1-15.視て定めるは人の性
黄色と緑の石でできた酒場――『黄緑の真珠亭』の中は酒精と男たちの体臭が入り交じり、カインの鼻を嫌でもつく。酒場の中央に作られた壇へソズムとデューにむりやり乗せられたカインは、最初は怖々と胡座をかいて座っていたけれど、すでに酒と珍味の魅力にとりつかれた傭兵らは己のことを気にしはじめなくなっており、正直心をなで下ろした。もらった木製の
馬車の中で眠りについていた己を唸らせていたという会話の内容も、ほとんど覚えていない。叫んだのだけはわかる。実際に口にはしていなかったようで、デューも誰もそのことに触れてこなかったことだけがありがたい。
横に置かれた木の実と肉の盛り合わせを見ながら、カインはノーラとの記憶を思い出していた。茶色の木の実に見覚えはなく、薄切りにされた肉もなんのものかわからない。食べたら少し何かを思い出せるのかもしれないけれど、戦いの後でもカインの腹は少しも鳴らなくて、ただただ麦酒を少しずつ消化していく。今は何も考えたくなかった。忘失の隙間へ己を追いやって、必死になって自我を保つ。そうでもしなければ孤独を選んでしまいそうなくらいに。
「おい、カイン。飲んでるか?」
雛みたいに心の裡へと籠もろうとしていたカインを止めたのは、デューの朗らかな声であった。デューが持つ筒盃の中身は葡萄酒で量も大して残ってはいないが、彼に酔った様子は見られない。
「飲んでいる。一応」
「気付けの一杯は飲んだうちに入らないぜ。なんだ、つまみも食ってねぇの?」
「あまり食欲がわかないんだ」
「食っとけよ。どうせソズムのおごりさ。体力なくしたら元も子もなくなるぜ」
言いながら、デューは断りもなく薄肉をつまむと豪快に頬張ってみせた。そのまま空いていた横に座り、一気に酒で肉を胃へと押し込んだ。食べ方は粗雑だが、見ていて気持ちがいいくらいには美味しそうな顔に、なんとなく心の殻にひびが入る。
「ほんとは魚が主流なんだけどさ、ここって。最近全然捕れねぇのな。川魚は元気そうにしてたからよかったけど」
「魚か……どんなものが捕れたりするんだ?」
「川なら鮎やマス、ウナギなんかだな。海なら鰯とかマグロ。香草和えや塩焼きとか食いたいんだけどなあ」
「高いのか」
「そりゃ、採れた分は貴族やら神官たちの食卓に並んじまってな。美味しいモンは独り占めさ」
「分け与えたりしないのだろうか」
「お前、やっぱどっか抜けてるわ。そんな律儀なやつ滅多にいねぇよ」
音を立てて木の実を囓るデューはどこか投げやりで、呆れというより嫌悪に近い表情を浮かべている。でもそれは己に向けられたものではない。きっとデューにはデューなりの考えや思想があって、貴族たちへ嫌気を抱いているのだろう。そこを掘り下げて曝くような真似は、己にはできそうになかった。
「ま、今回の討伐で湖も守れたし、少しは良くなるんじゃねえかな。マスくらいならなんとか酒場でも食えそうだ」
デューが何気に放った一言が、己の胸を軽く揺さぶった気がした。何かしてはいけなかったこと、負い目とも呼べる暗闇に隙間がほんのり射し込んだような感覚を抱く。
<妖種>は確かに人を襲うこともある。けれど今回己が屠ったのは決して攻撃的な種類のものではなく、むしろ安住を求めてさ迷っていた存在だ。迷うことをよく理解しているカインにはなんとなく、あの
「そういやカイン、あんときさ」
「なんだろうか」
「……ああ、いや。やっぱなんでもねぇや。それよか金、落としたりしてねぇよな?」
「当然だ。ノーラに渡す」
「え、全部? お前バカ?」
馬鹿と言われたのはこれで三度目だ。ノーラに叱られたときとは違い、愕然とした響きがデューの声にはあった。言われている己とすればどこがそうなのかわからず、ただ腕を組んで考えるくらいしかできない。
「武器の手入れはどうすんだよ。
「薬軟膏……道具」
「軟膏は、まあ安いのなら十ペクから買えるけどよ、手入れはさすがに千行くときもあるぜ」
