第35話 母校へ

 昨年の十二月二十一日に別れて以来だから、保津水は三カ月半振りにようやく懐かしい遼に巡り会えたことになる。時の流れの喩(たと)えに〈光陰矢の如し〉と〈一日千秋〉、両極端の比喩があるが、連続したほぼ同じ時の流れの中で、保津水は二つを共に味わってしまった。一つは遼と過ごした二学期だった。心弾む、夢のように過ぎ去る日々であった。続く三学期はどうであったろう。心沈む、悪夢のような、長い、これ以上長く感じられた苦悩の日々はなかった。二学期より短いはずの三学期。わずか三カ月足らずが、一日千秋という形容すら、まだ及びつかない地獄の日々であった。会いたいと恋い焦がれる人に会える日。しかるに彼は恋人と過ごす日々で、いつ何どき、保津水の手の届かない彼方、宇宙の果てへ飛び去ってしまうかも知れないのだ。悶々と悩み苦しむ心に、机の前に座る、長い、針のむしろの時の流れが追い撃ちをかける。存在すら信じ難く思われる、長く苦しい日々であった。が、それも、転校許可が下りた四月五日でようやく終わった。

 遼に会う前は、こう切り出そうか、それともああ言おうかと、保津水は彼との会話に思いを馳せていたはずだったのに、結局何も言えなかった。遼の隣の女生徒が、会話の機会すら奪ってしまった。

 並んで歩くマドンナを見て、彼女ではないかとの予感が湧いたが、振り向いたマドンナを見て、保津水は確信した。彼女に違いないと。女の直感もあるが、それだけではなかった。一目見ただけで、自分とまったく正反対のタイプだと分かった。邪気の欠片も感じられない、優しく穏やかな眼差し。おとなしそうな口元。素直な性格が顔のつくりに現れていた。

 ―――私が欲しいものをすべて持っている‥‥‥。

 マドンナは保津水の憧れの女性といって良かった。おとなしくて淑やかで、素直な人になりたい。何時もそう思ってきたのに、自分はそんな女性になれなかった。気が強くておしゃべりで、おまけに強情だ。

「あーあ‥‥‥」

 マドンナと自分を較べると、保津水の口からため息が漏れる。彼女は始業式から帰っても何も手につかず、ベッドに腰を下ろしたまま心は堂々巡りだった。

 その日、期待していたのに遼は保津水の部屋へ寄らなかった。スマホがあれば声だけでも聴けるのだが、慌ただしい引っ越しで、自宅に忘れてしまった。公衆電話をかけに外へ出るのも億劫なので、そのままベッドに横になって軽いまどろみのつもりが、疲れと睡眠不足からすぐ深い眠りに落ちてしまった。

 朝方、悪寒で目を覚ますと体がだるい。蒲団を被らずに眠ったので風邪を引いたのだろう。ベッドから起きて体温計を探そうとするが、目まいがして足元がふらつく。起き上がったものの、立っている体力もなく保津水はすぐベッドへ倒れ込んでしまった。

 医師の診断に加え、これに輪を掛ける風邪。到底学校へ行ける状態でなく、転校二日目というのに休むほかなかった。昨日から何も喉を通していないのに、まったく食欲はなく、激しい悪寒によるムカツキから、保津水は何度も吐いてしまう。もちろん胃液以外、口から出るものは何もなかった。

 午前中はそんな有り様で随分辛い思いをしたが、午後になると少しは楽になった。もっとも額に手を当てると、熱はまったく引いておらず、むしろ高くなっていた。まんじりともせずベッドに横たわっていると、三時過ぎにドアホンが鳴る。遼が寄ってくれたと思って、ふらつきながらドアまで歩いて解錠すると、遼ではなく二年一組のクラスメートだった。

