第5章 セカイの約束④
扉をノックし、「どうぞ」と若い男の声が聞こえ、私は足を踏み入れる。
中に入るとベッドの脇で安心したのか、疲れたのか、凪沙が寝ているのが確認できた。
そして、ベッドには見知った男。
「やあ、榎田君だったかな?迷惑かけたね」
前と会った時と変わらず、気軽に声をかける凪沙の兄。
……これが自殺しようとした人間なのか。
「いや、自殺未遂とは処理されていないんだ。薬を間違えて飲みすぎてしまった、事故ということで対処されている」
自殺未遂だったら、こんなに気軽に会えていないさ、と変わらぬ声で続ける。
「また死なれては困るからね」
病院、医師は、この男はもう自殺しようとする意志がないと判断したのだろう。医師の診断内容はわからないが、この男が私と会えていることがその事実だ。
「ずっと凪沙に説教されてさ。やっと解放された」
ハハハと笑い、大したことがなかったかのように彼は振舞う。
「当然だと思います。兄が死のうとしていたのだから、怒ることは当たり前です」
「そうかな。数年会っていなかった亡霊だ。今更いなくなろうと変わらないさ」
この男は凪沙の気持ちがわかっていない。家族を大事にする気持ちが。凪沙が、兄がいなくなってどんな思いをしたのか。どんな辛さを味わったのか。
「怖い顔しているね」
指摘され、むっとする。
「凪沙はいい友達を持ったもんだ」
「あなたにはいないんですか」
「いないね」
「寂しいですね」
「ああ、寂しいのかもしれない」
台詞とは裏腹に声の調子は変わらない。
「何で死のうとしたんですか」
「事故って話になっているよ」
「嘘のくせに」
「ああ、その通りだ。死のうとした」
男が椅子を指さす。長話になるとのことか。私は椅子に座り、男に視線をぶつける。
「可笑しいと思わないか」
突拍子もない問いかけに言葉が出ず、彼は続ける。
「仮にも僕は死のうとしたんだ。来たのは妹だけ」
家族は誰も来なかった、父親は、母親は?
いや、違う。
「家族なんていないんだ」
彼は語る。
彼のことを、凪沙の家庭事情を。
――両親は小さい頃に亡くなっている。事故だった。
当時、男は小学生低学年。彼女は入学すらしていなかった。
そんな時に、大事な家族を、大黒柱を失った。
ただ親戚中をたらい回しにされるなんてことはなく、父親の兄夫婦の元に預けられ、お金に困ることなく暮らすことができた。
「伯父さんも伯母さんもいい人だ。ただあの人たちは距離をいつも計りかねている。距離をいまだに掴めていない」
そう、20歳を超えて、大人になってもだ。
あの人たちはいつも他人だ。どう接していいかわからない。不器用な人たちなんだ。
いや、違う。無関係でありたいんだ。
育ててくれてはいる。しかし、そこに愛情はない。
だから、
「妹、凪沙にとって家族と言える人間は、僕しかいないんだよ」
父、母を失った凪沙にとって血の繋がりは兄しかいない。
その兄を一度失った。そしてまた失いそうになった。
「正直、鬱陶しいんだ。凪沙は僕のことを期待しすぎている」
お兄ちゃんは凄い。
尊敬できるお兄ちゃん。
絵が上手でプロにだって慣れるよ。
「父母がいなかったせいで尊敬の対象は僕しかいなかった。過剰な期待。最初は心地よかったさ。褒められて嬉しくない人間はいない」
ずっと絵を描いていた。絵を描くのは好きだし、父と母に褒められた思い出があったからだ。
小学1年生の時に賞を取って、両親は嬉しそうに賞状を額に飾ってくれた。
両親が死んだ後も、描き続けた。空の上で喜んでくれると思ったから。凪沙も応援してくれた、凄い、お兄ちゃんはプロになれるねって。
「だから僕は美大を受けたんだ。先生にも褒められ、自信があった。当然受かるってね」
だが、現実は応えてくれなかった。
美大に落ちた僕は、デザインも勉強できる、そう君と同じ大学に入ったんだ。
美大には落ちた。絵では勝負できない。
