第38話 泡になりたい
旅館の庭。綺麗に剪定された樹木や花々が並ぶ緑の空間に駆け込んだミカは、背を丸めてはあはあと荒い呼吸を繰り返していた。
アレクと、レンさんが……
彼女の胸中は、そのことで一杯になっていた。
目を閉じれば浮かびそうになる、アレクとレンが口付けを交わした瞬間の光景。
それを振り払いたくて、記憶の中から追い出したくて、彼女は首を左右に振った。
あれはレンが一方的にやったことだ。それは、彼女も理解はしていた。
しかし、それでも。
例えアレクにその気がなかったとしても、アレクがレンに唇を奪われたことが、ミカにとってはショックだった。
これから、アレクを見る度に嫌でもそのことを思い出してしまうのだろう。
それが、嫌だった。認めたくなかった。
アレクを渡したくない。人に奪われてしまうくらいなら、死んでしまいたい。
何かを求めるように、ミカは庭をぐるりと見回す。
水仙によく似た白い花が咲いている。それに囲まれるように、大きな池がある。
池の中を、金色の魚が悠々と泳いでいる。
それを見て、ミカは思った。
人魚姫は、恋が叶わなかったら泡になって消えてしまうんだよね、と。
自分も、このまま泡になって消えてしまいたいよ。
ミカが池に近付くと、魚は影を察知したのか逃げていった。
それを淋しいと感じながら、彼女は池を静かに見つめていた。
「ミカさん……!」
アレクは街へと続く道を走りながら、懸命にミカを探していた。
ミカはまだ体の小さな少女だ。この短時間ではそう遠くまでは行けないはず。
きっと近くにいるはずだ。そう信じて、彼女の姿を探した。
まさか、あんなにショックを受けるとは思わなかった。
でも、ミカの気持ちも分かる。
好きな人が自分ではない相手とキスをしたところを見せつけられたのだ。それで何も感じないはずがない。
とにかく、会ったら彼女に謝らなければ。アレクの頭はその思いで一杯になっていた。
並木道を走る。ひたすら走る。
何処かで座り込んでいるのではないかと、時折立ち止まって辺りを見回したりもした。
しかし、探し求めている姿はない。
そうして、三十分ほどの時間を費やして。
落ち込んだ様子で、アレクは旅館に戻ってきた。
これだけ探してもいないということは、彼女は外には出ていないのかもしれない……
ふっと浮かんだ考えが、彼の目を庭の方へと向けさせる。
庭は、見栄え良く整えてはあるが基本的には何もない場所だ。普段は人が立ち入ることは滅多にない。
そういう場所にこそ、彼女はいるのではないか。
アレクは、意を決して庭へと足を踏み入れた。
庭師の手によって綺麗に整えられた樹木。花。池。それらが順番に目に入る。
そこにも、やはりミカの姿はない。
しかし、不自然なものがあった。
池の中に、白いものが浮かんでいたのだ。
「……?」
眉を顰めて、アレクは池に近寄った。
そして、驚愕で息を飲む。
池に浮かんでいたもの──
それは、池に身を投げたミカの体だった。
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