「どないしたん? みんな心配してるよ」

 担任に頼まれたらしく、保津水の前席の塩田春江が、心配そうに保津水を覗き込んだ。あと一人、背の高い女生徒が一緒だった。部屋に入ってきた彼女らに、

「風邪らしくて」

 と、休んだ理由を話すと、

「どれどれ」

 塩田が保津水の額に手を当てた。

「うわぁ、ものすごい熱やわ! ちょっと触ってみィ」

 横に立つ背の高い女生徒を促すと、彼女も保津水の額に手を当てて、

「うわっ! ほんまやわ」

 熱の高さに驚いている。

「寝とき、寝とき。無理したらアカンで」

 腰を下ろそうとした保津水を、二人は抱きかかえるようにベッドへ運んだ。保津水が昨日から何も食べていないと聞くと、塩田は粥を作ってくれるという。

「ありがとう」

 ベッドに横たわりながら、保津水は二人にマドンナのことを尋ねることにした。

「遼―――じゃない、草野クンと昨日並んで歩いていた人、誰だか知らない?」

「え、草野君て、三学期に転校してきた男子やね。並んで歩いてた人て、いったい誰やろ。嶋原さん、知ってる?」

 塩田が隣りに立つ嶋原の顔を覗き込んだ。

「浅野さんちゃうか。よう二人並んで歩いてるさかい」

 あまり自信はないらしく、嶋原は答えてから首を傾げている。

「浅野さんて、名前は純子っていわない?」

 保津水の問いに、

「うん、そうや、そうや。でも、転校してきたとこやのに、よう知ってるね」

 猫の額ほどのキッチンから、塩田が顔を覗かせた。

「あの二人、付き合っているのかしら?」

 保津水が頬を染めながら尋ねると、

「‥‥‥付き合っているんかなあ、どうやろ。せやけど浅野さんは前のクラスに付き合ってた人、いてるんとちゃう?」

 再び首を傾げながら、嶋原が塩田を覗き込んだ。聞かれた塩田も要領を得ないのか、さあ? と、首を傾げている。

「なんでそんなこと聞くん? ―――あっ、秋本さん、草野君のこと好きちゃうん? ひょっとして、前、草野君と同じ高校やったん?」

 塩田の問いに、保津水はこっくりとベッドから頷いた。二つ一緒に答えたつもりだが、塩田と嶋原はどう取ったか保津水には分からなかった。

「明日も寄れたら、出来るだけ寄るようにするさかい」

 二人は食事の用意をして四時前に帰って行った。

 クラスメートとは有り難いものだ。病気で弱っているときは、なおさら人の情けが身に染みる。何とか無理に起き上がって、塩田と嶋原が作ってくれた粥を食べ出すと、親友の石上の顔が浮かんでくる。彼女は母と一緒で、最後まで保津水の転校に反対した。

「保津、やめとき。あんなヤツのとこへ行っても、アンタがボロボロになるだけやんか。何で分からへんの。なあ、何でやの。ウチらや北高捨ててまで、行く価値あるん? なあ、泣いてんと、答えてーやぁ」

 泣きながら、なんど諭(さと)してくれたか知れなかった。

 ―――ごめん、お和。

 私は草野遼なしでは、生きている意味がないのよ。よく分かったの。親友の涙の顔を思い出すと、保津水の目から大粒の涙が溢れる。一度堰を切ってしまうと、もう止まらない。こらえようとしても嗚咽が漏れるのだ。体を震わせ泣いていると、今度は強い決意をあざ笑うかのように不安が顔を出す。本当に、どうしようもないほど惨めな気持ちだ。保津水は長い間ハンカチを握りしめ、震えながら涙に身を委ねていたのだった。

 結局この日も、遼は保津水の部屋へ寄らなかった。熱が下がらず体調が悪いのも辛いが、保津水には遼が寄ってくれないのが一番応える。眠るでもなく、終日ベッドに横たわっていると、ついつい良からぬ思いが脳裏をかすめる。ただでさえ気が滅入っているというのに、心に決めた人は来てくれない。

