第Ⅱ幕:静謐なる記憶、記録の構築

2-1.海岸を歩いて

 石のない砂の地面はそれでも踏めばしっかりとしていて、音が鳴るのが面白い。蹴ってみたい気持ちを抑えながら、カインはノーラを見る。押したり引いたりを繰り返し、柔らなしぶきを上げている海の音も最初は新鮮だったけれど、さすがにずっと聞いていていれば眠気を誘われる。隣接している森から何かが飛び出してくる、そんな気配は微塵もなくて、カインはちょっとだけあくびをかみ殺した。晴天の中、鳥が群れをなして鳴き声を上げつつどこかに向かって飛んでいく姿を見送りながら、カインは隣で黙々と歩いているノーラへ声をかけた。


「あの鳥はなんというんだ?」

「さあ……カモメかうみねこじゃないの」

「この海はなんという海なんだ?」

「ちょっと思い出せないわね」

「さっき木陰でリスを見たんだが、リスはどんぐりを食べるというのは本当か?」

「ねえ、カイン」


 ノーラがにこりともせずこちらを向いて、その青い眼がすがめられていることに気付いた。


「私、歩く事典じゃないの」

「いや……その、ノーラなら何か知っているかと思って」

「リスは木の実を食べる、それは間違いないわね。でも、ただ見るんじゃなくて観察してみたら?」

「む、観察か。だがリスは通り過ぎてしまった……」

「明日は森に入るから、そのときにも運が良ければ会えるわよ。絵でも描いてみたらどう? 鳥とか、海のこととか」

「なるほど、そういう手があったか」


 苦笑を浮かべたノーラの顔は困ったようでいて、それでも優しい。多分に、外に出たことで浮かれている己の心情をくみ取ってのことなのだろう。確かにさざ波の音も、時たま強く吹く潮風も、ざくざく音を立てる地面の感触もカインの好奇心を刺激して止まない。


「あそこの岩陰で少し休みましょうか。歩き続けたから、何か飲みたいし」


 ノーラが指し示したところには、丁度背丈よりも少し大きめな岩の山があった。長年の波の勢いに削られて大半のところが丸くなっている。日差しを遮るまでは行かないが、背をつけて休憩を取るには良い場所だとカインは思い、素直にうなずいた。


 砂浜にノーラと共に座りこみ、岩に背を預ける。岩も砂も日に当てられてか少し暖かかった。冷たい風とはまるきり正反対で、歩き続けた体をほぐしてくれそうな気がする。つるりとした岩面はほんの少し灰色で、中には白いものがあったり砂粒が混じっているかのようなものもあり、どうして同じ岩なのにこんなに違うのか、カインにはわかりそうにない。


「知らない物がたくさんあって、面白いな」

「思い出せない、の間違いじゃなくて?」


 悪戯をするときのような子供みたく笑うノーラに、きっと他意はないのだろう。カインも別に心を揺さぶられることがなく、それが不思議で小首を傾げた。頭から響いて心を脅かすいろんな声が、今はない。ぞっとするような静けさではなくて、居心地の良さすら感じる穏やかさが逆に不気味で、つい眉を軽くしかめた。


「前までは、声がしていたんだ」

「声?」


 影から酒袋を取り出して、そのまま口をつけていたノーラが目をまたたかせる。


「それってどんなものなの?」

「あれをしろとか、するなとか……ともかく訳がわからなかった」

「幻聴、かしら」

「わからない。でも、今は落ちついている。なぜだろうな」


 カインはため息をついてから、地面から麦酒の袋と羊皮紙の束、それから羽のついたペンを取り出した。考えれば考えるほど、逆にわからなくなることはある。心を惑わす声もしていた。でもそれは、思考のしすぎから現れる雑音みたいなものなのではないか。そう思えるだけの余裕があることに気付いて、紙に日付とその旨を書き足した。


「よし、鳥を描くぞ」

「意外と上手だったりして。そっちの方にも才能があるかもしれないわね」


 カインは気合いを入れて、少し遠く、海から顔を覗かせている岩に止まった鳥の一羽を描いてみた。記号のようになった。それを見ていたノーラと目が合う。彼女はそっと、なにも見なかったという面持ちで視線を外した。


「……あれ、カモメだから。名前を書いておけば後でわかるんじゃない?」

「そうしよう」


 記号みたいな絵の横に名前を書き入れる。それから喉の渇きに気付いて、麦酒の袋に手を伸ばし、中身を少し飲む。苦みのある酒は喉を焼くには至らず、代わりに渇きをうるおしてくれる。砂に置いた紙を眺めていたノーラは遠い目で、羽ばたいたカモメを見つめた。


