第33話 夭逝(ようせい)

 始業式に出かけた朝こそ、遼の気力は回復と充実の兆しを見せはしたが、当日のみの持続さえ覚束ない、儚い泡のごときもので、単なる兆しのみで終わってしまった。転入試験合格直後の、魂が抜け落ちる虚脱感や苦悩に襲われることはなかったが、日を追うに連れ軽い倦怠が遼の内に漂い始めた。一種の逃避行動がもたらした産物といって良いもので、遼はひたすら保津水と北高を意識下に閉じ込め、忘却の淵に追いやろうとしていた。北高での日々や保津水が意識に上ってくると、後悔が体をしびれさせるような焦りをもたらして、じっとしていられないほど辛くなってしまう。わずか四カ月足らずであったというのに、保津水と北高は余りにも鮮烈な印象を遼の心と体に刻みつけていた。授業中の楽しいやりとり。シャツ一枚を隔てただけの、夏の日の通学。保津水の部屋で思わず彼女を抱いて、白い豊かな乳房を吸ったこと。洗練された静かな山あいの町と、それを見下ろす高台の学び舎。一人でいると、次から次へとそれらが遼の胸に甦ってくる。

 ―――ああ! 自分は何と愚かだったのだろう‥‥‥。

 嵯峨野の町と、それを見下ろす高台の母校を捨ててしまった。そして、保津水も! 

 苦い後悔が遼の胸をかきむしる。彼は何度、竹林回廊から愛宕山、そして水尾へドリームを走らせたか知れなかった。が、柚子の里どまりであった。落合、たとえ下六丁峠まで行くことはあっても、一の鳥居を越えることはなかった。

 忘れよう。考えても意味ないことなのだ。遼は過去を忘れ、捨て去る決意で、そのためによく楠田の部屋へ逃げ込み、また、意図的にマドンナへの思いを募らせ彼女との恋にのめり込もうとしたのだった。

 マドンナには一組にボーイフレンドがいて、遼は一緒に廊下を歩いていたとき、

「おーい、浅野。一時に食堂へ来い」

 ボーイフレンドに呼び止められたことがあった。並んで歩く遼への牽制が丸分かりだった。

「何よ! えらそうに」

 マドンナは彼を無視して小さく吐き捨てたが、遼を意識した怒り方が少女っぽくて可笑しかった。

 通学の行き帰りが同じで親しく付き合うようになると、いつの頃からか、マドンナもボーイフレンド以上の存在として遼を意識するようになった。越境仲間で、家が近いこともあって一度招待すると、彼女は遼の家を足繁く訪れるようになった。草野家では、特に照子が彼女を気に入っていて、マドンナが来ると「純子さん、純子さん」とうるさいくらい名前を呼ぶ。

「‥‥‥おばさん」

 恥ずかしそうに初めて照子に呼びかけたマドンナであったが、同じ魂を持つ二人は強く引き合うものがあるのであろう。すぐ、「お母さん」と呼んでも可笑しくない関係が形成されてしまった。遼をそっち退けで、化学の勉強を見てもらい、料理や裁縫を教えてもらいに赤いママチャリでやって来る。ダイニングで二人が話しているのを見れば、知らない人はおそらく母娘と思うだろう。それほど二人はよく似ているし、心が通い合っていた。

「とおせんぼ。こっからは入っちゃダメ! わたし、お姉ちゃん嫌いだから」

 わが家に一人、恐るべきマドンナの天敵がいた。彼女は決してマドンナの存在を認めようとしない。マドンナが玄関へ上がると、

「わたし、これから保津水姉ちゃんと電話でお話があるから」

 愛は敵意をむきだしにして、自分の部屋へ閉じ込もってしまう。

「愛ちゃん!」

 母は愛を叱りつけるが、妹も強情だ。泣きながら母に反抗する。そんな妹に、マドンナは戸惑いながらも優しく接して打ち解けようとするが、うまく行かなかった。母は当初、時間が解決してくれるものと甘い認識で楽観していたが、保津水に対する愛の思い入れが生半可なものでないことを徐々に思い知らされて行く。兄のガールフレンドは保津水一人で、二人は結婚するものと愛は信じ込んでいた。京子の期待に違わず、愛は保津水の味方をしてくれたのであるが、現実は期待を遙かに凌ぐものだった。

 愛が〈保津水姉ちゃん〉を好きでたまらないのは、保津水も幼いころ激しい小児喘息の罹患者であったことも影響している。喘息の発作がどれほど苦しいかよく分かっている保津水は、愛に的確なアドバイスをする。愛も発作が出そうになると、すぐ保津水に電話をかける。この関係が昨年の十月から出来上がっていた。

 人間というのは結局、経験を通したもののみが自分のものになるのかも知れない。母が苦しむ愛の身をどれほど案じ、必死に世話をしても、健康な母には娘の肉体的苦痛を体感することが出来ない。いくら注意をしていても心ない言葉がつい口から漏れる。しかし病人は敏感だ。子供だと思って油断してはいけない。おまけにこの妹は人一倍、感受性が強いのである。この点でも、愛は保津水によく似ていた。