 ―――やはり彼はあの人を選んだのだろうか‥‥‥。

 昨日から保津水を苦しめ続ける疑問が、頭の中でぐるぐると渦を巻く。丁度そんな時、母がマンションを訪れた。京子は娘の体温を計って、

「エッ?!」

 驚きの声を上げた。三十九度二分もあるのだ。

「どうして病院へ行かなかったの! いまからでも遅くないから、お母さんと一緒に行こう」

「もう大丈夫だから。今夜一晩寝れば楽になると思う。もし明日も熱が下がらなければ行くから。ね、約束する」

 母に頼み込んで保津水は我がままを通した。出来れば病院へは行きたくなかった。夜も遅いし、体がだるくて動くのも億劫なのだ。母はしぶしぶ娘の言うことを聞いてくれたが、そのお返しではあるまいが、小言が口を吐く。

「保津ちゃん。こんなつらい思いをしてまで‥‥‥、そんな価値があるの?」

 遼を見切れない心を責める。保津水が黙っていると、

「草野君とは会ったの?」

 母は執拗に問いかける。保津水が黙ったまま頷くと、

「そう」

 とつぶやいてから、

「彼とは十分話し合ったの?」

 新たな疑問を投げてくる。

「お母さん。もう少し放っといてくれない! 遼クンだって考える時間が欲しいだろうから」

 怒ったように吐き捨てると、保津水は頭から蒲団を被ってしまった。

「‥‥‥ごめんなさい、保津ちゃん」

 京子は蒲団を撫でながら、いじらしくて涙が出る。娘が蒲団の中で泣いているのが分かるからだ。

 ―――なぜそこまで‥‥‥。

 そう思うと、保津水をここまで苦しめる遼が心底憎らしい。気まぐれな転校生を娘の高校へ送り込んだ偶然を恨みたくなる。何故よりによって北高へ、しかも娘のクラスなんかへ。もっと別の高校もあったろうに、と愚痴りたい気持ちなのだ。

 保津水に軽い食事をさせてから、エアコンの効くうだり気味の部屋で、京子が汗をにじませ食器や衣類の整理を終えると、すでに午前零時。さきほどから、娘は軽い寝息を立てている。今日の片付けはここまでにしよう。後は今度来たときにすれば良い。そう思って、机の置かれた六畳間の椅子に腰を下ろすと、壁に掛かった北高のセーラーが目に入る。京子の母校と北高は府立の姉妹校だったので、自分も二十数年前身に着けた懐かしい制服だ。この制服を着て恋に胸を躍らせたときもあった。遠い昔のことで、疾うに忘れていいと思うのに、心は決して忘れていない。初恋の思い出はいつも心の奥深くで生き続けていて、何かの折にひょいと顔を出すのだ。

 ―――娘もいま、恋をしている。

 いじらしいほど献身的な決意なのに、相手は不実だ。許し難いほど誠意の欠片もない。これまでの遼の行動を見る限り、京子はそう断定せざるを得なかった。

 ―――なのに我が子は‥‥‥。

 そんな男を、生涯をかける恋の相手に選んでしまった。母校を裏切った償いのために、保津水は北高の制服を三国丘でも通すつもりだろう。セーラーの襟に縫い付けられた〈sagakita〉の小さな印字を見つめていると、京子の目は再びぼうっと霞んでしまうのだった。東京生まれの東京育ちのはずだったのに、幼少時―――いや、生まれたときから、水尾の地の匂いが決して消えることのない子だった。笑顔や声、かすかな仕草の中にさえ、柚子の里・水尾の、萌え出でんばかりの土着の薫りを忍ばせていた。父の口癖だった、水尾に吹く〈青嵐の申し子〉なのか。それとも、荒々しく奔放な保津峡への母親の憧憬が投影したのであろうか。もしそうであるなら、娘の苦しみは責任ある自分に背負わせてほしい。それが公平ではないのか。京子が声を震わせ叫びたくなるほど、保津水の決意が痛々しく直面する現実は苛酷だった。

