84.くしゃみ




 くしゃみをするという行為が苦手だった。


「ふぇっ、ふぇっ、……くしっ。」


「なんだその可愛いくしゃみ、似合わないな。」


 くしゃみをすると、大概の人にそう言われる。

 成人した男としては、その言葉は全く嬉しくない。



 だから我慢するというのも体に悪いのだが、からかわれるのが嫌なので出来る限りしないようにしていた。





 しかし何とかならないものか。

 助けてくれる人などいないので、僕は悩みを抱えたままだった。


「ふーん、それで悩んでいるんだ。変なの。」


 彼女に恥を忍んで相談してみたのだが、返って来た言葉は冷たい。

 僕は期待していた自分が馬鹿だったと、内心でがっかりする。


「そ、そうだよね。ごめんごめん。」


 更に余計な事を言われる前に、僕はさっさと話しを終わらせようとした。


「そんなの我慢せずにしちゃえばいいでしょ。誰に何を言われたって、別に構いやしないし。思い切りくしゃみしちゃいな。」


 しかし彼女は話を続ける気なようだ。

 僕をびしりと指さして、きっぱりと言い放った。


 指された僕は眉を下げ、情けない顔をする。


「う、うん。そうだね。次はそうしてみるよ。」


「絶対よ。」


 何だか気づかぬ内に、約束をさせられてしまっていた。

 僕は彼女の怒りに触れないように、約束を守らなきゃいけない事に疲れてしまいそうになる。





 その約束はずいぶん前の事だったのに、今思い出したのはちょうどくしゃみが出そうになっていたからだ。

 あれから連絡をとれていないが、やらなきゃ彼女が飛んできそうな気がしてくる。


「へっ、へっ、へっ、へっくしょおおおおおおい!!」


 だから僕は周りに誰もいない事を確認すると、勢いよくくしゃみをした。

 そうすると案外、気分が軽くすっきりとする。


 もう少し早くしておけば良かった。

 僕はしみじみと感じる。



 彼女のあの物言いにはうんざりしていたが、正しい事もあったのだ。

 しかしそれに気づくのが、ただ遅かった。


 もう決して会う事は無い彼女を思い出しながら、僕は静かにその場にうなだれる。





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