でも、僕にはデザインセンスがある。描くだけが勝負じゃない。デザインを活かせる何かがあるはずだ。僕は求められているはずだ。
「ただ頑張れば頑張るほど、気づいてしまったんだ。僕は一流にはなれない、と」
ごまかし、ごまかし、生きているだけの二流ってことに嫌でも気づかされた。
「それでも、凪沙は褒めるんだ。お兄ちゃんは凄い、誰よりも凄い。自慢のお兄ちゃんだってね。嫌気がさすよ」
変な期待ばかり。僕は凄くない。
だから、逃げたんだ。
大学から、妹から、現実から。
黙って去った。携帯も置いて、伯父と伯母には簡単に手紙だけ残して旅に出た。
色々なものをみれば変わる。踏み出せば世界は答えをくれる。
絵の才能はない。デザインでも一流になれない。それでも、僕には何かあると思った。
手にしたのはカメラだ。
幸いなことにデザイン、絵を学んでいたので、ある程度の美的感覚は養われていた。
写真を撮って生きていくんだ。
有名な人につき、教えを請けた。何個か雑誌の仕事もした。小さい写真展を開いた。
でも、中途半端だった。仕事はあまり増えず、ただただ生きていくのに必死。
「何者にもなれなかったんだよ、僕は」
「……」
一通り話したのか、彼が急に黙る。
だから、死のうとしたのか。
壁にぶち当たり、思い通りにいかず、周りの期待に答えられず、プレッシャーに感じ、逃げ出す。
「身勝手な人ですね」
私の言葉にすっと冷静な顔になる。
「君にはわからないさ」
「ええ、わからないですね」
私には才能もない。なりたいものもない。周りの期待も、プレッシャーもない。境遇も、生まれ持った能力も違う。
でも、わかる。
「勝手に一人で考えて、逃げて、自分を正当化している」
だって、私もそうだったから。
代用品の私はいらないと、身勝手に思い、彼女から遠ざかり、それが正しいことだと思い込もうとした。
「うるせえ」
小さな声だが、彼が初めて感情を露わにした。
「いいえ、言います。あなたは勝手に決めつけて、もう駄目だと思い込んで逃げているだけなんです。本気で取り組んでいるようで、向き合っていない。駄目だと思ったから、次の道へ。また駄目だ、じゃあ次だ。もう俺には何もない、じゃあ死ぬしかない」
彼の努力は知らない。才能のない、努力をしていない私が言っても何の説得力もない。年下の女が説教する立場にない。
でも、この男には言わないわけにはいかない。
「あなたは逃げているだけなんです。逃げるのが悪いとは言いません。でも、死んだらもう逃げられないですよ。死んだら何かなるなんて思わないでください」
図星だったのか、苛立った声に変わる。
「勝手言いやがって」
「死ぬなら勝手に死ね。でも、あなたには家族がいる。一人の妹が。彼女は信じているんです。尊敬できる兄のことを」
凪沙は何故帽子を被ったのか。
それは兄を失って、世界が閉ざされたからだ。
兄がこんなんでは、凪沙に光が当たらないのだ。
「そうだよ」
第三者の声がした。
寝ていたはずの彼女の声。
「一流になれなくてもいい。私はお兄ちゃんの描いた絵の、撮った作品のファンだから。頑張るお兄ちゃんを尊敬しているから」
「……うるせえ」
さっきとは違い、震えた声で否定する。
「だから嫌いなんだよ。僕に期待なんてするなよ。もう終わらせてくれよ」
扉が開き、妙齢の男性と、女性が病室に飛び込んでくる。
目を大きく開け、驚く彼。
「馬鹿野郎、拓浪。死のうとすんじゃねーよ」
「ごめんなさい、私たちが悪かったのね」
涙声で話すのは、彼の伯父と伯母なのか。
……何だ、間違っているのは彼の方じゃないか。
他人?距離を計りかねている?家族じゃない?
男が嗚咽混じりに抗議する。
「ちがう、悪いのは僕だって」
不器用なのはこの男の方だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます