聞きたくない言葉

「茜ー!」

 人手不足で仕事が間に合わないから早朝出勤をする事になった月曜の朝六時半。寒さを感じながら道を歩いていると、後ろから聞き慣れた元気な声が聞こえて私は立ち止まった。

「高志さん、おはよう」

「おう、おはよ。ここん所よく会うけど早くね?」

 隣に立った彼に挨拶をすれば笑顔でそう返され私達は再び歩き始める。家が隣の年上のこの幼馴染は昔からテンションが高い人だ。

 それは大人になってからも変わらなくて、朝が苦手な私はこの人の元気さを羨ましいと思う事がある。

「仕事が間に合わないので早めに出ているの」

「はー、偉いなー。俺なんか勤務地が遠いから早出なのに」

「どうしてそういう所に勤めちゃったかなぁ」

「異動だからしゃーないの」

 彼の横顔に視線を向けると白い息を零しながら大人の男の笑みを浮かべていて、ああこういう顔をする時もあるんだと思いながらまた前へと視線を戻す。


 三十三歳で独身の高志さんは過去に彼女がいたけど今はいないって話を彼の母親から聞いた事がある。私は彼より五つ下で妹の様な扱いを受けているから昔から抱いている恋心は叶う事はないだろう。

(女として見てくれたら良いのになぁ)

 無理だとは分かっているけれど彼の事を考えるとそう思わずにはいられない。隣の家の優しいお兄ちゃんを気付けば恋愛という目で見てしまって、彼に彼女がいる間だって好きという気持ちは変わらなかった。

 好きでいる間、クラスの男子に告白された事があっても「好きな人がいるから」で断った事だってあった。本当は良くないって分かっているし、狭い世界で生きたい訳じゃない。でも私はどうしても高志さんが良いのだ。

「大学生の時みたいに一人暮らしはしないの?」

「実家に帰っちまうと楽でなー。いや、休みの日に飯を作ったりとかそういうのはしてるけど」

「高志さん、そういう風にできるのになんで彼女ができないのかしらねっておばさんが言っていたよ」

「なんでだろうなー、優良物件なのに」

「自分でそう言っちゃうからじゃないかな」

 ちょっとばかり厳しいと感じさせるような返しをしてしまって、ああやっちゃったと思う。それじゃあ私なんかどう? と冗談ぽく言えればいいのにそれも言えなくて嫌になる。


「ははっ、茜は厳しいなー。……てか大丈夫か?」

「ん? 何が?」

「ここん所ってさ、もう一ヶ月近くも早出してんじゃん。疲れとか溜まってんじゃねぇの?」

「やだなぁ、大丈夫だよ」

 よく覚えているなぁなんて思いながらいつもと変わらないであろう笑顔で返してみる。いつもと変わらない、そういう笑顔を浮かべられるようになって何年経っただろう。

 働くようになってからは嘘の笑顔が張りついたように感じられる。嫌な事や理不尽な事を言われても我慢をして、そうやって腹の内に黒い物を抱えるようになって。昔だったら素直に出せた感情も社会に出て年を重ねるごとに隠してしまう。

 けれども違う、それはこの人に恋をしてから私は嘘の笑顔も隠し事もできるようになったんだ。傍に居るために妹みたいでも良いって思いながらも、それでも本当は言いたくて仕方がなかった。


 他の女の人なんて見ないで、私を見て、私だけの人になってほしい。そういう言葉を飲み込んでずっと過ごしていて、私は早い内から嘘吐きになっていて。段々と色濃くなるそれに思考が支配されかけてしまう。

「大丈夫だって言うなら、泣きそうな顔してんじゃないよ」

「えー、そんな顔していないよ?」

 急に立ち止まった高志さんに対して私も立ち止り視線を向ける。その顔は心配そうな、なんとも言えなさそうな物だった。

「嘘吐くんじゃねぇよ、このバカ」

 彼の右手が私の方にきて、そして指先が頬を撫でる。こんな触られ方をするのは初めてでつい動揺してしまい、顔を見る事ができなくなってしまう。

「嘘なんて吐いていない……」

「吐いてんだよ、茜の事は分かるんだから」


 なんで今頃そんな事を言うんだろう、分かるならきっと私の気持ちも分かるはず。もしかしたら分かった上で相変わらずの接し方をしているのかもしれない。お隣さんだし何かあれば母親が勘ぐる可能性もある。

「……ごめんな、ずっと見てみないふりをして」

「高志さん?」

「俺、茜の事――」

 切なそうな眼差しを向けてくる彼の口から出るその先の言葉が聞きたくなくて私は思わず走り出した。後ろから名前を呼ぶ彼の声が聞こえたけれど立ち止まりたくなかった。

 本当は早朝出勤なんてしたくない、少しでもいいからゆっくりしたい、愛想笑いなんてしたくない。でも早朝出勤の時にたまに高志さんと駅まで行けるのは嬉しかった。

 見込みはないって分かっていても、それでも隣を歩ける間は幸せな気持ちになれた。それでもやっぱり叶わないであろう想いに胸が痛んで、朝から会いたくないと思う事もあって。

 色々な事に疲れてしまったせいか思考はマイナスになっていくけれど……それでも私は会社に行ってしまうのだ。

 プライベートな事までは会社に持ち込めない、社会っていうのはそういうものだから。

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