「そんなにするのか……?」
思わず懐の隠し部分を見つめてしまう。何かを振り切って手に入れたそれは、己が思った以上に軽すぎた。無論やり方がまずかった部分はあるのだろうが、行き場を失った虚しさがカインの思考を覆っていく。
「最低でも二千ペクは持っとけよ。いくら借金あんのかしらねぇけどさ」
「十万」
ぶっ、とデューが葡萄酒の霧を吹き出した。顎に垂れた紫のそれを腕で拭いながら己を見つめてくる翡翠の目には、どこか憐れみの光があった。
「何したんだか知らねえけど……頑張れ……」
「そうする。でないと、俺は」
なんのために傭兵になったのかわからない。言葉を堪えるように、カインが一気に麦酒をあおった直後であった。
扉が音を立てて開いたかと思うと、男たちが歓声と口笛を上げる。何事かと思って顔を向ければ、そこには――
「ご指名ありがとう。『
ノーラと話していた、ハンブレという名の男が奇妙な笑みを浮かべてそこにいた。呼ばれたことに浮かれる様子も、男たちの体臭が混じった広間の匂いを気にする様も微塵も見せぬ、不可思議な微笑み。ごく薄い水色の瞳でちらりと見られて、カインの心臓は鼓動を立てた。待っていた、よく来た、ともてはやされても笑顔は変わることがなく、媚びがない。ゆっくりとした動きで差し出された椅子に腰かける姿は、まるで一本の大きな支柱が突然屹立したかのようで、カインは内心羨ましく思う。確たる何かがハンブレにはあるのだろうか。それとも全く別のものを持っているのか。ノーラ以上に内面を読み取らせない笑みと振る舞いに戸惑っているうち、男たちは自然とハンブレを囲む半月型の状態に集まる。
「さては皆様ご静聴。勝利を讃える唄の前に、このハンブレの一曲、まずはとくとその耳へ」
縦長でゆるやかに膨らみのある曲線を描く
外の雑踏すら届きはじめた瞬間、ハンブレは目を閉じ、銀色の唇を開いた。
独り
永劫の
いたづらに冥府へ送られたものたちも、
あきらめも怒りをも越え なお独り頂に立つきみよ
玻璃をもとろかす天への調べにて、悲哀ではなく意志を唄え
神に許されざるとも 大地もたらす
視て定めるは人の性 是も非も
なればこそ、如何な
誰もが求める路の中にて、独りとしてあるがきみを我は視るから
なんとも不思議な歌であった。音調は奇妙に歪み、響きは微かに耳に残る程度で一律一律が主張し合っている。だが、調べと声の調和は見事で、そこがまたカインを初めとする聴衆の胸を穿つような絶技の極みだった。献歌とも悼歌とも、また恋愛歌とも違う唄は、それでも場をしらけさせることがない。響きをごく微量に残して一曲を終えたハンブレへ、少しずつ拍手が送られてそれは怒濤の歓呼へと変わっていく。デューもまた目を輝かせて拍手を送っている。
孤独。是と非。まるで己の内面を描き出されたかのようにも思える調べと歌声は、カインの内心を震わせた。でも仄暗い感情はない。脳天に届いて心を揺さぶるその感覚を、高揚と呼ぶのかもしれない。そんなことを思うカインをよそに、続けて二曲目がはじまった。今度は夏の涼しさと暑さを内包したかのような、はっきりと献歌とわかる詩であったけれど、それよりも最初の歌が気になるカインは熟考する。
意志――カインは歌の内容を思い返し、そう呼べるものが、己の中にほとんど存在していないことがわかって愕然とした。己で決めたことは、これまでにどれだけあるのだろう。森にいた以前の記憶を呼び起こすように淀に眠る深層をかき回してみるが、手応えは細かな砂をすくい上げた程度にしかない。決意は全てノーラと出会ったときから数えて、片手で数える程度だ。誰かが筒盃を倒し、中の酒が床にこぼれていくのを見て、まさしくそんな状態なのだなとカインは思う。流されずに確固としたものが欲しい。名前以上の何かを求めても靄をつかんで離すような感覚ばかりで、どこから手をつけていいのか、解答はこれっぽっちも浮かびそうになかった。
