誕生日の、朝

 強いストレスを感じたときに目の前に食べ物があると、それを食べきってしまうという習性が備わっていることを、白いホールケーキにフォークを突き立てながらわたしは今更ながら自覚した。


 和佐が出て行きひとり残されたわたしは、ついさっきまで彼に押し倒され愛撫を受けていたソファーに身を起こした状態で、しばらく茫然自失となっていた。

 ほんのさっきまで激しく舌を絡めあっていたわたしの恋人。それを電話一本で簡単に呼びつけてしまう、どこかの誰か。

 突然インターフォンが鳴って、心臓が跳ね上がった。彼がもう帰ってきたのではないかと刹那、期待しかけた。

 もちろんそんなはずはなく、モニターに映っているのは寿司桶を抱えた寿司屋のドライバーだった。

 わたしは自分のANNA SUIの財布を取り出し、自分でお金を払って寿司桶を受け取った。

 お釣りの小銭を財布にしまい、ぱちんと留め金を留めたとき、初めて涙がこみ上げてきた。

 泣く代わりに、わたしは寿司を食べた。和佐が3人前頼んでいた寿司を次々に口に放り込んでいった。

 なぜか、彼は今日中に帰ってくることはないだろうという強い確信があった。それで、ためらわずに寿司桶をひとりで空にした。いつもなら和佐に食べてもらう、少し苦手なサーモンも帆立も、全部食べた。

 寿司を食べ終えると、ケーキへ移行した。包丁で切り分けようとして、分け合う相手もいないのだと気づき、フォークをホールケーキに突き立てた。レアチーズ。生クリーム。ババロア。ピスタチオクリーム。スポンジケーキ。

「おいしい」

 口に出してみた。その声はひとりの部屋に響いた。

 実際、寿司もケーキも極上の美味しさだった。こんな状況に置かれても、五感は正常に働いている。そのことは、わたしを心強くさせた。

 2/3ほど食べたところで、ようやく我に返った。胃がきちきちに張っている。もう一口も食べられなかった。

 そうか。なんとなく、理解する。強いストレスを受ける前に過食してしまうのは、防御反応のようなものなのだろう。食べている間は何も考えず、何も傷つかない。

 時計を見ると9時前で、今シーズン和佐と一緒に観ているドラマが始まるところだった。

 わたしはひとりでテレビを観て、食器と寿司桶を洗い、ケーキの残りは冷蔵庫にしまい(断面を包丁できれいに切りそろえるだけの理性はかろうじて残っていた)、風呂を沸かして入り、女性ファッション誌を持って寝床に潜りこんだ。

 スマートフォンのアラームをセットしていると、0時になった。ひとりきりで迎える、三十代の始まり。

 意外にマメな楢崎と、大学時代の友人、以前の職場の同僚から、立て続けにお祝いのLINEやメールが届いた。わたしは彼女たちのテンションや文章の長さに合わせて返信する。絵文字やスタンプも選んで華やかな体裁にする。

 ひととおり返信し終えると、スマートフォンに枕元の充電コードを差し、タオルケットを耳まで引き上げた。和佐が帰ってきてチャイムを鳴らしても、聴こえないように。そして、何も考えずに眠り込んだ。


 翌朝目覚めると、和佐は隣りの布団で寝息を立てていた。寝巻き代わりにしているいつものTシャツとスウェットパンツを履いているし、風呂を使った跡もある。

 電車が動いている時間に帰ってきたのか。スマートフォンを見ると、寝ている間に4件の不在着信と3件のLINEが来ていた。すべて和佐からだ。

「ごめん由麻、本当にごめん。もう寝たかな? 由麻の大切な日に、本当にごめんなさい。これから終電で帰ります。1時前には着きます。」

「待たなくていいから、先に寝ててね。本当にごめん。そして誕生日おめでとう(ケーキの絵文字)」

「今日は、アルブルに直接来てね。待っています。誕生日、がっつり祝うからね!」

 謝意よりも焦りの伝わる文面だ、とわたしは思った。意外なほど心は冷静だった。

 昨夜暴食したぶんさすがに食欲は起きず、朝食代わりにトマトジュースをごくごく飲んだ。残暑はさすがに影を潜め、秋の空気に入れ替わっていることをキッチンに立っていても感じた。

 普段どおり顔を洗い、着替えをし、髪を整えて化粧をする。和佐はまだ寝ている。

 いつもならテレビを付け、ニュースを聴きながら化粧をするのだけれど、今日は無音の部屋でそそくさと済ませた。和佐に起きてほしくなかった。顔を合わせ、言葉を交わすのを避けたかった。

 そっと部屋を抜け出して外から鍵を閉め、朝の町に飛び出す。いつもよりずっと早い時間に家を出たのに、駅まで走らずにいられなかった。

 不実な恋人が眠る部屋から、一刻も早く遠去かりたかった。

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