 その夜、娘のベッドの隣りに蒲団を敷いて横になったものの、京子は一睡も出来なかった。朝、目を覚ました保津水の体温を計ると、昨夜に較べ下がってはいたが、まだ三八度近くもあった。京子は大事をとって、今日も保津水を休ませることにした。

「一日中、ちゃんと寝てなきゃ駄目よ。本当よ。ゆっくりベッドで休んでいなさいね。夜、八時には、また来れるから。何かあったら、この携帯を置いていくから電話してね。きっとよ」

 枕元に自分の携帯を残し、京子は保津水に念を押して八時三十分にマンションを後にしたのだった。

 この日も遼は保津水の部屋へ寄らなかった。今日こそは、と期待に胸をふくらませていた彼女は、クラブの下校時間帯が近づく五時以降は完全に落ち込んでしまった。

 ―――やはり駄目なのか‥‥‥。

 日が経つに連れ二人が結ばれる確率は低下する。そう考えると、もう耐えられないほど、塞ぎ込んでしまう。が、今日は予期せぬ、およそ信じられないほど意外な人物が保津水の部屋を訪れた。

〈ピンポーン〉

 六時前にドアホンが軽やかなチャイムを響かせた。

  ―――もしや!

  暗く沈んでいた保津水の顔はパッと輝く。遼クンだ! そう思ってベッドから飛び起きた。

「ハイッ!」

 インターホンを持つ保津水の手も声も震えてしまう。

「今晩は」

 インターホンから流れる声は遼ではなかった。

「一体、どなたなの?!」

 セールスマンだろう。よりによってこんなときに! 保津水の声はドアの人物を絞り込んでしまったが、インターホンから流れてきた声は保津水の断定を否定するものだった。

「草野です」

 声の主は鷹揚だった。保津水の失礼な口調を怒っておらず、親しみがこもっていた。彼女はその声を聞いて飛び上がるほど驚かされてしまった。

「草野‥‥‥、草野さんて、まさか‥‥‥」

「ええ、遼の父です」

「ちょっ、ちょっとお待ちください。すぐ開けますから」

 慌ててパジャマの上にガウンを羽織ると、小走りでドアへ急いだ。

「今晩は」

 草野直樹が微笑みながら戸口に立っていた。一目見て、遼の父と分かる顔だった。

 直樹が突然、保津水の部屋を訪れたのは、もちろん理由があった。息子に頼まれての訪問ではなかった。それどころか、遼は父がここに来ていることさえ知らないだろう。

 昨夜、直樹のところへ電話がかかってきた。一度目は八時過ぎだったので、彼は家におらず照子が取り次いだ。十一時半なら確実に帰っていると聞くと、電話の主は十一時半に再び電話をかけてきた。保津水の父だった。

 彼はまず突然電話した非礼を詫びて、

「こんなことを父親同士が話し合うべき筋合いではないのですが」

 と断ってから、娘の気持ち、彼女が置かれている状況、そして今後の身の振り方を、切々と直樹に語りかけた。自分の失敗や、娘、それに妻に対する謝罪の気持ちを交えながらの、誠実、真摯な内容であった。

 直樹は聴いていて、自身耳が痛かったが、何より娘の身を案じる父親の心情に心を打たれた。最愛の者の心と体を気遣いながら、何も出来ずに不安にさいなまれているのだ。保津水の父の苦悩が受話器を通して、涙声で直樹の耳に伝わってきたのである。

「何とか、お父様の方から、息子さんに決断を伝えるようにおっしゃって戴けないでしょうか。そうすれば、駄目なら駄目であの子も納得して、母親か私のところへ戻るでしょうから」

