萬福博吉(農業)【10】

 咆哮をあげて、博吉は血まみれの少女に飛びかかった。廊下を蹴って、肩から体当たりする。二人はもつれ合うように転がった。廊下に倒れこんだ際、腰から背中にかけての骨が砕かれてしまったような、ほとんど耐えがたいほどの痛みが爆発した。息が詰まり、声にならない悲鳴をあげた。眩暈と吐き気が襲い、それから逃れるように意識が遠のきかける。だがみのりの声が、その怯えきった悲鳴が、彼をふたたび覚醒させた。

 なんとか首だけめぐらしてみのりのほうを見る。少年が――警備員を貪り喰っていたもう一人の学生が――、両腕を伸ばし、足をひきずるようにしながら孫娘に近づいていた。動きこそゆっくりとしたものだが、その血まみれの姿に、みのりは動けずにいる。

 立ちあがろうとするが、腰がねじきれそうな痛みに抗えず、脚にまったく力が入れられない。博吉は歯を食いしばり、両腕を使って、這いずるように前に進んだ。腕を廊下に押しつけて身体を引きずるたびに、やはり腰や背中で激痛が暴れる。だがもうそれには構っていられなかった。

 必死で手を伸ばし、いまにもみのりに覆いかぶさろうとしていた少年の足を摑んだ。その瞬間、右の脇腹に焼き鏝を当てられたような、熱く鋭い痛みを感じた。その衝撃に反射するように、摑んだ手を思いきり引く。少年がバランスを崩して博吉の上に倒れこんだ。振り返ると、さきほど体当たりをした少女が、自分の腹に顔を埋めているのが見えた。力強い手で首を鷲摑みにされ、強引に上体を引き起こされた。頬が裂けんばかりに口を開けた少年の顔が目の前にあった。真っ赤に充血した眼球に、黒い点のような瞳孔がおぞましかった。

 彼はとっさに、少年にがっしりと組みついた。同時に右肩で灼熱が弾け、肉が喰い破られたのがわかった。

 少年を離さないよう、両腕にいっそうの力を込めて、博吉は叫んだ。

「逃げなさい! 逃げなさい!」

 怒声に叩かれ、みのりは小さくよろめくと、泣きながら一歩、また一歩と後退り、やがて後ろを向いて駆けだした。その後ろ姿をみて、博吉は安堵した。全身いたるところを嚙みつかれ引き千切られ貪られるのを感じながら、喉から血と絶叫を噴きあげながら、それでも博吉は思っていた。

 逃げなさい。はやく逃げなさい。

 おまえはこれからなのだから。自分はもう充分に生きたのだから。




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 萬福博吉(75)

  Z化後の感染拡大  なし

  4日後、祁答院怜央(16)により、自作の釘バットで頭部を破壊され死亡

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