42.押入れ



 私は昔から、押入れが怖くて仕方が無かった。



 その他に怖いものは特に無い。

 幽霊も、雷も、お母さんの事だって、そうは思わないのに、ただの押入れだけ近づきたくないぐらい怖かった。


 何がきっかけかは分からない。

 親に聞いても、いつの間にか怖がり始めたと言われるだけ。



 理由が分からなければ、トラウマを克服するどころの話ではない。

 そう諦めて、私は押入れに絶対に近づかない様にする事しか出来なかった。





 それから就職をする事になり、実家から通うには遠いので一人暮らしを決心した。

 本当は嫌だった。

 一人暮らしの為、色々な物件を回ってもどこの部屋にも押入れがある。


 しかも部屋を探している内に、クローゼットさえも怖いという要らぬ情報も増えてしまった。



 それでも家族の勧めや、通勤のことを考えて、結局押入れはあるが使わなくていいぐらいの広さがある部屋に決めた。

 内見の時、押入れは絶対に開けなかった。

 どうなっているのかを見たいとは思わず、不動産屋さんを少し困らせた。




 そして今日、私はその部屋に引越しをする。

 二つ上の兄が手伝ってくれて、スムーズに片付けは終わった。

 あまり使わないけど持っていたいものは、兄に頼み込んで押入れに入れてもらい、私は中を見る事は無かった。



「あー。終わった。」


「ありがとうね。」


 こたつに入り込んでぐったりしている兄の前に、冷たいお茶を置く。それを勢いよく飲むと、私の方をじと目で見てきた。


「お前なー。一人暮らしするんだから押入れ恐怖症は治せよ。俺だって毎回来られるわけじゃないんだから。」


「……うん。分かってる。」


 それは痛いほど分かっている。

 私は兄の向かいに座って、温かいお茶を飲んだ。一人暮らしをしていれば、緊急で押入れのものを使う時があるかもしれない。

 その時に一々、兄を呼び出したら迷惑だろう。


 分かっているが、すぐにどうこう出来る問題じゃないのだ。


「まあ、徐々に慣れてけば。もしも駄目そうだったら暇な時は来てやるし。」


「ありがとう。ごめんね。」


 知らず知らずの内に落ち込んだ顔をしてしまっていた様で、兄がぶっきらぼうに付け足した。

 私はその優しさに顔がにやける。


 昔から頼りになる兄は、私の自慢の家族だ。


「じゃあ、俺帰るな。何かあったら連絡しろよ。」


「今日は本当にありがとうね。バイバイ。」


 こたつから抜け出して、兄は玄関へと向かう。

 私はその後ろについてき見送った。



 バタンッ



 少し大きな音を立てて閉まった扉を前に、寂しい気持ちが襲い掛かってくる。

 1人になると、こんなにも静かなものなのか。

 私はため息をついて部屋に戻る。





 それから数日が経った。

 今の所、嬉しい事に押入れを開ける機会はない。


 近づいても開けなければまだ平気なので、充実した一人暮らしを送っている。

 そうしていると、時々思うようになったのだ。



 どうして、私は押入れが怖くなったのだろう?



 近くにいても怖くない。

 ただ開けるのが怖いだけ。


 何がきっかけでこんな事になったのか。

 考えてみるが、答えは全く出てこなかった。



 だから私はある日、一つの決心をした。




 今後の生活の為にも、1人で押入れを開けてみよう。

 そう思って今、押入れの前に立っている。


 10分程、取っ手を掴んで固まってしまっているが、止めようとは思わなかった。

 これを逃すと、もう一生逃げ続けたままで終わってしまう。そんな気がした。


 深呼吸を何度もして、私は気持ちを落ち着かせる。

 ずっと同じことをしているからか、そろそろやれる勇気が出てきた。


「……よし。」


 私は目をつむって、勢いよく押入れの扉を開けた。

 目をつむっているから大丈夫か分からない。


 私は今度は恐る恐る、目を開けた。




「あれ。大丈夫だ……全然、怖くない。」


 目を開けた先にある荷物が入った押入れに、恐ろしさが無かった。

 あまりにも普通過ぎて、呆気に取られてしまう。


 今まで怖いと思っていたのは昔からの思い込みだったのか。

 私は思ってもみなかった結末に、自分自身に呆れてしまった。






「そういうわけで、大丈夫だったよ。何であんなに怖がってたのかな。ごめんね、今まで。」


『そうか。良かったな。』


 その日の夜、報告もかねて兄に電話をした。

 私の話に呆れた様に笑われ、恥ずかしくなって顔をしかめる。


「本当、今までどうして怖いと思っていたんだろう?不思議。」


『……。』


「お兄ちゃん?」


 そろそろ話を終わらせようとしたら、兄が急に黙り込んだ。

 私は突然、声が聞こえなくなったので、電波でも悪くなったのかと呼びかける。



『あの、さ。』


「んー?何?」


 少しして途切れ途切れに、兄は話し出した。

 何の話だろうと、私は耳を澄ませる。


『帰ってから、俺も考えてみたんだよ。何でお前が押入れに恐怖を抱くようになったか。』


「え、うん。でも、勘違いだったよ?」


『違う、違うんだ。俺、思い出したんだよ。』


 兄があまりにも真剣な声で言うので、今度は私が黙り込んでしまう。


『昔、たぶんまだ3歳だった頃だと思うんだけど、お前なんか悪いことやって怒られて押入れに閉じ込められたんだ。それで、それで、その押入れの扉を親父は開けられない様にした。ちょっとしてから開けたんだけど、お前気絶してたんだ。涙の跡が残っているのに、俺達はお前が泣いている声が全く聞こえなかった。』


「……。」


『だから、家の押入れが怖いんじゃないかって思うんだけど……なあ、おい。聞いているのか?』


 私はもう兄の話を聞いていなかった。

 思い出したのだ。


 あの時、私は押入れに閉じ込められて。

 しばらくして、その後に……。










「あ。ああ。ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」



『おい、大丈夫か!?返事しろっ!?』






 口から勝手に出てくる悲鳴。

 叫びながら私はもう実家に帰れないと、どこか冷静に思っていた。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る