三曲目が終わり、しばらくして男たちの談笑が再開されたことに気付いて呆けたまま筒盃を置くカインの耳に、軽い足音が届いた。集団の中を綿毛が飛ぶような柔らかさで素通りしたハンブレは、もう己の座る壇まで来ていた。
「やあ、さっきぶりだね。カインだっけ、君」
「ああ……確か、ハンブレ、だったか」
「なんだよ、お前ら知り合い同士?」
「簡単な、ね。君は『
「二つ名持ちの琴弾きにそう言われりゃあ悪い気はしねぇかな……っと、酒なくなっちまった。ちょっと取ってくるわ」
「僕にも一杯おごってくれないかな?」
「ん、ソズムにつけとく」
軽快な動作で壇を飛び降りたデューは、慌ただしく食事や酒を運び続けている酒場の給仕人たちの方へと歩いていく。結構な酒量を飲んでいたのにも拘わらず、その足取りはしっかりしていた。空いた壇の縁に腰かけるハンブレは笑みをたたえたまま、じっと己を見つめてくる。薄い水色の瞳孔はやけに小さく、猫か蛇のようにも見えるのだけれど、中性的な顔立ちに不均衡な美しさがあってカインに奇妙な感覚を抱かせた。
「独りが悪いことだと思う?」
「何?」
謎かけめいたハンブレの問いに、思わず眉をひそめた。
「孤独は寂しい。孤立は悲しい。だけど、孤独を
唄うような口ぶりで続けられたハンブレの言葉に、カインは何も言うことができなかった。
ハンブレの言葉の意味が、意図するものがわからない。誰を指しているのだろう。ノーラのようにも思えるけれど、違う誰かのようにも聞こえた。己のことなのかもしれないけれど、もしかしたら誰であってもいいのかもしれない、と穏やかに思う。そうして気付いたのは、路がないという事実だった。だから己は、未だに自分を定めることができていないのだろうか。どんな路が己にふさわしいか、そこまでは判断できないままだったが。
「おい琴弾き、オレの場所取るなよ」
「いいじゃないか。詰めれば座れるんだから」
戻ってきたデューは会話を聞いてなかったようで、仏頂面のままハンブレへ筒盃を乱暴に手渡す。彼が再びカインの横に座り直すと一気に壇の上が狭くなった。華奢な体格のハンブレだからこそ、まだようやく三者の隙間がかろうじて空いている程度の空間があるようなもので、カインは落ちつかない気持ちになった。人に近寄られると心がざわつくのも、何か意味があるのだろうか。
酒を舐めるように口にしたハンブレはそれから、ようやく思い至ったみたいに懐をまさぐる。
「そういえば、君宛に手紙を預かってきたんだった」
「手紙?」
「琴弾きはこういう雑用も請け負うんだよ。たまにだけどね。僕の場合、演奏で充分稼げるから」
自負の言葉とともに差し出された一枚の、白く硬い紙には蝋印がされており、鷹のような鳥の文様が記されている。知らない模様に戸惑いながらそれを割ると、中から緑に染められた羊皮紙が出てきた。めくるとそこには見覚えのある文字が並んでいる。
※ ※ ※
カインさんへ
お手数ですが、キュトスス公爵家までお越し下さい。
追記。ノーラさんは既に招待しております。
フィージィより
※ ※ ※
「フィージィからだ」
「え、姉貴?」
肉を食べていたデューと己の声が重なって、思わず顔を見合わせる。あ、とデューがつぶやいて、どこか悔しげに頭を掻く。ついでの舌打ちに、カインはもう一度デューの言葉を内心で反復した。姉貴――姉。フィージィの名に、確かにデューはそう応えた。
「姉……デュー、君はもしかして……フィージィの弟、に、当たるのか?」
「ま、少なくとも妹じゃねぇわな。なんでお前と知り合いなんだよ」
「神殿で会って殊魂について教えてもらったから」
「は、姉貴らしいや。どうせ無理くり話に割り込んできたんだろ」
まったくもってその通りで、でもうなずけばいいのか、否定するかで迷ってから口を噤む。同名の別人と勘違いしているのかと思ったけれど、フィージィの言動を当てられて、確かにデューはあのフィージィと血縁関係にあるのだと認識を改めることになった。
