第26話 後藤田正義という男

 警察が好きだった、というより警官が好きだった。幼い頃、父が帰ってくると真っ先に紺の制服に飛びついて肩車をねだった。誇らしかった。自分も必ず警官になるんだ。小学校へ上がる前の、幼稚園児の時に既に決めていた。

「正義。アンタは、お父さんやお兄ちゃんと違って、キャリヤになってうんと出世するんやで」

 中学へ入った頃から、警察内部の複雑な階級を母から知らされ、自分に対する期待が家族の暗黙の共有であることを知ってしまった。

「キャリヤになったら、お父さんやお兄ちゃんと違って、巡査やのうて警部補から始まるんやで」

 母の言葉はいつもトゲがあり、父や兄から自分を遠ざけるようで嫌だった。ただ反発は出来なかった。警察官宿舎に住み、今でこそ公務員は給与面で恵まれているが、当時は薄給だった。その中で兄を大学へ通わせ、自分も行かせてくれた。遣り繰りが並大抵でないことは、荒れた肌や化粧っ気の全くない顔を見れば子供心にも明らかで、母の愚痴を聞くのは自分の役目だと諦めていた。

 中学に先立つ小学生の時は理科部に入り、生物、特に昆虫の観察に熱中した。カブト虫が好きだった。愚直で、黙々と働く父を見ているようで、何時間見ていても飽きなかった。自分も警察官になってカブト虫のように黙々と働くんだ。そんな生き方に何の疑問も抱かなかった。

 小学校六年の夏、カブト虫の雌を左手に持って、右手の雄を背後から近づけると、雄の全身がまるで心臓の塊のようにドクンドクンと激しく脈打ち、六本の肢で逃げようとする雌を抱き寄せ交尾を始めた。バリバリッと、雌の尾部に雄の一部が入っていった。父と母の関係が改めて認識できたようで、幼児期の父への尊敬が甦ってきたのを覚えている。

 中学へ入学すると柔道部へ入った。警官になるのだから強くならねばと思ったのだ。府の大会で三位になったときは、父が涙を流して喜んでくれた。この頃から、怒ったときの口癖が生まれ、

「お前ら、警官を嘗めたらアカンぞ!」

 興奮すると、なぜか知らず知らずの内に口を吐くようになってしまった。

 勉強はよくした。母の言葉が強迫観念のように頭にこびり付いて、ただひたすら勉学に励んだ。高校は府立の進学校に合格した。今度は、母が涙を流して喜んでくれた。我が家で初めての快挙であったのだ。

 高校でも柔道をしたが、身長一六六センチでは、府の大会での入賞は難しかった。いくら練習しても実績が伴わないので、副将にしかなれなかった。カブト虫のような生き方は勉学に向けようと考え、中学と比較にならないほど、更に勉強に励んだ。視力が〇・一を割ったときはさすがに母も心配して、

「正義。そんなに無理せんと、程々にしとかな、体こわすで」

 自慢の息子に、哀願口調でペースダウンを促したのだった。

 カブト虫のような努力が実を結んだのか、大学は大阪の旧帝大に合格した。母の喜びようは想像を絶するもので、発表の掲示板を見て飛び跳ねて、それから卒倒してしまった。

 大学では柔道をやめて空手部に入った。柔道に限界を感じていたし、空手の方が柔道より有利と判断しての入部だった。ただここでも自己の限界を思い知らされてしまった。草野直樹がいて、彼にはどんなに練習しても勝てなかった。人間は不平等に生まれている。全国大会で優勝した直樹を見ながら、後藤田は僻んでしまった。その直樹が野々口豹一郎に赤子の手をひねるような負け方をしてしまった。一八〇センチ余りの男が、身長一六〇センチたらずの老人にである。後藤田はこの医学博士に心酔してしまった。生涯の師と仰いで、師事しようと即座に決意した。深遠な東洋古武術と人間の秘められた可能性に体が震えた。

 話は前後するが、大学二回生の時、後藤田は母を亡くした。長年の無理がたたった過労が原因の突然死だった。夫と二人の息子の食事・洗濯等の日常家事に追われ息つく暇もなかったのだ。父の落胆はひどいもので、しばらく腰が抜けたように立てなかった。葬儀では父も兄もただ泣くばかりで、後藤田が喪主の父に代わり、参列者への挨拶を行なったのだった。

 母の死は残された家族三人の絆をいっそう深めた。交代で炊事当番をしたが、食卓を囲みながら、亡くなった母がいつも一緒の席にいるように感じていた。洗濯をしながら、また釜に水を張って米を研ぐときも、母の仕草を思い出しては、自然と涙が頬を伝った。