「あれがどうしてこうなるのかしら……」

「ノーラだって、絵はどうかは知らないが音痴だ」

「それ、よくハンブレにも言われるんだけど、本当? 私って音痴?」

「音痴は自分では気付かないと本に書いてあったぞ」

「……あなたの前で本気で歌ったことなんて、ないじゃない」

「鼻歌が、俺でも聞いていて変だと思うくらいだ」


 ノーラが絶望の淵を見たような顔になった。私が音痴、と繰り返しているノーラにカインは小さく笑う。傭兵組合で気分良さそうに奏でていた鼻歌は、二つ名持ちの琴弾きと比べると酷かもしれないけれど、そうでなくても調子が外れていた。どうやら自覚はなかったらしく、一瞬傷つけてしまったかと思ったけれど、ノーラにそんな様子はない。難しい顔で水袋の中身を少しずつ飲んでいる。


 静かだな、とカインは背中と足からくる暖かさに身をゆだねながら、なだらかな波の音に耳を傾けていた。歩いて数十刻、大体三の時が経ったけれど今のところ彼女を狙う刺客の気配もなく、他の旅人と出会ったこともない。ほんの少し体の気怠さはあるが、気を張らねば襲ってくるまどろみからくるもので、悪い気はしない。本当に、このまま何もなければいい。森の方を見てリスがいないことを確認してから、背後を振り返ったとき、一瞬黒いものが見えて首をそこで止める。


「あれは、なんだ?」

「……あれ?」


 砂浜の遠い奥に、黒い岩を見つけて指を差した。ノーラが立ち上がってそれから真剣なまなじりを作る。


「なるほどね……詞亡王しむおうが出たことがあるんだわ、ここいらには」

「詞亡王」

「多分、あそこの岩から先は、一面が真っ黒になっているはずよ。汚染されてる」


 カインも腰を上げ、遠くにそびえる岩を見た。確かにそこだけ、陽光を浴びてもなお濃き黒があった。詞亡王の名を聞いても声は響かなかったけれど、確かに詞亡ことばなくしものの王たるそれが現れれば、海だろうとなんだろうと全てを黒に染め上げ、そこにいるあらゆるものの殊魂は吸い取られると記憶の一部が持ち上がる。遠くの海に目をやれば、ぷっつりと途切れたかのように影の暗さがあって、最初は崖か何かが陰影を生み出しているのかと思ったのだけれど、どうやらノーラの言う汚染された状態になっているのだろう。


「このまま海岸を通っていく、のは無理そうだな」

「しっ」


 急にノーラが厳しい面持ちを作り、カインを制止した。瞬間、波が立ち騒ぐ音が激しくなって、何事かと思い海を見つめ直したそのときだ。

 海岸に、二匹の奇妙な生き物が現れた。爬虫類のような体を持った二足歩行の生命体――あれは間違いない、<妖種ようしゅ>だ。


「……嘘でしょう、海爬虫男サヴラピノスが今いるなんて」


 ノーラの声は小さいけれど固く、緊張している。到底信じられぬという顔付きで、うろうろとし始めた二匹を注意深く観察している。


「海爬虫男……とは、強いのか?」

「順位は二位だから、一応は。羽女人ハルピーと同じね。獰猛だし催眠の毒を持ってるから、一応駆除対象にはなってるんだけど……」

「放っておけば危険だな」

「まあね。ここを通る人間なんてまずいないだろうけど、丁度いいわ。採取と駆除、両方しちゃいましょう」


 小声のやり取りの後、ノーラは滑るようにしゃがんで影から己の武器を取り出す。影から現れたのは斧刃がついていない槍で、どうやら斧の部分は刺客に襲われたときにだめになったままのようだ。カインも腰につけた大剣に手を伸ばすが、一瞬ためらう。いたずらに生命を屠るのか、以前問いかけてきた声は確かにカインの胸に棘のように刺さっている。けれど、と迷いを断ち切る勢いで鞘から剣を抜き放つ。生きるということは、きっと何かを犠牲にすることだ。それに、決して無駄な殺しにはならないだろう。旅をする誰かのためになるかもしれないし、戦闘商業士のノーラがいるなら何かしら、その骸は人の役に立つ。