それでも似ていない、とカインは率直に感じた。拗ねたような面持ちで手元にあった瓶から葡萄酒を注ぐデューを見ながら、カインはフィージィの姿を思い出していた。堅苦しさを凝り固めて体現したようなフィージィと、明朗で自由な風のように振る舞うデューとでは、髪色の濃さや瞳の色、雰囲気すら全く別物で、姉弟だと知っても実感がわいてこない。
小さな笑い声がしたからそちらを見やると、楽しげに、意地の悪い笑みを浮かべたハンブレが華奢な肩を震わせている。
「なるほどね。キュトスス樸公の放蕩息子って君のことだったんだ。傭兵さん」
「うるせえ琴弾き。テメェはとっととあっちで唄ってろ」
「おやおや、怖いなあ。うふふ……ならまた仕事してこようっと。じゃあね、お二人さん」
ノーラの瞳にも似た透明な笑みを浮かべて、ハンブレはするりと壇から降りた。軽く手を振りながら男たちの集団へ向かえば、再び歓声で迎えられるハンブレの背を見つめつつ、カインは手紙を懐にしまった。
「行くのか? って、まあ、行かなきゃまずいか」
「ああ。ノーラも呼ばれているらしい」
「オレのことは話題に出さないでくれ。頼む」
「……わかった」
厳しく、どこか悲痛な瞳でそう言われては、カインはただ黙ってうなずくことしかできない。何が彼をそうさせているのか知らないから、簡単な言葉をかけることもできないまま。デューは額を手で覆いながら、ため息をついた。
「裏口から出ろよ。ソズムにゃオレから言っとく」
「ありがとう。助かる」
「ほんとな。貸しは高いぜ?」
「金は、その、困る」
「冗談だよ。お前、素直でからかいがいあるわ。あのノーラって姉ちゃんも、きっとそこが気に入ってるんだろうな」
「……だったらいいんだが」
「多分外に迎えの馬車があるから、その封筒を見せりゃいいぜ。またな」
「ああ。また」
言って、カインは足音を立てぬよう、気付かれないように細心の注意を払い壇から降りた。ソズムを見たけれど、話が弾んでいるようでこちらを見ている様子は微塵もない。他の男たちも同様で、ハンブレの巧みな話術に惹かれたように感心の声を上げたりしていて、己の動向に気付いているのはデューくらいのものだろう。
デューの忠告通り、男たちが集まる表側ではなく壇の後ろ側にある細い通路を行く。一瞬支払いのことを考えたけれど、ソズムがおごると言っていたのだからきっと大丈夫なはずだ。カインの気遣いはやはり無用だったみたいで、山菜を盛り合わせた皿を持った酒場の主人と相対しても何も言われない。そのままカインは木でできた扉を開け、外に出た。
涼やかな潮風がカインの頬に当たり、酒の香りで濁った肺を清めてくれる。酔った客や通りを歩くものがふらついた足取りでどこかに行く姿を見つつ、表に回ると、そこには青鈍色をした馬車があった。
馭者と思しきものと目が合う。いぶかしげに目をすがめてくる男へ近付くと、カインは懐から手紙を取り出した。割られた印を見た後、カインを見直す馭者の瞳はどこまでも冷たい。
「すまないが、キュトスス公爵の屋敷まで頼みたい」
「お早くどうぞ」
冷淡な声音だった。無礼なことをしでかしたかと思ったけれど、とりあえず乗るのが先だろう。中にカインが入れば、馬車の扉が閉められる。天鵞絨張りの中は広く、討伐のときに乗った辻馬車とは段違いの座り心地だった。
鞭が馬に入れられる音がしてから、ゆっくりと馬車が進んでいく。小窓から外を見れば、白く丸い
体が重いな、と優しい振動の中、意識のどこかで思う。眠ってしまえば、きっといらないことを考えもしないだろう。ほんの少しだけ休んでも、きっと誰も文句は言わない。誰か、なんてそれすら知ったことかと小さく、麦酒の苦みが残った口を歪めてカインは笑った。
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