第38話:それは小さな思いから始まった


 プールを満喫した後、八雲はプールサイドに座っていた。

 もうすぐ、家に帰ろうと思う時間帯だ。

 さすがに一日中、泳いだり遊んだりしていれば疲れる。


「先輩、この後のラブホテルの予定はまだですか?」

「そんなものはない」

「……ナンデスト。八雲先輩は私の身体には欲情しないと?」

「そういう話じゃないだろうが。そもそも俺はまだお前と……」


――和奏との関係を変えていない。


 二人の関係は友人の妹、兄の友人という他人同士の関係でしかない。

 その関係を変えるためには話をしなくてはいけない。

 和奏はプールの水にちゃぷんっと足をつけて涼しそうに、


「今日はとても楽しい時間を過ごさせてもらいました」

「そうだな」

「一週間前に出会ってこんな風な関係になれるなんて思わなかったんです。デートの約束をしたとき、私はこれが最初で最後のデートだって思ってました」

「どういうことだ?」


 彼女は八雲に寂しそうに笑いながら、


「先輩の弱みを握って、デートの約束をして。だけど、先輩に愛される自信もなくて。私は先輩が好きでしたけど、逆に好きになってもらえるとは思っていませんでした。ただ、先輩の瞳に私が写ってるだけで幸せでした」

「普段はたいそうな自信家のくせにやけに弱気な発言だな」

「私、こーみえて根はとても臆病な女の子ですよ?」

「……嘘つけ」


 臆病な女は男を押し倒して、弱みを握り、脅したりはしないものだ。

 元恋人を寝取った相手を再起不能にまで追い込むこともしない。


「ホントですってば。あのですね、先輩。私はこの六年、先輩だけを好きで生きてきましたが、声をかける勇気はなかったんです」


 八雲が和奏の存在を認識したのは、例の押し倒し事件からだ。

 それまでは影の薄い友人の妹という存在でしかなかった。

 バスで付きまとわれていたとも知らなかった。

 愛されていたことも知らずにいた。


「遠くから見ているだけで幸せでした。この一週間は私にとっても、長い一週間でしたよ。思い続けていた相手に意識されるのが私の喜びでした」

「……それだけ聞いてたらすごく一途な女だな」


 やってきたことはとんでもないのだけども。


「好きな人に好きだって告白するのって勇気がいりますよね」

「まぁな。それが告白ってものだろ」

「私もそうでした。あの日、先輩に押し倒された日に先輩に告白できなければ、きっと私は今も先輩を後ろから見ていただけでしょう」

「押し倒したの間違いだと訂正しておく」


 恋愛なんてものは想いだけでもダメなのだ。

 タイミングや運、いろんなものが積み重ねって初めて結ばれる。

 例え両想いであっても、すれ違い、離れてしまうことも珍しくはない。


「八雲先輩。私は先輩に優しくされた過去があります。お兄ちゃんから聞いていると思いますけど、改めて話させてください」


 彼女がどうしてここまで八雲を好きになったのか。


「小学三年の時でした。とある事情で私は自分の容姿に自信が持てず、落ち込んでいました。今となっては不登校になるような問題ではなかったと思います。ただ、あの頃は本当に苦しかったんです。それを救ってくれたのは先輩の一言でした」


 自信を与えてくれた、たった一言。


「私のことを可愛いと言ってくれた。それまで誰も言ってくれなかった一言が私にとっての救いであり、自信にもなったんです」

「……些細な一言が人に大きな影響を与えることもある」

「えぇ。私には貴方との出会いが人生の変わり目だったのかもしれません」


 柔らかく微笑む彼女はプールから足をあげる。

 そのまま、八雲に甘えて寄り添うようにもたれかかった。


「先輩を好きになって、私は変われました」

「どういう風に?」

「もっと貴方に好かれるような女の子になりたいと思いました。暗くて他人とも馴染めないような性格も少しずつ変えて、自分からも友人を作れるようになりました。貴方が私を変えてくれた。貴方のために私は変われたんです」