 それに母と保津水では喘息治療に対する考え方が微妙に食い違っていて、この差異が愛の中で増幅され、結果的に母を保津水から乖離させたように思う。保津水は父が医師であることもあり、薬物の使用にあまり大きな抵抗は示さず、必要なら投与すれば良いという考えだ。自分がそれにより楽に克服出来たという自負もあった。

 これに対して母は、人間の自然治癒力と予防を重視した。娘に体力をつけさせるため、喘息体操を強要し食事に配慮した。薬に対する不信もあって、発作を抑える薬を飲ませるのは可能な限り遅らそうとしたが、愛には照子の深い意図が理解できなかった。

「あー! 息ができない。苦しいのは嫌だから、早くテオドールちょうだい。お母さん、早く早く!」

 発作の苦しみから少しでも早く逃げたい愛は、気管支拡張剤を欲しがる。我慢を強いる母に、保津水の名前を出して妹は毒づく。こうなると、照子はますます保津水を好きになれなくなって行くのだった。

 愛がこれほどまでに肩入れすると、マドンナも保津水に無関心でいられないのは当然のことで、遼は通学途中や二階の自室でよく彼女のことを尋ねられた。そんなとき、遼はいつも曖昧な返事で逃げてきた。うん、そう、さあ? 以外、ほとんど保津水について語ろうとしない遼に、マドンナも深く尋ねることはなかった。素直で、鋭い女の勘は持ち合わせておらず、詮索好きな品性も彼女には不似合いだった。

 容姿や性格、考え方まで母とよく似たマドンナであるが、その彼女と同じ電車に乗りながら、遼はいつも疑問に思うことがあった。すでに三国丘高校へ通い始めて一カ月半近くにもなろうというのに、一度も北川と出会わないのだ。

 ―――新しいガールフレンドでも出来たのだろうか‥‥‥。

 と、思ってもみたが、北川のマドンナへの惚れ込みは、そんなハンパなものではなかった。

 ―――では、一体どうしたのだろう?

 ひょうきん者の北川を思い浮かべ、遼は妙な不安感に襲われ始めていた。ちょうど、そんなときだった。北川の死を知らされたのは。

 三月一日からの期末試験を二週間後に控えた金曜日のことだった。遼はマドンナと並んで堺東駅で上り電車を待っていた。

「今日帰ってから家へ行ってもかまへん?」

 マドンナはホームのクラスメートたちの視線を気にして、恥ずかしそうに遼を見上げた。

「うん」

 軽く頷いてから、遼は苦笑いを浮かべた。土、日に自分がいないときでも母を訪ねているのに、はにかみながらわざわざ断るのが可笑しかった。

「もうすぐ期末やから、―――解かれへんかった数学の問題、解いて欲しいから」

 足下に視線を落とし、カバンをぶらぶらさせてマドンナは頬を染めた。

「いいよ」

「助かるわ。遼‥‥‥」

 遼君と言いかけて、顔を上げたマドンナはいっそう赤くなる。照子と一緒のときは、マドンナも「遼君」と名前を使うようだが、さすがに本人を前にして呼ぶと恥ずかしい。

「―――草野君は数学得意やから」

 マドンナは、途切れた言葉を照れながらぎこちなく繋いだ。

 二月に入って二人は三国ヶ丘駅での乗り継ぎをやめ、高野線で難波へ出て、地下鉄に乗換え大阪駅へ向かうラインに代えていた。定期代は上がったが、時間の節約には有利だった。

 難波駅で南海線を降り、地下鉄御堂筋線に乗り換えると、あいにく空席が見当たらなかった。仕方なく、ドア近くで手摺を握って立っていると、

「おい! 草野! 草野やないか?!」

 同じ車両の真ん中あたりから大きな声が飛んできた。声の方に目をやると、何と懐かしい! 清嵐高校一年八組の同窓生、北谷久だった。

「おう!」

 かつてのクラスメートと分かると、遼は自然と笑顔がこぼれる。

「おう! おう! おう!」

 北谷は遼のところへ大股で足を運び、

「草野が三国丘へ行ってるっちゅう噂は耳に挟んだけど、やっぱりホンマやったんやな。しかしエライやっちゃな。どないしたら三国丘へかわれるねんや?」

 耳をつんざく大声といえば大袈裟であるが、車中の誰もがこちらを見つめるほどの音量だった。場違いと思ったのか、マドンナは顔を赤くして二、三歩引いてしまった。

「いや、急にまた京都からこっちへ引越しすることになったんだ。引越し先が堺だったんで、三国丘を受けてみたら、たまたま合格できた。単にそれだけなんだ」

 遼は冷や汗をかきながら、北谷の興味を削ぐ、トーンダウンの返答を返した。

「ふぅーん、そうか。それにしてもすごいやないか‥‥‥」

 納得したのか、北谷の声も世間並みのトーンに落ちた。

「それはそうと、北川はどうしてんだ? 電車で全く見かけないんだけど」

 声が小さくなったところで、気になる親友の消息を尋ねると、

「お前、知らんかったんか! あいつ去年の暮れに死んでもたんや。ボヤっとして赤信号を渡って、トラックに轢かれてしまいよって」

 北谷は再び大きな声に戻ってしまった。

「えっ?!」

 遼はもう北谷の大声が気にならなかった。信じられない、と言うより、信じたくない親友の死を聞かされてしまったのだ。

 ―――あの北川が死んだんだって!