 腰を低くかがめたノーラと目が合う。うなずいた。そして二人で一斉に岩から飛び出す。こちらに気付いた二匹が、紛れもない殺気を放っている。それに圧されまいとカインは強く雄叫びを上げた。


  ※ ※ ※


「思わぬ収穫だったわね」


 炎のかがり火がすっかり暗くなった闇夜を照らし、爆ぜる音が回りに広がる。ここは海岸側から少し離れた森の中だ。汚染された海沿いを進むことは叶わなかったので、近くにあった森で一夜を過ごすことになった。このまま北に進むと街道に出るらしく、半日無駄にしたとノーラがぼやいていた。刺客のこともあり、多分街道を使いたくはなかったのだろう。ノーラがつけた焚き火へ木の枝を放り投げながら、間を取って座りこみつつ、懸命に海爬虫男の体から鱗をはぎ取っている彼女の方を見た。


「普通はこいつら、春先に出るのよ。今の時期出るのは珍しいわ。高く売れるわね」

「その、あれはそのままでいいのか?」


 カインにもノーラにも、さして被害が出ることなく簡単に駆除は終わった。一体はノーラの言葉に従い、心臓を貫いて完全に消した。気になるのは、鋼糸で木々の間に宙吊りにされている残りの一体だ。首と頭だけになった海爬虫男は驚嘆すべき生命力で、未だ死ぬことなく唸り声を上げている。藍色の瞳が恨みがましい、というより憎しみを込めて見つめてくるので、なんとも居心地が悪く、敷いた葉っぱの上に座るカインは落ちつかない気持ちになる。


「もう少しで鱗、採り終わるから。終わったら体は焼いて食べましょう。それから殺すわ」

「……食べる?」

「そう。デューが持ってきてくれた肉があったでしょう、あばら屋に。あれも<妖種>の肉よ」


 愕然としたカインは持っていた枝を一気に落としてしまって、その軽い音が森の中にいる鳥を驚かせてたようだ。飛ぶ鳥につられて思わず空を見上げると、夕暮れの朱色も消えた天には少し膨らみを欠いた衛星つきが見えた。臭みもなく、柔らかで旨みのある汁がしたたる味を思い出し、唾を飲み込んで足下に散らばった小枝をかき集める。


「あれは、牛や豚だとばかり思っていた」

「精をつけるなら<妖種>の肉が一番なの。わざわざ買ってきてくれたんだと思うわ。お礼、言いそびれちゃったわね」

「そうか。食べるのか……」

「無駄にしないためにもね。だから生かしておくの。頭を潰しても消えちゃうから」

「そういえば、水妖馬ケルピンを討伐したときもすぐに消えたな」

「坐に還る。そういう言い方をする人もいるわ。だから……延命措置って言えばいいのかしら、こういう薬で保存しておくの」


 刃先が剃り曲がった短刀を器用に動かして、ノーラは鱗を青い液体が入った瓶に入れていく。よく見ればどの瓶にも、砂粒程度の鉱石が入っていることがわかった。毒があると言われた爪も既に別の瓶に入れられていて、薬の素になるのだと説明されていたカインはそれでもどこか惨いと感じながら、口をはさむことをしなかった。守ることと戦うということは、もしかしたら違うのかもしれないけれど、今のカインにはその違いがあまりわからない。いぶかしむカインに気付いたのだろう、ノーラは片眉を上げながらカインを見つめた。


「残酷だ、なんて<妖種>保護派みたいなこと言わないでね」

「いるのか? そんなものが」

「ええ。実際被害に遭ってないからそんなことを言えるんだと思うわ。<妖種>じゃなくても家畜に世話になってる癖に、偉そうで腹立つ」


 怒気を含ませながら吐き捨てたノーラの手つきは乱暴になっていって、怪我をしないか心配になる。同時に家畜と<妖種>の違いについて少し、考えた。本で読んだ記憶では、戦闘商業士が採れる<妖種>には一部制限がかかっていて、実際キュトスス領都でも水路で使われている不定形類のように、人と共存している存在もいる。家畜とそう変わらない。その保護派が主張することは矛盾しているのではないか、そう思い至ったところでノーラの手がようやく止まった。


