のうちに電話かかってきて、『彼女にはちゃんと話すから、もう一人の恋人として付き合ってみたい』って。嬉しかったな」

 アサミは、自分の着ているニットの毛玉をぷちぷちとむしりながら言った。頰をばら色に染めている。

 犬はいつのまにかまたアサミの膝でまどろんでいる。

 たーけやーーー、さーおだけーーーーー。

 竿竹売りのスピーカー越しの音声が外を通り過ぎてゆく。

 古いタイプのエアコンが吹き出すややかびくさい温風が、わたしの頭頂部に吹きかかる。

 わたしは……わたしは、こんなところで何をやっているのだろう。見聞きしているすべてのものが、誰かのものであるかのように感じた。

 和佐と蜜のように過ごした、あの無敵に幸せな時間から突然はじき飛ばされて、知らない他人の日常にどすんと落ちてきてしまった。そんな感覚にとらわれた。

 わたしの知らない和佐の顔を、この人は知っている――。

「隠しごとされてたのはショックだと思うけどさ、それでもほとんど嘘はついてないはずだよ。馬鹿が付くくらいまじめだよね、彼。ま、そこがいいんだけど」

「……返して」

「へ?」

「わたしの和佐を、元通りにして」

 奥歯をぎゅっと噛む。泣かない。絶対泣かない。

「それは無理だよ。あの人、あたしのことも結構好きだもん」

 アサミは幸せそうに言う。悔しいのは、それが見当はずれではないことだ。

 自分の知らない音楽が聴こえてくるような感じなんだ――あの言葉を彼女に聞かせたら、さらに狂喜乱舞することだろう。

「いたぶるような言いかたはやめてもらえませんか?」

「そんなつもりはないけど、一応謝っとくね。ごめん。あたしって本音と建前とか、含みのある言葉とか、苦手なんだ。嘘がつけないの。でもそれがいけないのかな、友達いないんだ。ウケるでしょ」

 あ、今更だけど、と彼女が部屋の隅に腕を伸ばし、クッションを渡してきた。

 色褪せたピンクのクッション。犬の毛がたくさん付いていて、受け取ったもののとても座る気になれず、持て余してしまう。

 さっきの竿竹売りの声が、また聴こえてきた。

 もう、ここに長居はしたくない。早く帰って和佐と話さなくては。

 でもその前に、言っておかなければならないことがある。

「和佐に結婚を迫ってるんですか」

「あ、え、うん、まあ」

 アサミは漫画のように指先で頬をぽりぽりかいた。

「そういうのは、やめてもらえません? 和佐が混乱するんで。泣き落としとかも」

「かずくんじゃなくて、あなたが混乱するからでしょ」

「わたしは混乱するどころじゃないです。烈火れっかのごとく怒ってます」

「すごい表現だね」

 アサミは低く笑って、それからうつむき黙りこんだ。黒い髪が彼女のフェイスラインを隠し、表情が見えない。

 わたしは急に喉の渇きを覚えた。けれど、彼女に出された飲み物になんて口を付けたくなかった。

「……あのさあ」

 胃の底から出すような声で、アサミは言った。

「あのさ、一応さ、あたしも彼女なわけね。だからあなたに指図を受けるのも、ちょっと違うと思う」

 攻守交代とばかりに彼女は語り始めた。

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