86.指輪




 私の付き合っている越前谷さんの右手の薬指には、シンプルな指輪がいつもついている。

 私とのものではない。



 出会った頃から彼の指にはすでについていた。

 最初は婚約者がいるか、彼女がいるのかと思った。


 しかし彼の話からそれが違うとすぐに分かる。


「小さい頃に亡くなった母の、形見なんだ。」


 そう言って悲しげに笑った彼に、私は何も言えなかった。

 言ったら彼とこれ以上の関係を望めそうにないと、頭が警告していたからだ。


 だから流して、以降それについて何も聞かないでいた。





 その事が今、私を苦しめている。


 あれから彼と付き合って、もう5年が経った。


 結婚。


 その文字が頭の片隅にずっといる。

 そして同僚や友達もそれとなく聞いてくる。


 彼もきっと私との結婚を嫌とは思っていないはずだ。



 問題なのは、彼の指で未だに光る指輪だけ。

 それとなく何度も言った。


 私との指輪を付けるのだから、それを外してほしいと。

 しかし彼はいつも困った顔をして、決して私の言う事を聞いてくれなかった。



 その事に最近、イライラとしてしまっているのは事実だ。





「今度の休み指輪を見に行こうか?」


「うん。」


 先日、彼がプロポーズをしてくれた。

 婚約関係になった私達は、結婚に向けての準備を始めている。


 私は彼の右手を、出来る限り見ないようにしながら頷いた。





 前にあんな事があってから、それについて何も言わないと決めた。

 越前谷さんに睡眠薬を飲ませて、無理やり指輪を外そうとしたあの時。



 私の思い通りに深く眠っている彼。

 その傍らに立ち、ペンチを手に持つ。


 そして指輪を外す。


 しかし、なぜか抜けない。

 ぎりぎりと音がするぐらい力を入れているのに、うんともすんとも言わない。


 私はやろうと決めていたから、意地になっていた。




 だからべりべりという音とともに、指の皮が全部剥けそうになったのを見て、一瞬思考が停止してしまう。



「え。嘘、でしょ?」



 力が抜けた手からペンチが落ちて、床が少し揺れた。

 私は彼の指を見て、気持ち悪いというより驚きしか出て来なかった。


 それはきっとめくれた彼の指が。

 それ以上は、言い表せるものではなかった。





 あの日から色々とあった。

 目の前で微笑んでいる彼。

 私はそれに微笑みを返し、そして自分の右手を見つめた。


 そこに光る彼と同じ指輪を見て、さらに笑みを深める。



 この指輪が私の手から外れる事は、一生無いだろう。





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