「人って何がきっかけで変われるか分からないものだな」


 八雲にとっての昔の和奏の印象は今とはまるで違うものだ。

 それだけの変化を彼女にさせたのは自分自身なのだと知る。


「ねぇ、先輩? 私は先輩の恋人にはなれませんか?」


 胸に秘めた想いを口にしながら和奏は彼に問う。


「先輩のためなら私はどんな真似をされても愛し続ける覚悟あります。たとえ、浮気をされても、その相手を徹底的にコロコロするだけで、貴方を責めはしないでしょう」

「相手がかわいそうな目に会うのは決定してるし」

「先輩に気に入らない相手がいるのなら、私は自らの手を喜んで汚しましょう」

「汚さなくていいから!? 何をする気だ、何を!」


 純粋すぎる想いは、綺麗だが恐ろしいものである。

 なお、八雲は冗談ではなく本気で言ってるのだと分かっている。

 和奏はやる時はやる子だと言うことを那智の件で思い知らされた。

 やるときには遠慮容赦なく、躊躇なく、哀れみも慈悲もなかった。

 その愛を裏切るのも想像すると恐ろしくはあった。


「そんな一途な思いを先輩に抱く私をどう思っていますか?」

「……」

「ただのスト子ですか? それとも、ただの友人の妹のままですか」


 長い一週間だったと八雲自身も感じていた。

 彼女と出会い、いくつかの出来事を経て。

 彼が感じたのは和奏の純真な心のありようである。

 和奏は心の底から八雲に心酔している。

 時には彼を侮辱した那智を再起不能なまでに追い詰めてみせたり。

 時には元カノへの未練を断ち切らせたり。

 その愛は八雲への優しさに溢れている。

 常に八雲のことを考えてくれている。

 そんな相手と八雲は巡り合ったことはなかった。


――付き合ってきた女の子たちはそこまで俺を愛してくれたことはなかった。


 人から愛されるということ。

 それは、自分を理解してくれているということでもある。


――これだけ愛されて、何も応えていないのはずるいよな。


 愛されている想いには応えてやりたかった。


「人の縁ってのは不思議だな」

「出会うべくして出会うもの。私は運命って言葉を信じてますよ」

「……和奏と出会ったのも運命か。まったく、どこまでも自分に都合のいいように物事を考える。お前らしいよ」


 寄りかかる彼女の肩を抱きしめながら、八雲は想いを伝える。


「最初はとんでもない相手に付きまとわれたと思ってた。ストーカーで、やることもえげつなくて、だけど一途で。俺を困らせてばかりいたんだ」


 思い返せば、八雲にとって和奏はとんだトラブルメーカーだった。

 それがなぜ、今、こんなにも心惹かれているのだろうか。


「とんでもない女だよ、お前ってやつは……」

「えへへ。褒められてます?」

「褒めてはないけどな」


 向き合うべきは自分の心。

 八雲は素直になり、自分の想いを認めたのだ。


「問題は多いがお前の一途なところは好きだぞ」

「私のことも、当然好きですよね?」

「そう言われた答えづらいだろうが。……好きだよ」


 素直に認めるのが照れくさくて、彼はそう呟くのが精いっぱいだった。

 いつから彼女を好きになったのか、八雲は分からない。

 気付いた時には彼女に惹かれていて、好きだと思えるようになっていたのだ。


――人を好きになるというのはそういうものかもしれない。


 恋におちて、心が離れられなくなるものだ。

 プールサイドに座るふたりは周囲の目も気にすることなく、抱きしめあう。


「えへへ。先輩の愛を独り占めですねぇ」


 嬉しそうに笑いかける彼女は八雲の頬に口づける。

 その小さな唇は彼の心もつかみ取る。


――ぐっ。和奏に好き放題にされるとは。


 可愛いと思った時が最後、ひたすら和奏のターンである。

 

「人が見てる。あまり、そういう行動はだな」

「見せつけてやりましょう。いちゃつくカップルは人目も気にせず、ラブラブな二人の世界に入り込む。そういうものでしょ? ほらー」

「やーめーろー」

「先輩は照れ屋ですねぇ。ですが、他人のそういう幸せな態度にイラつきながらも、人は憧れもするものです。いつかは自分もしてみたいと思うでしょう?」

「そうかもしれないが。ええいっ。ちょっとは自制しろ」


 引き離すことに成功したものの、和奏が八雲にいちゃつくのはやめない。

 指を絡ませるようにして、彼の手を捕らえると、


「今日から先輩が私のものになると思うと興奮してしまいます」

「……興奮?」

「あーんなことや、こーんなことを脳内妄想してきました。それを実現できるということです。興奮してしまいますよね、うふふ」


――どんな妄想をしてんだよ、怖い。


 男よりも女の妄想の方が、想像豊かで時に恐ろしいものである。


「八雲先輩。恋人の私を好き放題にしてもいいんですよぉ?」


 キラキラとした恍惚とした表情を見せると彼女は八雲に、


「今日の夜はもう返しませんよ。先輩には私の愛を受け止めてもらいます」

「……何をされるのかしら、俺」

「うふふ。存分に楽しみあいましょうねぇ?」


 和奏に抱きつかれて困惑する彼だが、嫌な気はしていなかった。

 恋人同士が過ごす、休日デート。

 その夜はとても甘く、愛しいものになりそうだった――。

 

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