1-5.わかりやすく、簡潔に

 神殿の中は、思っていた以上には明るかった。


 まずカインの目に飛びこんできたのは、薄い硝子でできた大きな丸だ。三角形の屋根の左右両方に、色のついた硝子でぽっかりと陽光が入る部分がある。刻まれた犬――狼だろうか――の模様が敷かれた薄緑の絨毯に影を作っていた。そして周囲には、立ちながら両手を組み、頭を垂れる人々の姿。通路端の扉にはその場所を照らすように豪華な燭台が飾られている。


 祈る対象とおぼしき本を持った女人の像は入り口側でもわかるほどに大きく、神殿の一番先の突き当たりに陣取っていた。


「挨拶するから、見て聞いて」


 秘匿的な、同時に神秘さをたたえた不思議な雰囲気に呑まれかけていたカインへ、ノーラは耳打ちした。


 ノーラが向かったのは神殿の中央部だ。像より手前のそこには、頭から衣を被った数人の男たちが辺りの様子を見たり、時に小声で何かを伝え合ったりしている。ノーラはその中で、一人手持ち無沙汰にしている壮年の男へと歩み寄り、両手を組み合わせ頭を下げてみせた。


「おはようございます、神官様。『麗智神れいちしんアヘナト』につきましては今日も麗しくありと存じます」

「迷えるものよ、神殿にいかなるご用がおありか」

「知識を。『麗智神アヘナト』が我らにもたらした知の一部を分け与えて下さいますよう」

「よろしい、知恵を求めるものを我らが麗智神は拒まぬ」

「ありがとうございます。そのお心と『麗智神アヘナト』の寛大なる御心に感謝致します」


 偉そうな言い方だし、ノーラより大分歳が上の男――神官とやらには確かに威厳もあった。それでも不思議とノーラは見劣りしない。むしろカインの目には、与えられる側であるはずのノーラの方が、いくばくか高みより神官を見ているように映った。


「こちらは『麗智神アヘナト』への、些細な我が心にてございます。受け取って下さいますよう」

「承ろう」


 ノーラが腰の布から袋を出し、神官へ渡す。何が入っているのかはわからないが、神官はその重さに満足したようにうなずき、壁にぴったりとくっつくかのように立っていた少年を呼んだ。少年の衣は神官に比べると装飾も少なく、簡素で、頭には丸帽子を被っている。


「案内はこちらが引き受けた。麗智神の御心を惑わさず、英知を受け取るのがよろしかろう」

「感謝致します。今日この日がより良きものになりますように」


 もう一度ノーラは頭を下げ、少年にも同じ仕草をした。少年は少し、不馴れな様子で同じ行動を取る。

 少年に何事かをつぶやき、ノーラがこちらに戻ってくる。そのおもてに表情はなく、むしろ疲労感すら漂わせていた。


「書庫に入る許可を取ったわ。行きましょう」

「何を渡していたんだ?」

「お気持ちってやつ」


 ノーラはつまらなさそうにひらひらと軽く手を舞わせた。もしかしたらこの神殿が嫌いなのかもしれない、とカインは思う。


「お二方、こちらへどうぞ。ご案内致します」


 あどけない顔の少年がこちらに来たので、カインも見よう見まねでノーラの仕草を真似してみた。少年が慌てたように同じことを返してくる。ノーラの肩が軽く震え、唇を変に曲げているのをカインは見逃さなかった。


 少年が燭台を持ちながら、まるで導くように歩き出したのを確認してから、カインは小声で訊ねる。


「なぜ笑う?」

「だって面白いんだもの。祈りの姿、似合わないわ」


 私もそうだけど、と付け加えたノーラの声はどこか弾んでいた。


「町には書館もあるんだけどね。やっぱりちゃんとした知識をつけるならここよ」

「すまない」

「どうして謝るの?」

「……退屈そうだったから」


 階段を降りながら、カインは正直に答えた。ノーラの小さなため息が、石の空間にも響いてしまいそうなほど大きく聞こえた気がして、カインは少し焦る。


「調べたいことは私にもあったし、別に構わないわ。それにあなたがしっかり知識つけてくれないと、困るのは私」

「そうか」


 確かにそうだった。ノーラに出させてしまった赤字をどうにかするため、己は組合に入るのだ。そこではノーラ以外の人間ももちろんいるだろう。彼らと話すのに、変だと思われぬ程度の教養を身につけておかねばならない。


 昨夜二人で決めた『田舎の山村から出てきて、を知らないお上りさん』という状態の人間であっても、最低限のことは理解しておくのが当然だろう。


「お二方、つきました。ここが書庫になります」


 石畳の階段を二つ下がった後の通路には、たくさんの扉が並んでいる。それらにはやはり、天蓋の硝子と同じ模様が彫られていて、簡素な錠がついていた。


「どのような知識をお求めですか」

「神話と殊魂について」

「わかりました」


 ノーラの言葉に少年は、カインには全く見分けがつかない扉の一つを鍵で開けようとして手を止めた。


「開いてる……ああ、いらっしゃるのか」


 少年の独白はあまりにも大きくて、でもその意味はわからない。カインがノーラへ目配せすると、彼女はただ肩をすくめただけだった。少年はどこか落ち着かない様子で早口で喋る。


「すでに中にお一人いらっしゃいますが、どうぞお気になさらぬよう」

「席をご一緒してもよろしいのでしょうか?」

「大丈夫です、殊魂学者の方がいらっしゃるだけですので。ただ、殊魂ついての質問などは投げかけませんようにお願いします」


 今度こそノーラの顔が一瞬、面倒くさげに歪んだのをカインは見た。本当に瞬時の変化だったので少年には気付かれなかっただろう。神官の時や今回の時といい、ノーラはただ偉いやつが嫌いなのではないだろうか。そんな風に勘ぐってしまう。


「お帰りの際はぼく、いえ、わたくしかどなたかにお声をかけて下さい。それでは失礼します」


 少年はまるでたった今、何かの用事を思い出したみたいな勢いで持っていた獣脂の明かりをノーラに押しつける。それから小走りと言ってもいい速さで階段を上がり、その場から立ち去っていった。


「……なんなの、あれ」

「俺に聞かれても」

「そうよね。まあ、中に一人くらいいても小声で話せば平気よ、きっと」


 人差し指を口に当てて、ノーラはカインに注意を促す。カインはうなずいた。

 戦いを生業とするようには思えぬほど、やわらそうな指でノーラが扉を押すと、思った以上のきしみが周囲にこだました。


「……お」


 不気味に聞こえた音が少しずつ消えていくのを耳にしながら、眼前に広がる本棚の数にカインは圧倒される。煉瓦でできた棚の中に、これほどかというくらいに並べられている無数の本。なんとも言えない古い本の臭みが鼻をつく。それでも掃除はこまめにされているのだろうか、埃などは立つ気配がない。


 棚は天井を支えるように作られていて、上の本を取るための長梯子もちゃんと用意されていた。縦に長い通路のどこここを見ても、本と硝子傘のついた灯火だけが整ってそこにあり、カインは一瞬、どこまでも本の群れが己を見下ろしているような気分になった。


「凄いな……こんなにたくさんある」

「神殿の書庫よ。これくらいはないと」

「他の神殿にもこんなに本があるのか?」

「そうね。でも領地や神殿によって違ってくるかな。麗智神は……これから詳しく話すことだけど、人間に全ての知識を与えた神様だって言われているの。だから余計に多く文献が揃ってたりするわ」

「なるほど」

「先に神話関係の本を見た方がいいわね。ええと、どこかしら……」


 臆せず進むノーラの後ろに続きつつカインは考える。神殿が神様ごとにあるというというなら、十二箇所も点在しているということだ。それを一日で回るのは不可能だろうし、全てを覚えられる確証もない。書庫のほの暗さが伝染したのだろうか、段々と心に暗雲が立ちこめ始めてくる気がして、カインは自然と頭を振っていた。


「あ、あった。ここだわ」


 急にノーラが足を止めるものだから、思わず彼女の背にぶつかりそうになる。刹那、カインとの間で起きた風がノーラの青紫の髪を揺らし、あの微かに甘く、清涼な香りが漂って胸をなごませる。心中で騒ぎ始めたざわめきを幻みたいに止めるその香りを、カインは気に入った。


「いい香りだ」

「何か言った?」

「いや」


 なんとなく口に出してはいけないことのように思えて、カインは繰り返すのを止めた。ノーラは怪訝な顔をして見せながらも、本の確認へすでに移っている。


「どれがいいかしらね。簡単なものからいくか」


 見えない暗闇を手探りにするように、ノーラは明かりをあちこち移動させて、無数の背表紙へ目をこらす。


「手伝う」

「ありがとう。じゃあこれ持ってて」


 灯火を渡され、ノーラの顔が移動するに従ってそこへ光を当てていく。それを何度繰り返し幾刻いくときが経ったのだろう。気付けば数冊の本が選びぬかれ、ノーラの手中にあった。


「うん、こんなものでいいかな」

「その程度の冊数でいいのか?」

「いいわよ、別に。小難しいことを知る必要はないんだし」


 正直カインはほっとした。ここにある本全てを読まねばならないとばかり思っていたから。


「座れる場所、探してくるわ。まずはこれ読んでて」


 ノーラから本を全て渡されたが、片手で取れる程度に薄い。その中でノーラが示した薄青の本には、こう書いてあった。『五歳でもわかる神様の成り立ち』。


「……ノーラ、さすがにこれは」

「子供用の本もそろえてあるってさすがだわ。やっぱりここに来て正解だったわね」

「いや、俺は子供ではないような」

「子供用の本を侮っちゃあだめよ。基本をかみ砕いて、わかりやすく伝えてくれるんだから。まずは基礎固め、それがなんでも重要」

「そういうものか」


 なるほど、そう言われてみると腑に落ちる。煉瓦棚のくぼみに明かりを置いて、大陸の形を落書きで書いてあるような表紙の本をめくってみる。


「ここにいてね。ついでに私の本も探してくるから」


 言われてカインはただうなずいた。カインの集中はすでに、子供用の本へと移っていた。

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