「とりあえず終わったわ。じゃあ焼いていくから少し待ってね。固いけど味が濃くて、意外といけるのよ」

「なにか手伝うことは?」

「大丈夫よ。毒袋取ったりするの、したことないでしょう? 日記でもつけてたらどう?」

「ふむ……なら、そうさせてもらう」


 血の匂いにもずいぶん慣れたと自嘲しながら、羊皮紙を取り出す。今日あったこと、なにを見たか、わかったのか、そんな記録を取るのはカインの日課となって染みついた。書く前に何かいないか回りを注意深く観察したけれど、刺客の気配もなくリスすらおらず、とても静かだ。ノーラが下ごしらえをしていること以外、辺りに変化は見られない。羽ペンと墨で今日の出来事をゆっくり書いていく。もちろん海爬虫男のことも含めてだ。


 記憶は相変わらず眠ったままだけれど、新しい出来事が増えていく度、心がなんとなく落ちついていくようにカインは思う。地図のようなもの――端から見ればやはり記号にしか見えない代物になったが、それを書いた後、吸った空気から芳ばしい香りがして顔を上げると、もう一つつけられた焚き火に突き刺さった二叉の太い枝、そこに吊された肉が少しずつ焼き色に染まっているのが見えた。


 どこか、ここではない何かを見つめるノーラの瞳が不思議と嫌で、少し会話の糸口を探る。話題はすぐに見つかった。


「エペーサの町は、どんなところなんだ?」

「昔は鉱山が栄えてたんだけどね。今は閉鎖されたから場所柄、交易と鍛冶とで……」


 膝を抱えて座り直し、肉を眺めるノーラが何事もない素振りで言った後に、何かに気付いたように顔を跳ね上げた。濃淡を描く青の双眸は先ほどまでとは違いきらめいていて、でもカインにはそれに見覚えがある。欲を素直に表した彼女は口元をほころばせ、微笑んだ。


「闘技場。あそこ、小さいけど闘技場があるの」

「ふむ」

「勝てば、対戦相手によっては二つ名がつくの。腕自慢が集まるから」

「二つ名か、俺とはほど遠いな」

「そんなことないわよ。あなたの剣術を認めた私の目に間違いはないわ。それで……闘技場じゃ対戦相手を選んでの賭けもやってるのよね」

「賭け」


 あ、とカインはノーラの意図に気付いて小さく頭を振った。


「俺は、出ない」

「まだ何も言ってないじゃないの」

「顔に出ている」


 ノーラは慌てたように口元を抑えるが、その瞳は未だ諦めを知らぬ子供のように輝いていて、カインは思わず苦笑する。


「駆除の補佐と護衛、それが俺との契約のはずだが」

「……けち」

「いや、けちなのはノーラだ」

「少しくらいいいじゃない、融通が利かないわね」


 ノーラは唇を尖らせたけれど、己を賭け事にされてはたまったものではない。闘技場は人と人とが己の技を競い合う場所で、中には死ぬ者もいることは記憶の片隅にあった。危害を加える<妖種>が相手ならまだ分かるが、人とはむやみにぶつかりたくはない、そう思うことは弱さなのだろうか。


「仕合いだと思えばいいのに」

「それはまた別物だ」

「頑固」


 ふん、と鼻を鳴らして彼女は再度立ち上がり、使っていない短刀で肉を少し削ぎ、口に含んだ。焼き具合を確認しているのだろう、考えるように目を閉じて一人うなずく。


「こんなものね。大きい葉っぱ出して」


 羊皮紙を置いて言われた通りにすると、そのまま手にした葉の上に肉片と短刀とが渡される。蒸気を上げている肉は暖かくほどよい焦げ目がついていて、食欲をそそる香りもする。


「食べていいわよ。味付けしてないけど」

「何か、つけるものでも持ってくれば良かったか」

「野生の風味で充分よ」


 ノーラがもう一枚、肉を頬張る姿を見てから恐る恐るカインもそれを口に入れてみた。少し臭みはあるが同時に塩気もあって、ほどよい固さがたまらない。馬肉やデューが持ってきた串焼きとはまた違う、風情のある旨さだ。夢中になって食べ続ける。肉の破片が喉につかえ、むせそうになって麦酒で一気に流し込む。微かな塩味と麦酒がよく合う。彼女がそうしたように、焼かれている肉片を数枚こそげ取って木の葉の上に乗せたところで、ノーラがどうだ、といわんばかりの面持ちでこちらを見ていることに気付いた。


「……美味い」

「でしょう。これも戦闘商業士の醍醐味なのよね。まあ、中には変なものを食べて毒に当たる奴もいるけど」

「未知のものを食べて、とか?」

「そうなの。なのに本人は平気な顔して、また違う種類のを食べるのよね。食い道楽っていうやつなのかしら」


 妙な人物もいるものだ、とカインは小首を傾げながら座る。少なくとも、己はそんなことで死にたくはない。そしてまた食べようとしたとき、肝心なことを聞き忘れていたことに気付く。