 女が好きで、マドンナに憧れていたのに。この世に未練をいっぱい残して、十六歳で死んでしまった。可奈子と同じで余りにも短い人生だった。遼が予想外の青い顔をして、眉間にしわを寄せ消沈してしまったので、北谷もシュンとしてしまい、もう話しかけなかった。

 その日は帰ってからも北川の死が頭から離れず、重苦しい一日だった。机の前に座っていると、目を輝かせ、マドンナとの恋にうつつを抜かしバーチャルリアリティに耽っていた親友が浮かんでくる。生身の恋をしないで、もちろん女も知らないで逝っただろう。

「草野! これは不公平やぞ。俺は許せんぞ! ―――なあ、草野。なんで俺を誘うてくれへんかったんや。お前の計画分かってたら、俺も親父とおふくろの母校やった神戸高校へ転校して、それから三国丘へ転校したのに。なんで俺に、中学の担任の鼻、明かすチャンスくれへんかったんや。こんな早う、死にたなかったのに‥‥‥」

 北川の恨み言、泣き言が、遼の耳の奥に浮かんでは消えていった。遼は机の上の本も開かずに、長い間、夭折(ようせつ)した親友に心を奪われていた。マドンナが部屋のドアをノックしなければ、そのまま亡くなった北川の思い出に浸り続けていただろう。

「まあ! 暑い」

 薄暗い部屋のドアを開け、息苦しいほどの熱気に襲われ、マドンナは目を丸くしている。愛がいたずらをしたのであろう、確認もせずにエアコンのスイッチを入れたが、表示パネルは三二度を指していた。

「しばらく切るわね」

 スイッチをオフにすると、マドンナはオーバーを脱いで机のところへやってくる。毛糸の白いセーターと紺のスカートをはいていた。薄手のセーターは体のラインを正確に描き出す。白いセーターはマドンナの豊かな胸をますます豊かにみせる。彼女は遼の視線が自分の胸に注がれているのを知って恥ずかしそうに頬を染めるが、別に文句も言わない。

「‥‥‥この問題やけど」

 カバンから取り出した問題集を、立ったままおずおずと遼の前に差し出す。マドンナは数学が一番苦手だった。電車の中でもよく質問されるが、数学のレベルは保津水と較べ、ずいぶん落ちる。コツコツ努力するタイプで、説明していても保津水のような閃きは感じられなかった。

「‥‥‥」

 遼はマドンナに数学の説明をしながら、不思議な気持ちに襲われていた。なぜ彼女を抱かないのだろう。左手を伸ばして彼女を抱き寄せても、おそらく彼女は抵抗しないだろう。恥じらいながらも、遼に身を委ねる。もちろん最後のことは拒むだろうが、胸くらいは許してくれるはずだ。

 この白い毛糸の下の、豊かな胸に触りたい。そして吸ってみたい気もあるのに、遼はマドンナにまだキスもしていなかった。なぜなんだろう? 保津水には激しい衝動が震えるように湧き上がってきて、それを抑えるのに修業僧にも似た苦しみを強いられたというのに。マドンナには激しい情念がまったく湧いてこないのだ。あんなに欲しかったはずなのに。

 ―――どうしてだろう? ‥‥‥。

 ぼんやりとすぐ横のマドンナを見ながら、遼は考え込んでしまう。しかしマドンナの顔を見ていても、解答が得られるはずがなかった。彼の心と体を縛り付けている女生徒を、完全に見切ってしまう必要があるのだ。保津水を取るか、それとも完全に捨て去ってしまうか、この選択をしなければ、遼の心と体は解放されることはなかった。わずか四カ月の間にかけられた呪縛であるが、それは遼の心と体を―――一人の女生徒と山あいの町、それを見下ろす高台の学び舎に、強く深く結びつけていた。しかもその呪縛は日が経つに連れ、弱まるどころか、より強く、より深く遼を縛り出していた。

 ―――もう忘れよう。

 そのために未来を見つめて歩くことにしたんじゃないか。マドンナを選んだのも同じ気持ちのはずだろう。と、自分に言い聞かせてみるのだが、保津水を捨て去ることは至難のわざで、遼に不可能を強いるものだった。特にベッドへ入って眠りに就くまでの間、遼は保津水に悩まされ続けていた。忘れよう、もう忘れねば、という決意のしりから、その決意の甘さゆえに、甘美な思い出が強い衝動をともなって顔を出す。そのエネルギーは日増しに強くなって、遼の心に抑えようのない、苦悩の渦を巻き起こし始めているのだった。


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