崎山優城(高校生)【9】

 大里が宇都さんに必死で呼びかけているが、もう彼女の意識はないのだろう。その横で、羽島さんがこちらを見上げて、救急車を呼ぶよう叫んでいる。だが崎山は、痙攣するように首を左右に振りながら後退りした。自分にできることはなく、今は一刻も早くここから離れなければならない。だって“走るやつ”だったらどうする? 肉体の限界も顧みず全力で襲いかかるゾンビだったら。

 大里がこちらを、そして周囲を絶望的なまなざしで見渡す。誰も助けに動かないからだろう。野次馬はみなどよめくばかりで、彼らに近づこうとする人はひとりもいない。当たり前だ。だって明らかじゃないか、これは近づいて介抱しちゃいけないタイプだ。少しでも距離を取り、事が起これば誰よりも速く逃げだせる態勢を整えておかないと――。

 そのとき、大里の腕のなかでぐったりと動かなくなった宇都さんが、びぐんと一度、大きく痙攣した。限界まで見開かれた崎山の目に、彼女の赤く充血した眼球と、裂けんばかりに開かれた真っ赤な口腔が見える。その一瞬のあいだ、崎山の頭によぎったのは、「ほら、やっぱり」という一言だった。

 誰もが身動きできないでいる間に、宇都さんが大里の喉元にかぶりついた。

 大里が苦痛と驚愕と恐怖の悲鳴をあげる。

 もはや事態は明らかだった。そして、こんなときどうすればいいかはわかっていた。崎山は竹刀をぎゅっと握り締めると、下腹に力を込め、短く強く息を吐き出してから、踵を返して逃げ出した。

 友人の絶叫に追いつかれてしまわないよう、全力で廊下を駆け抜ける。どこに向かっているのかは自分でもわからなかった。とにかくこの場から遠く離れないといけない。そこで態勢を立て直して、冷静になって、対策を考えないといけない。

 崎山が走りだすのと時を同じくして、野次馬の一部も同じように駆け出していた。数人がぶつかり合い、押しのけ合い、転倒する人も出てきている。悲鳴と怒声。動揺が拡がり、急速に混乱がはびこりつつある。

 突然、目のまえに七十代くらいの男性が飛び出してきた。咄嗟に体当たりして突き飛ばす。体が触れた瞬間にはもう後悔していたが、勢いは止まらず、老人は大きくよろめいて仰向けに倒れた。ごつん、と床に頭が当たる音がいやに鮮明に聞こえた。

「ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」と叫びながら背後を振り返ると、倒れた老人の向こうに、血まみれで立ちあがる宇都さんの――彼女だったものの姿が見えた。足下には血の池が広がり、そのなかで大里が痙攣している。

 悲鳴になりきらなかった叫びで喉をひくつかせて、崎山は昇りのエスカレーターに飛び込んだ。既にエスカレーターは逃げ惑う人たちでいっぱいで、誰もが前の人の背中を押し、ごった返しながら進んでいる。ひとりだけ人波を突っ切って走ることはできなかった。崎山も前の女子中学生の背中を思いきり押し、後ろから来たスーツ姿の中年の男にぐいぐい押されながら、ただひたすらこの場所から離れることだけを考えていた。

 離れて、そうだ、ここはショッピングプラザなんだから、何かこれを切り抜ける道具があるはずだ。ゾンビ物のお約束なんだ、プラザとかモールとかいう場所は。ここには食料もあるし、武器になるようなものもあるだろうし、数日を切り抜けるだけの資源は手に入れられるはずだ映画のとおりだと。だがとにかく今は少しでもゾンビから距離を、時間を稼いで、落ち着いて考えないと。一度リセットしないと。状況を把握しなおさないと。

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