 保津水の父は最後にそう頼んだ。

 息子に決断を迫る役目は到底引き受けられないと思ったが、直樹ははっきりと口に出すわけには行かず、また、軽々に正論を吐ける場面でもなかった。

「出来るだけのことをしますから、ご安心ください」

 大半の世人の言葉を借りて、直樹は受話器を置いたのだった。彼はしばらくの間、電話の前にじっとたたずんでいた。ここ二日間の、息子の苦悩の原因がようやく分かった。

 ―――遼を追って、北高から女生徒が転校していたのか‥‥‥。

 彼女か、それとも浅野純子か。この二人の選択に迷っていたのだ。息子に三国丘への転校を決意させた女生徒は浅野純子。直樹にはすぐ分かった。自宅を訪れる純子と、何度か顔を合わせたからである。ところが、わずか四カ月足らずの北高での生活で、息子は一人の女生徒を好きになった。これも直樹には容易に理解できるものだった。娘の愛が、「保津水姉ちゃん」「保津水姉ちゃん」と、うるさいくらい口に出したからだ。

 直樹は傍観者を決め込むつもりだった。息子が決めることで、父親が口を挟むべきことではなかった。男と女のことは、当人同士がいくら熱くなっても、他人にはシラけたものだ。高も括っていたのに、今度ばかりはそうは行かなくなった。まず、保津水の父に出来るだけのことをすると約束してしまった。情にほだされ、つい口から漏れた言葉でもあるのだが、口に出した以上、反古にするわけに行かなかった。息子の悩みの深さも気がかりであった。

 ―――それに‥‥‥。

 息子のために三国丘への転入を果たした、秋本保津水という女生徒も何とかせねばならなかった。彼女は思い詰め、追い詰められている。一刻も早い解決が必要であった。そう考えると、直樹は保津水に会う義務があると思った。それが今夜、といっても、まだ夕暮れであるが、保津水のマンションを訪れた理由だった。

 部屋へ通された直樹は、六畳間のテーブルに腰を下ろした。

「お茶を入れますから」

 キッチンへ行こうとする保津水に、

「いや、結構だよ」

 直樹は断った。顔色が悪い上に、風邪で寝込んでいたと聞いては、なおさら保津水を動かすわけに行かなかった。ベッドで楽にするようにも言うが、いくら何でも保津水にはそれは出来なかった。彼女は直樹の向かいに腰を下ろすと、恥ずかしそうに俯いた。

 ―――女の髪‥‥‥か。

 女の髪は象をも繋ぐという俗諺が、なぜか直樹の頭に浮かんできた。親友後藤田の決意を覆し、彼を破滅から救ったのは富美子のけなげな愛ではなかったか。おそらく、遼が直面する苦悩もこの娘によって解答が与えられるのではないだろうか。保津水を見つめながら、直樹はおぼろげながら決着を読んでしまった。目の前の娘が息子にすべてを捧げる決意であることは、直樹にも容易に理解できた。芯は強そうだが性格が悪くないのは表情を見ればすぐ分かる。それに、目元は一昨年の暮れに亡くなった、大林可奈子にどことなく似ていた。

 一方、保津水も一目見て、

 ―――この人は私の味方だ!

 直樹に直感的確信を得てしまった。

 二人はしばらくの間、直樹が聞き役の、とりとめのない会話を楽しんでいたが、話の途切れで直樹は腕時計に目を落とした。

「それじゃあ、私はこれで帰ることにするよ。少し横になったほうがいいだろうから」

 保津水を休ませるために腰を上げようとしたが、

「何か欲しい物はないのかな。それはケーキだけど、ほかに欲しい物があれば買ってくるから」

 テーブルの菓子折の中身を伝え、微笑みながら付け加えた。

「ええ」

 保津水は嬉しそうに頷くと、上目遣いに、

「ブラマンを入れて戴けると―――」

 直樹にねだった。

「うん?」

「だって、おじさまのせいで、私、コーヒー党になったから」

 保津水に言われても、これだけでは意味がよく分からない。

「遼クン、おじさまのコーヒー豆を失敬して、私と一緒によく飲んでましたの」

 ここまでの情報が伝わると、直樹もようやく事情が見渡せる。そう言えば去年の暮れあたりは豆の減り方が早くて、普段の三倍近かった。

 ―――あれは遼のせいだったのか。

 コーヒー豆が取り持つ縁といって良いのであろうか、保津水との共通点が認識できて、直樹は不思議と親近感が増してくる。これは保津水も同じで、遼に持ち去られた豆を挽いて直樹がコーヒーを入れていると、

