第13話 旅館の夜

「『虚無(ホロウ)』、天冥騎士団詰め所に現る……か」

 一階、フロント。カウンターに立ち、ローゼンは寛いだ様子で新聞を読んでいた。

 彼の目の前を、風呂上がりの客人たちがちらほらと横切っていく。

 来客がない時のカウンターは基本的に暇なのだ。なのでこうして新聞を読んでいても誰も何も言わないのである。

「嫌だねぇ……『虚無(ホロウ)』なんかが此処に出たら一瞬で阿鼻叫喚だよ。ちゃんと天冥騎士団には働いてもらわないと」

 『虚無(ホロウ)』。それは、この世界に時折現れる悪しき怪物である。

 何故、どのようにして現れるのかは分かっていない。突如として現れるそれらは世に混乱を齎す最悪の災厄なのだ。

 『虚無(ホロウ)』が世に現れると、天冥騎士団というこの世界を守護している騎士たちが『虚無(ホロウ)』を討伐するために現れる。無類の強さを誇る彼らの力によって、この世界の平穏は保たれているのである。

 一見何もないように見える世界の狭間──この世界にも、秩序を乱すものは存在するのだ。

「この旅館には戦える人なんていないんだからさ──」

 溜め息をついて、ローゼンは新聞を畳んだ。

 と、視界の端に見覚えのある姿が映っていることに気が付き、手を止める。

 ミカが、ローゼンのことをじっと見つめていた。

 あのだぼっとしたシャツとズボン姿ではなく、仕立ててもらった水色のパジャマを身に着けている。

「えっと……ミカちゃんだっけ?」

 ローゼンは新聞をカウンターに置いて、カウンターから出てきてミカの目の前でしゃがんだ。

 下から掬い上げるように見上げると、ミカは誰もいないカウンターの方をちらりと見て、小さな声で言った。

「……アレクは?」

「アレク?」

 きょとんとするローゼン。

 すぐにああと声を上げて、答える。

「アレクは昼勤だからねぇ。夜は此処にはいないんだよ。今は自分の部屋にいると思うよ」

「……そう」

 アレクがいないと知り、微妙に肩を落とすミカ。

 ああ、この子、アレクのことがお気に入りなんだな。

 ローゼンはそう悟り、胸中で苦笑した。

 にこりと微笑みかけて、言う。

「また明日の朝此処においでよ。その時にならいると思うからさ。それとも、急ぎの用事だった?」

「……ううん」

 ミカはふるふると首を左右に振った。

 そして踵を返し、階段を上がって行ってしまう。

 自分の部屋に帰ったのだろう。

「……そっか。アレクに、ねぇ」

 ローゼンはゆっくりと膝を伸ばして立ち上がり、腰に手を当てた。

「アレクも隅に置けないじゃん」

 ははっと笑って、カウンターに戻る。

 丁度外から来客があったので、ぱっとスイッチを切り替えて接客を始めた。

「いらっしゃいませ。お客様はお一人様ですか?」


 旅館の夜は、穏やかに更けていく。

 様々な思いをしじまに乗せて、ゆっくりと訪れる朝を待ち望むのだ。

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