「彼女」の部屋で[前]

 その週は、さすがに和佐はアサミとのデートに行かなかった。

 勝手だけれど、それはそれでいらいらしてしまう。逢いたさをぎゅっと押し殺し、そのことでひときわ彼女への想いを募らせているのではないか。

「たまに」していたというキスを反芻して自慰でもしているのではないか――

 わたしの後ろ暗い想像には限りがなかった。

 心が、谷底へ、落ちてゆく。


 確かめたいことがあった。

 次の土曜日は、わたしの好きな薄曇りだった。

 わたしは早起きして身じたくを整えると、行先も告げずに家を出た。

「どこ行くの? ちゃんと帰ってくる?」と泣きそうな顔でわたしを見送る和佐に、氷のような無表情を向けて。

 呼吸を整えながら電車とバスを乗り継ぎ、なじみのない住宅地へ。

 あの日、3人と1匹で歩いているとき「あ、ちなみにあそこがうち」とアサミが指差したクリーム色のアパートを、記憶を頼りに目指した。


 本当に来てしまった。

 アサミが在宅しているかわからないどころか部屋番号も知らないままに、わたしはそのアパートの前にひとり立ち尽くした。

「レジデンス井原」というプレートが貼り付けられた、遠目にはクリーム色に見えたその2階建てのアパートは、もともとは白かった壁が経年劣化で黄ばんだものであることが、近くで見るとうかがえた。風雨による汚れもかなり広範囲にこびりついている。

 外階段の脇に集合型の郵便コーナーがあり、6個の錆びた郵便受けが全部で6部屋あることを示していた。

 その中の102号室のネームプレートに、「門脇」と手書きされた紙が差し挟まれている。よく見ると、小さな丸っこい文字で「&ザッシュ」と書き足されていた。

 カドワキアサミ。彼女が名乗った瞬間から、わたしの脳裏に焼きついた名前。

 わたしは102号室の臙脂えんじ色のドアの前に立った。

 古いタイプの呼び鈴(それは「チャイム」と呼ぶよりそう呼んだ方がしっくりきた)は、祖母宅のそれを思いださせる重厚な音で、りんろん、と鳴り響いた。

 応答はない。

 もう一度だけ押してみる。アサミじゃなかったらせめて犬だけでも出てきてくれとわたしは念じてみたが、無反応だった。

 土曜日の午前9時半は、親しくもない間柄の人間を訪問するにはきっと早すぎた。

 まだ寝ているかもしれない。もしかしたら、既にどこかへ出かけてしまったかもしれない。……いや、仕事以外は犬と寄り添って過ごしていると聞いたのだ。

 いないなら、会えるまで待つまでだ。わたしはハンドバッグの持ち手を握り直し、臙脂色のドアを見つめ続ける。負のオーラを放ちながら、いつまででも待てる気がした。

 住宅街の真ん中なので、人影が現れては通り過ぎてゆく。ドアの前に立ち尽くすわたしにもの問いたげな視線を投げかけてゆく人もいる。

 「レジデンス井原」の敷地に入ってくる人がいた。びくりと視線を向けるが、アサミではなく初老の男性だ。赤茶けた鉄階段をたん、たん、と上ってゆく。

 わたし、ストーカーのように見えているかもしれないな。

 周辺を散歩でもして出直そうかと思ったとき、

「あ」

 という声がした。

 犬のリードを持ったアサミが立っていた。


「そろそろ来るんじゃないかと思ってたんだよね。あたしたちずいぶん、勝手してるし。この間、なんか思いつめた顔してたしね。あ、楽にしてよ」

 アサミの髪は、ピンクではなくなっていた。墨汁のような漆黒しっこくの髪が、肩より少し上でぱつんと切り揃えられている。そのせいで、前回会ったときよりきりっとして見える。和佐はもう、この髪を見たのだろうか。

 外観の印象とたがわず、小さな部屋だった。

 玄関を入ってすぐ左手に、小さな流しと一口コンロ、備え付けのミニ冷蔵庫だけのキッチン。右手にトイレとユニットバス。その奥に六畳間が一部屋。わたしが上京して最初に住んだ部屋より狭い。