「ノーラはどうして、戦闘商業士になったんだ?」


 これは、数日前から聞きたかったことでもあった。時間があればデューやソズム、ハンブレなど見知った全員に、なぜその路を選んだのかと理由を問いたかったのだが、昨夜は慣れぬ準備に勤しんでその機会を逃してしまった。己が傭兵という路を歩む上で信条になるものがあればと、ずっと考えていたのだ。


「師匠がそうだったから」

「師?」

「そう。彼から武器の使い方とか<妖種>のことを教わってね。興味を持ったからなってみたの」


 食べる手を止め、淡々と述べる彼女の面には何もない。喜びも苦痛も感じさせぬ透明じみた顔が、カインの疑問を呼び起こす。普通なら思い出や記憶というものを揺り動かされ、何かしらの感情を露わにするだろう。だが本当にノーラの顔には何もなく、それは眠り続けていたときの人形みたいな姿を思い出させて、カインは一瞬紡いだ言葉をほどきたい気持ちになった。ノーラの戦闘技術は相当なもので、それはカインもよく知るところだ。その師匠という戦闘商業士も、きっと手練れだったのだろうと推測はできる。


「良い師、だったのだろうな」

「さあ。他の人から見ればどうなのかしらね。もう死んだからわからないけれど」


 水袋に口をつけるノーラの声には悲しみとか、悔やみとか、そんなものは塵ほどもなく、ただ単に事実を口にしているみたいでカインは何も言えなくなった。肉の破片を口に入れ、少しずつ噛みながら食事を続ける。梢が触れあう音が耳に響く程度には重たくて、でも気まずいと呼ぶには軽すぎる奇妙な沈黙が降りた。互いに同じものを食べ、肩を並べているのにどこかノーラは遠い存在のように思えて、けれどその距離を縮める手段をカインは持っていない。二人とも無言で肉を食べ続ければ、身長がノーラ程度の海爬虫男の体はすぐになくなった。


 食べ終えて、それでも沈黙が続くものだからどうしていいのかわからず、カインはとりあえず短刀をそっと地面に置き、羊皮紙とペンを手にする。書くこともすぐになくなってしまうほどの短い間に、ノーラは横にある海爬虫男の四肢を持ち上げている。


「私が火の番をしてるから休んでいいわよ。まだ少し残ってる鱗があるから、採れるだけやっておきたいの」

「君も睡眠を取らないと」

「ええ。寝るときが来たら交代してもらうわ。一応気配には注意しておいてね。私もそうするつもりだけど」


 ノーラの言葉は穏やかで、別にカインの問いに気を悪くした様子はなくほんの少しだけ安心した。彼女にとって無言とは、すぐ側にいる隣人みたいなものなのかもしれない。必要以上の会話を交わすことはない、それは慣れからくるものなのか知らないけれど、それでも己の存在を無視するような真似だけはしない。ノーラがまとう孤立、というよりか孤高の雰囲気に戸惑うことはあるが、嫌だと思わぬ己を不思議に思う。


「寝るのはここでいいのか? 海岸に戻った方が安全だと思うが」

「ここから街道に出ないといけないから、今戻ると後が大変なの。今日は多分大丈夫だろうし。襲うなら食事中に来ているはずよ」

「わかった。地理はノーラの方が詳しいだろうから、そうする」

「起きたら地図を貸してあげるわ。書き留めておくと、きっと便利よ」


 それから柔らかく、こちらを向いてお休みなさいと言われてカインも同じ言葉を返す。


 見覚えのない、記憶の縁にも引っかからない森の中、大剣をすぐ側に置いて固い地面に寝る。生い茂った森の空は暗いが、近くにある焚き火のおかげで辺りはほんのり明るい上、空気も暖かく、海岸からの潮風は匂いだけを残している。火の爆ぜる音や遠くで鳴く鳥の声を聞き、ノーラの正確だが単調な手さばきを見ている内に、ゆったりとした眠気がカインを包み始めていた。記憶にある限り外で寝るのは初めてだが、こんなに穏やかでいいのだろうかと心のどこかで思う。静かすぎる記憶は考えても頭をもたげる様子がなくて、いつの間にか、優しいまどろみはカインの瞳を自然に閉じさせた。

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