第5章 セカイの約束⑥

 私の世界は単純で、彼女の笑顔だけであっさり救われてしまう。

 どんな苦労も、困難も、その微笑みだけで全てチャラにしてしまう。

 馬鹿馬鹿しい。

 どんなに悩んでも、意味がなかったのだ。

 彼女の帽子をめくった日から始まり、彼女の笑顔を見た時点ですべては決定づけられてしまった。

 私の「答え」はとうに決まっていた。

 


「明日も、病院にお見舞いに行こうと、思う」


 同じ方面へ帰る電車に二人で乗り、横一列の長い席に隣り合って座る。

 明日も兄のお見舞いに行く。

 あの様子だともう死ぬ心配はないだろう。それでも凪沙が聞きたいことはたくさんあるはずだ。どうして何も告げずに去ったのか。どうして死のうとしたのか。

 凪沙が兄と何を話したかはわからない。ただ私が病室に入った時の平然とした様子だと大して確信めいた話をしなかったのだろう。 

 知りたいはずだ、少しでも分かり合いたいはずだ。

 解決したようで、謎は残ったままである。

 そして、


「私も行っていい?」


 私にも病室を訪れる理由がある。

 後悔はしていないが、兄には勢いで言いすぎた。さすがに「勝手に死ね」はなかったな……。20にもなっていない小娘が出しゃばりすぎたと思う。いくらひどいことを言われたからといって、言い返していい理由にならない。

 どうかしていた。千葉から急いできたのだ。感情が高ぶっていたのを否定しない。

 謝りたいから一緒に行く。

 でも理由は聞かれず、


「うん、わかった」


 といった短い言葉が彼女から返ってきた。

 ありがと、と返事をし、黙りこくる。

 感情が読めなかった。

 どこまで私と彼女の兄の会話を聞いていたのだろう。途中から、最後から、それとも最初から?

 聞いていたらショッキングな内容だっただろう。

 兄は彼女の存在を煩わしいと言っているのだ。

 鬱陶しい。過剰な期待がプレッシャー。自慢のお兄ちゃんという言葉の暴力。

 ―妹という存在の否定。

 身近な人間がいなかった私にはわからないし、期待されてこなかった私には理解できない思いだった。


「……」


 黙る彼女を見る。

 でも、私は違う。

 凪沙がいるから、私がいる。

 凪沙がいたから、今の私になれた。

 私は彼女がいなくちゃ駄目になってしまったのだ。

 そして、そんな自分が今は好きである。

 「答え」は出ている。

 ただ今言うのは弱みに付け込むようで嫌だ。今じゃない。


 ……じゃあ、いつだというのだ。

 今は再会の祝福だけに浸るだけでいいのか。

 あんなに兄に偉ぶっていたのに、結局のところ私は彼女に何も本音で話せていない。「会いたかった」という気持ちは伝えた。だから何なのだ。だから、―その答えは。


「今日はありがとう」


 電車の動きが減速し、彼女が立ち上がる。最寄りの駅に着いたのだ。

 「うん」と私は頷く。

 私を上から見る彼女が言葉を預ける。

 

「また明日ね」


 夏休み前は当然だった言葉。

 日常となっていた台詞。

 でも、今は違う意味を持っていた。

 また会える。明日も彼女に会える。

 『また明日ね』―その言葉はセカイの約束。

 明日も私のセカイがあるという保証。

 元居た場所への回帰ではない。

 見えない絆。見えないからこそ言葉が欲しい。

 また「君」に会える。

 ただそれだけで幸せで、

 世界は芽吹き、彩りで溢れる。

 その言葉だけで、どうしようもなく、また凪沙が好きだと気づかされる。


「うん、また明日」


 思わず笑顔がこぼれる。

 彼女が電車を降り、ドアが閉まる。



 関係は眼に見えない。

 すぐ消せるし、壊せるし、無くなってしまうのだ。実際、一度失いかけた。

 『代用品』

 正しく向き合う。

 言わなければ伝わらない。

 私たちはそのままでは分かり合えない。だから言葉にして、伝えなければいけない。

 ―私は凪沙が好き。

 そして、君の「答え」が私は知りたい。言葉が欲しい。



 電車の窓から彼女が見えなくなるまでずっと、小さく手を振り返していた。

 見えなくなると途端に寂しさに襲われる。

 先まで会っていたのに、今すぐにでも凪沙に会いたい。声が聞きたい。

 二度目の決心。約束されたセカイへの祈りと願いと叫び。

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