 ベッドにちゃぶ台、ライティングデスクにカラーボックス。ところ狭しと家具が配置され、床にはペット用とおぼしきシートも敷かれ、雑然としている。

 ちゃぶ台の前で、わたしは正座していた。

 溶けたバターのような色をした犬は、散歩で体力を使い果たしたのか、部屋の隅でぺたんと座ったままテニスボールのようなものをがしがしかじっている。

「狭いでしょう。でもね、ペットOKだし庭が使えるし、なかなかなんだ」

 庭。さっきは気づかなかったが、たしかに窓の奥、隣家との間に緑の茂ったスペースがある。

 アサミが、ペリエの瓶とグラスをわたしの前に運んできた。とくとく注いでくれる。

 その泡立ちを見ながら、わたしは

「和佐って影響されやすいですよね」

とつぶやいた。

「え、かずくん?」

 その凡庸な呼び名とすっとぼけたような声に、わたしは苛立つ。落ち着け。

「炭酸水ばっかり飲んでますよ、家で。冷たい飲み物避ける人だったのに」

「ああ、ああ。はいはい」

 わたしの言わんとすることを理解して、アサミは鷹揚おうように笑った。わたしに注いだ残りを、グラスに注ぐでもなく瓶ごと口に運んでいる。

 アサミが腰を落ち着けると、待っていたかのように犬がやってきてすとんと座り、彼女の膝に顎を乗せた。アサミはやさしくその背を撫でる。

 文字通り、寄り添って暮らしているんだな。アサミが仕事で不在にしている間のこの犬の孤独に、少しだけ思いを馳せた。

「昔ね、ほんとに若い頃だけどイタリアに行ったときにね、はまっちゃったんだよね、ガス入りウォーター。日本ではあんまり一般的じゃなかったから最初は個人輸入とかしてたんだけど、最近は日本のメーカーも出してるしね。箱買いしてる」

「……わたしと暮らし始めた頃は、LIPTONのミルクティーばっかり飲んでました」

 実際は「ばっかり」というほどでもなかったのに、ついマウントを取るような言いかたをしてしまった。彼がLIPTONを自発的に買ったのは、ほんの数回だ。

「あ、ミルクティー好きなの? ごめん、そういうおしゃれなやつないんだわ、うち」

「そんなこといいんです」

 そんなこと話しにきたわけじゃないんです。

 ニュアンスが伝わったのか、アサミは口を閉ざした。

 と思ったら、犬の背を撫でながら――というよりやや指を立てて毛並みをくようにしながら――また問わず語りに語りだした。

「この子ねえ、正式にはあたしの子じゃないんだ」

 犬はとろんとした目をして、アサミに身を預けている。

「収容センターから引き取って、一時預かりしてるの。犬猫の里親探しボランティアってやつね」

 またボランティアか。わたしは敬意を抱くより先に少し呆れてしまった。どうすれば、自分以外のものにそこまで時間や情熱を注ぐ気になれるのだろう。

「収容センターって、いわゆる保健所ですか」

 大きく興味を引かれたわけではないが、相槌あいづち程度に尋ねた。

「そう。飼い主の勝手な都合で捨てられたかわいそうな犬たちや、迷い犬ね。一週間経って飼い主が引き取りに来なかったら、殺処分されるの」

「殺処分」

「うん。炭酸ガスで殺されて、焼却されるの」

 うっ、とわたしは口を押さえた。

「だから、家庭のペットとして愛されてやっていける見込みのある子は、民間のボランティア団体がもらい受けて里親探ししてるの。ザッシュもね、右耳がほとんど聞こえないし、腎臓も悪いから専用のえさ代がかかるけど、無駄吠えしないしおとなしくていい子だよ」

 遠くで、消防車のサイレンが聞こえる。

「ほんとは、うちの子としてずっと一緒にいたいんだけどね。正式な里親としての適性はあたしにはないからさ、貧乏だし。ホームページに写真とか特徴とか載っけて、里親募集中なんだ。持病があるから絶望的だけど」

「髪、染め直したんですね」

 脈絡を無視してわたしは言った。貧乏、という単語が引っかかったのだ。お金がないなら、まめにカラーリングできる余裕などないはずだ。

「え、あ、これ?」

 アサミは意表を突かれた顔をして、自分の髪を触りながら言った。

「ああ、カラーモデルしてるのあたし。街でほら、『美容師でーす』って声かけられたりするじゃない、カットモデル募集の」

「ああ、ありますね」

 渋谷、新宿、池袋。大きなターミナル駅の周辺に必ず出没する、自称美容師たち。彼らに付いていったことは、わたしは一度もない。

「あたしお金ないからさ、見習い美容師の実験台やってんの。ウィンウィンの関係よ。でも、さすがにピンクは怒られちゃった、職場で。ジハツカンとしての自覚がないって。非常識だって」

 本当によく喋る女だ。こちらの反応なんて露ほども気にかけず、滔々とうとうと喋り続ける。

「でもあのピンクの髪を異常に気に入ってくれた子が3人くらいいてさ、おかげでボスもしぶしぶ1ヶ月だけ認めてくれたんだ。特例でね」

「和佐と出逢ったときは、何色だったんですか、髪」

「え、えっと7月の終わりくらいだから……モスグリーンかな。遠目には黒っぽかったから特に怒られなかったな、あのときは」

 不毛だと思いながら、想像してみる。モスグリーンの髪の毛の彼女と出逢い、酒を片手に話しこみ、ときめきを覚えたわたしの恋人の姿を。

 わたしが黙りこむと、アサミはペリエを口に運び、ふう、と息を吐いた。

「ごめんね」

 突然の謝罪の言葉に、わたしは驚いて顔を上げた。

「相当むかついてるでしょ、あたしのこと。結婚一直線だったときに、突然現れて」

 そうですねとも言えず、わたしは口をつぐむ。

「あんまり頻繁に誘わないようにするから、かずくんのこと。ごめんね」

「あ……いや……」

「もう、セックスとかしないから」

 ……は?

 心臓が凍りついた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る