第67話 忍び寄る影

 ミカは自分の部屋に駆け込んで、ベッドの上に身を投げていた。

 枕をぎゅっと抱き締めて、身を縮めて。

 アレクと別れたくない。その言葉を頭の中で繰り返し唱え続けていた。

 急にあんなことを言われても、困るよ……!

 いきなり突きつけられた現実。それは彼女にとって、到底受け入れられるものではなかった。

 世界渡りなんてどうだっていい。規則がどうとか知らない。

 私から、アレクを引き離さないで!

 ことん、と廊下の方で物音がした。

 ひょっとして、アレクが様子を見に来てくれたのだろうか?

 ミカは起き上がって、期待を心に秘めて扉へと向かった。

「……アレク?」

 呼びかけて、そっと扉を開く。

 廊下に佇んでいたのは、アレクではなかった。

 目玉が幾つも顔に並んだ、全身に赤い模様がある大きな怪物だった。

 怪物はミカを見て舌でべろりと口を舐めた。

「……え?」

 ミカは自分が何を見ているのかをすぐには理解できず、呆けた声を漏らして怪物のことをじっと見上げていた。


 悲鳴が起きた。

 アレクは弾かれたように声の聞こえた方──三階の方を見上げた。

 三階にいた客人たちが、必死に踊り場を駆けて階段を下りてくる。

 仕事から上がろうとしていたローゼンが、目を瞬かせてそちらに視線を向けた。

「な、何だ?」

 彼はフロントに下りてきた客人の一人を捕まえて、問うた。

「何かあったのか?」

「ば、化け物が……化け物が女の子を」

 客人は恐怖にかたかたと震える唇で、懸命に答えた。

 ……女の子?

 客人の言葉を聞いたアレクの片眉が跳ねる。

 ──まさか!

 彼はカウンターを飛び出して、階段を駆け上がった。

 問題の場所はすぐに見つかった。

 三階の、奥。客室が並ぶ廊下の果て。

 そこにある光景を目にして、アレクの視界はぐらりと揺れた。

 床に飛び散った大量の血。辺りに漂う生臭い臭い。

 ぶよぶよとした白い体の怪物が、顔を血で濡らして足下に転がっている何かを食べている。

 それは──淡いピンクのワンピースを着た少女だった。

「……ミカさん!」

 アレクは叫んで、怪物めがけて突進した。

 渾身の力を込めた拳を怪物の鼻頭めがけて叩き込む!

 怪物が悲鳴を上げて顔を背ける。

 その隙に彼はミカを掻っ攫い、駆け出した。

 遅れて三階に到着したローゼンと踊り場で鉢合わせする。

 彼は階段を下りながら、彼に言った。

「ローゼン! レンを呼んでくれ! 『虚無(ホロウ)』が出た!」

「……『虚無(ホロウ)』!?」

 廊下に目を向けるローゼン。

 『虚無(ホロウ)』は唸り声を上げながら、のっそりとした動作で廊下の奥から歩いてくるところだった。

 ローゼンは顔を青ざめさせると、階段の手摺りに飛び乗って滑り台のように階下へと下りていった。

 何処か、安全な場所にミカさんを……!

 腕の中のミカをぎゅっと抱き締めて、アレクは懸命に階段を駆け下りた。

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