epilogue

 想いの丈をあんな形で伝えあったとは言え、十八年の付き合いがそう簡単に一変するわけもなく、大きな山を越えた先にはもっと大きな山が聳えていた。

 あれから一ケ月経とうと言うのに、なまじ付き合いの長い空晴そらはる秀雄ひでおの間にピンクの空気が流れる事はおおよそ天気雨よりも確率が低い。


「あぁー……やりてぇ……」


 烏呼者ヲコモノのカウンターに項垂れた空晴は、誰に言うでもなく一人そう零してあまり機能しない思考回路を絞り上げる。

 どうしたらそんな雰囲気に持って行けるのか、お互いの気持ちは確かめ合ったと言うのに、深夜シフトの増えた秀雄はまるでそうなるのを避けるかのように夜は家にいない。泊まりに行っても、帰って来た秀雄はアニメを見て夜を明かし、起き出した空晴が仕事に行った頃から寝始める。

 キスはしてみた。

 してみた、と言うのも実験の様な感じが否めない。

 何かを確かめる様にしてみたものの、それ以上の事をしようとすれば秀雄が妙に逃げ腰になる。


「お前だって、したいっつったじゃん……」

「空晴、お前独り言がでけぇよ」

「なぁ、オヤジ。俺、どうしたらいいと思う? 好きなヤツにセックスしたいって言ったら、嫌われるかね?」

「秀雄はお前を嫌いにはならんだろうよ」

「ちょ、何で秀雄だって分かんだよ!」

「見てりゃ分かるわ! バカか」

「何だよ……俺だけ分かんねぇとか……。つーか、何で逃げんだよ……俺の事好きなら、やりてぇだろ、普通!」

「お前の脳味噌は幸せ培養だなぁ、空晴。烏呼者ヲコモノが」

「ヲコモノ? 何それ……」

「バカっつー意味だ」

「何だよ! 俺だって、男なんだからやりたくなって当たり前だろ!」

「まぁ、そうだな。だったら嫌われるだの、ゴチャゴチャ言ってねぇで押し倒せ」

「いやでも……あいつに嫌われたら俺、生きて行けねぇもん」

「ついこの前まで気付きもしなかった癖に、ゲンキンなヤツだな」


 だって、好きだから嫌われたくねぇじゃん。

 いつか依恋が言っていた言葉をふと思い出した。


 ――やっぱ、好きだから嫌われたくないじゃないっすか。


「もしかして、秀雄もそうなのか……?」


 お互い好きだとは言ったけど、もし不安にさせているとしたら……。

 そう思い当たった空晴は秀雄の自宅に帰って、貰っている合鍵で中へ入り午前二時までのバイトを終えた秀雄が帰って来るのを待った。

 いつもなら勝手に来ても起きて待っている事が出来ずに寝てしまう。

 でも今日はどうしても秀雄と話がしたい。


「まずは一緒に寝てみる所から……」


 どうも秀雄は同衾する事を避けている様だと、最近になって気付いた。

 あんまりにも自然過ぎて、何で一緒に寝てくれないのか? なんて思いつきもしなかったけれど、触れたい欲求が募って初めて気付く。


「……あれ? 空、何で起きてんの?」

「おかえり」

「明日、休みだっけ?」

「いや、遅番だけど……話したくて待ってた」

「話? 何、別れるとか? そう言う事?」

「ちっげーよ! あんさ、お前、俺の事あんまり信用してねぇよな?」


 キョトンと目を瞠った秀雄は、脱ぎ掛けたパーカーを腕に引っ掛けたまま固まってしまった。


「な、何? どゆこと?」

「お前、そうやっていつ別れても良い様にって、俺とまだ距離置いてるだろ……」

「……そ、そんな事は……ない」

「じゃあ、何でやんねぇの? 俺とセックスしたいつってたじゃん! 一緒の布団にだって入って来ねぇじゃん」

「だ、だって空は……男とした事ないじゃん……」

「じゃあ、俺とは一生やらないつもりなのかよ?」

「そ、そんな事は言ってない……」

「お前、また何か俺に隠してる事あるだろ! 言え! 言わねぇと、あ、コレ、ぶっ壊すぞ」


 空晴はテレビの上に置いてあるフィギュアを徐に掴んだ。


「ぎゃあああああ! ソレはだめぇええええええ!」

「言えって! 秀雄!」

「分かった、分かったから! それそんな風に握ったら先っちょ折れちゃうからぁあああ!」

「知るか。俺にはお前との今の方が由々しき事態だ」 

「そうやって物を質にとって脅せば良いと思って!」

「お前だって、俺を放置して何プレイだよ! 俺はお前の彼氏なんだろ!」

「恥ずかしい事を真顔で言うなっ!」

「ふざけて言う方がムカつくだろうが!」


 恋人になった途端に、喧嘩する様になってしまった。

 友達だった頃どれだけ秀雄が自分の気持ちを抑えていたのか、こんな事で思い知る。


「だって……やっぱり無理とか言われたら……怖いも……ん」

「言わねぇよ!」

「そんなの分かんないじゃん! 空、バカなんだから何も考えてないんでしょ!」

「お前も人の事言えねぇだろうが!」

「だって、俺……痩せてるし、全然良い体じゃないし……」

「俺はお前が筋肉隆々ですんごいイケメンだからって欲情する訳じゃねぇよ」

「でも……おっぱいもない……」

「お前、それ引っ張り過ぎだから……バカ」

「……ごめん」


 秀雄のそのごめんは、美姫みき一哉いちやと一緒に飲んで泣いて帰った日の「ごめん」に良く似ていた。

 空晴は自分の隣をぽんぽんと叩いて秀雄に座る様に促すと、秀雄はパーカーを脱いで大人しくそこに膝を抱く様にして座る。

 肩を抱くなんて事が出来なくて、空晴は自分の体を秀雄に預ける様に凭れかかった。


「別に謝る事ねぇけどさ……。今日は一緒に寝てくんねぇ? 一緒に寝る位なら良いだろ? ホントはやりてぇけど……」

「バカ……」

「なぁ、秀雄。何でエレンさんだったの? 俺の事好きだったのに、何でエレンさんの事好きになろうって思ったんだよ?」

「……別に、大した理由では無いけど」

「顔か? それとも、あの人がゲイだって分かったからか?」

「ちっがうよ……」


 秀雄は悪戯をした子供の様な上目使いで「笑うなよ」と前置きした。

 何の事か分からない空晴は、そんな可愛い顔で見るな、と右側から伝わる秀雄の熱に起きだしてしまいそうな息子を宥める。

 言い辛そうな秀雄を不思議に思いながらも、空晴は秀雄が喋り出すのを待った。


「冷し中華、温めますか? って聞いて、怒らなかったから……」

「は?」

 

 秀雄いわく冷し中華を持って来た客に「温めますか?」と聞いて、怒らなかったのがエレンだけだった、という話だ。


「いや、意味分からんわ。何、それ、わざと聞いてたって事?」

「最初はさ、本当に間違えたんだけど……その時、客からめっちゃ怒られてさ……」

「あぁ、まぁ、そりゃなぁ……」

「俺と空は冷やし中華みたいだなって、思ったんだよね」

「何そのバカ丸出しの見解……そこ詳しく説明しろ」

「温めたら不味くなる……みたいな? しかもうちのコンビニのヤツ、ゆで卵入ってるし、温めたら爆発すんじゃん……木端微塵になっちゃうって思ったら、俺と空も温めたらダメなヤツだなって……」

「例えが乙過ぎんだろ。まぁ、いいや。それとエレンさんがどう関係するわけ?」

「まぁ、そう思ってから冷やし中華持って来た客には温めますか? って聞いてみてたんだ。怒らない人がいたら、その人の事好きになろうって決めてた。ただの賭けみたいなもんだったけど……エレンさん、その時こう言ったんだよ」


 ――温めたら、美味しいの?


「俺、そん時素で『温めた事ないから分かりません』って答えたんだけど、笑ってくれたんだよね」

「ほお? その笑顔に惚れたってか? つか、お前本物のバカだろ……それともドМなのか? 怒られるって分かってて、何やってんだよ」

「だって、お前以外好きになった事ないんだから! どうやって他の人好きになったら良いのか本当に分からなかったんだよ! ただ……怒らない人は初めてだったし、何か空も同じ事言いそうだなって、思ったんだよ……」

「え、俺?」

「お前って、俺がどんなバカな事言っても怒らないじゃん。バカな俺をいっつも許してくれるし、俺を変えようとか、変われみたいな事言った事ないだろ……」

「別に秀雄は秀雄だし」

「うん。それがね……一番好きなとこなの。もっと大人になれとか、ちゃんとしろとか、バカにそんな事求められてもさ……出来たらやってるっつーんだよ……。色々息苦しいなって思うけど、空はそう言う事一切言わないだろ。だから、お前の事好き過ぎてどうしていいか分かんなくなって……でも十八年もこんな気持ち抱えてたら、段々怖くなって来て……」

「怖い?」

「お前に彼女出来る度に終わったって思うのに、お前あんま長続きしねぇじゃん。でも流石に二十五にもなったら、周りで結婚とかさ……色々話聞いたりして、お前もいつか結婚して、俺はボッチになんのかなって思ったら……他に好きな人作ってお前の事忘れたいって思った」

「それで、エレンさんってわけか」

「うん……」


 秀雄は自分がゲイだとカムアウトすれば、距離を置かれるだろうと覚悟していたと付け加えた。


「巨乳好きのお前が、男好きになるとか思わないだろ……」

「だから俺は別に胸だけ見てるわけじゃねぇよ! つーか、十八年っつったか? お前はいつから俺の事好きなんだよ……」

「小学校の入学式の時……」

「最初からじゃねぇか!」

「だって……お前だけなんだもん……俺の事、すげぇとか言ってくれんの……空だけなんだもん……好きになっちゃうでしょ、そんなの……」

「ならもっと早く言えよ!」

「言えるかよ! バカ!」

「どっちがだよ!」


 どっちもだよ、と秀雄は笑った。

 その顔があんまり可愛くて空晴は秀雄の頬を掴んで唇を寄せる。

 最初は固く閉じられていた秀雄の唇が、熱に浮かされる様にじんわりと開いて、その中へと舌を滑り込ませた空晴は、秀雄の細い肩を抱いて夢中になって貪った。

 秀雄のロンTの隙間から片手を滑り込ませると、細い肢体がビクリと跳ねる。

 でも逃げる素振りがないのを良い事に胸の小さな蕾を指で撫ぜて、ふっくらとした柔かいその感触を確かめた。


「んっ……んんっ!」

「触るだけ……触るだけだから」


 深い口付けに上がった息を整えようとする秀雄を、追い詰める様にまた口を塞ぐ。

 脇に浮き出る肋骨も小さく尖る胸の突起も、自分の想像していた好きなものとは全然違うのに、異様な程興奮を覚えて空晴の下半身はメーターを振り切るかのように屹立し、腫れ上がった。

 こんなに愛おしいものがすぐ傍にいたのに、十八年も気付かなかった自分のバカさ加減に嫌気が差す。


「やべぇ……秀雄、どうしよう」

「な、何?」

「俺、お前の事好き過ぎて怖いわ」

「バッカじゃないの!?」


 爆発したって構わない。温めないなんてあり得ない。

 だってこんなにも好きだ。

 温めてみたら案外旨いかもしれないんだから。

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