「おじさまは、きっと私の味方をしてくれるでしょう?」

 恋人の父の顔を甘えるように覗き込んだ。この人は去年の初夏に吹いた、あの荒々しかった青嵐の化身なんだ。私を助けるために、水尾の里がここへ遣わしてくれたのだ。祖父の予言が確信に変わるほど、保津水には直樹が頼もしく感じられるのだった。

「さあ、どうかな‥‥‥」

 ドリッパーに湯を注ぎながら、直樹は実の娘に甘えられている気分だった。

 直樹が訪れた翌日の月曜日には、遼もようやく保津水のマンションを訪れる決心をした。ここ三日間ずいぶん悩んだが、結論というようなものを出せる当てさえ、いくら考えても思いつかなかった。出来ればこんな中途半端な気持ちで保津水に会いたくはなかったが、会う義務はもちろん感じていたし、彼女が学校を休んだのも気がかりだった。

 この日は朝から鬱陶しい雨混じりの天気で、遼は仕方なく駅までバスで行くことにした。照子は車で送ると言ったが、

「いいよ。今日はバスで行きたいんだ」

 車内での母との会話が苦痛で、遼は受け付けなかった。自転車と違って時間の調整がうまくつかず、いつもより一本早い電車に乗ってしまった。マドンナを待とうかとも思ったが、なぜか面倒になる。堺東駅を降りて傘を差しながら歩いていると、学校が引けてから保津水のマンションへ寄るつもりが、なぜかまた、足がそちらへ勝手に向いてしまった。学校近くの三階建てマンションはすぐに分かった。

 重い足取りで階段を上がり、三〇三号室の前に立ってドアホンを押すが鳴らなかった。昨夜十時過ぎに保津水が電源を切って、そのままになっていたのだ。一向に反応がないのでノブに手をかけて回してみると、木製ドアは音もなく開いた。朝方ゴミを出しに出た保津水がロックを忘れて入っていた。

 遼は心配になって玄関へ入ると、カーテンの引かれた一番奥の部屋で保津水が眠っていた。体調が思わしくなく熱も引かない彼女は、今日も休むつもりでゴミを出すと再びベッドへもぐり込んでしまったのだ。静かに足を運び、ベッドの前に膝を折って保津水の寝顔を見つめていると、可哀相になってくる。北高にいれば、友達に囲まれて楽しい毎日を送れるだろうに‥‥‥。

 ―――親友も、北高も、嵯峨野の町も‥‥‥。

 何もかも捨ててしまって。

 ―――あんなに生き生きとしていたのに‥‥‥。

 夏の日差しを浴びて笑いころげていた保津水を浮かべると、遼はたまらなくなる。

 ―――俺なんかのために、こんなにやつれて‥‥‥。

 遼の目から、思わず涙が流れた。保津水の顔をのぞき込んで、ためらいがちに頬に手を伸ばすと、彼女はようやく目を覚ました。目の前の遼を見上げ、保津水は必死に何かしゃべろうとするが、声にならなかった。幸せな思いが波のように押し寄せては、すべてを包み込んでしまうのだ。ただ遼を見上げる瞳から、とめどなく涙が溢れる。

「―――保津。お前はここに居ちゃあいけない。だめになってしまう。帰ろう。本当に俺はばかだったよ。許してくれ」

 顔を歪めて喉の奥から絞り出すと、遼は保津水を抱きしめた。もう何の迷いもなかった。

「ああー!」

 保津水は泣きながら、遼の腕の中で何度も何度もうなずいていた。


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転校生と、六刀の外科用メス(堺の病巣をえぐり、外科医の明日を開く) 南埜純一 @jun1southfield

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