 キャリヤ組になってほしい。母の希望で、父と兄の希望でもあったが、母が亡くなってから国Ⅰの勉強はしなくなった。父と兄と同じように巡査から始めよう。自分にはそれが向いていて、それに、キャリヤ官僚は嫌いになっていた。まるで腰掛けのように短期間の大阪府警勤務。そしてすぐ東京の本庁へ戻っていくのだ。

 ―――父と兄のように、ずっと大阪府警で勤めよう。

 府警の採用試験か国Ⅱを受けて、府警へ入ろうと決めた。父と兄の勤める大阪府警が好きだった。二人から離れたくなかったのだ。国Ⅰに受かると、父と兄が自分から離れていくようで、後藤田は恐かった。

 こんな彼の決意を覆したのは、野々口豹一郎の娘富美子だった。母親似の、清楚な百合のような気品と美しさをたたえていた。母親のマサは既に亡くなっていたが、飾られていた写真で母娘が瓜二つであることを知ったのだ。

 当時教授が住んでいた千里の自宅へ草野と通いながら、後藤田はいつも不安だった。富美子が草野を好きになりはしないかと気が気でなかったのだ。しかしこれは杞憂だった。草野には高津高校から付き合っていた西照子がいて、それに富美子は自分の好みでないと草野に耳打ちされた。親友の心配りが痛いほど分かった。父の会社が倒産し、大学院進学を断念したことも打ち明けられた。このとき初めて、草野直樹と生涯親友でいられると確信したのだった。

 野々口富美子と結婚したい。彼女も自分を好いてくれている。そう思うと、後藤田は受験勉強を再開した。兄が見合いであったが、結婚して幸せな家庭を築いたのを見て、自分も兄のような結婚生活を送りたいと願うようになった。老後の父と野々口教授も引き取り、四人で暮らせる家庭を築こう。そう思うと勉強に拍車がかかった。四回生の秋に国Ⅰに合格して内定をもらったときは、富士山の頂上から日本を眺めるような心境だった。母の墓前に真っ先に報告に行って、墓石を抱いて、後藤田は号泣してしまった。

 最初の任地は大阪府警を希望した。府警が好きだったし、何より富美子と会える時間を持ちたかった。野々口教授には伝えていなかったが、結婚に対する富美子の了解は得ていた。看護学校へ通う四歳下の富美子に申し込むと、

「はい」

 と答えて、後藤田の右手を握ってはにかんだのだった。

 ―――あの忌まわしい事件さえなければ。

 兄の死は、後藤田から未来だけでなく、父までも奪ってしまった。必ず、ヤツを逮捕して、報いを受けさせてやる! 兄と父の葬儀の席で、何度も何度も誓ったのだった。

 ところが府警の懸命の捜査にもかかわらず、谷山の足取りは犯行二カ月後にピタリと途絶えてしまった。休暇なしの谷山追跡に、

「ねぇ、私はどうしたらいいの? 少しはこちらを向いてださい」

 富美子は泣きながら訴えたが、後藤田の耳には入らなかった。

「それどころじゃないんだ。しばらく俺の思い通りにさせてくれないか。これ位で参るようじゃ、警官の嫁は勤まらないぞ!」

 電話の怒鳴り声がよほど応えたのか、富美子はその後すぐ、野々口教授の助手をしていた高田明夫と結婚してしまった。高田が野々口家の婿養子となる形態だった。

 ―――富美子はどうしているのだろう。

 昨年山岡から富美子の夫が亡くなったと聞いてから、よく富美子のことが頭に浮かんでくる。以前も彼女のことを想わなかったといえば嘘になるが、既に結婚している相手を考えると不謹慎な気がして、極力脳裏から消し去るよう勤めてきた。が、草野に教授が巻き込まれた事件を知らされてから、いっそう富美子のことが気になり、それとなく身辺を探ってみると、息子と別れて奈良県の十津川村の親類宅に身を寄せていることが分かった。

「野々口教授がどこに居てるか、全く不明やねん。お前、知ってるか?」

 一カ月前の山岡からの電話に、後藤田は富美子の居所を伝えなかった。山岡がしばしば電話を入れてくるのは友人としての自分を心配してのことか、後藤田の暴走の可能性を案じて警察組織を守るためであるのか、後藤田にはよく分からない。S資金のことは国防組織も絡んでいる可能性がある以上、山岡には話せなかった。草野も彼には話さないとの確信を後藤田は持っていた。

「ところで海野にウチの公安が、山松種夫のことを伝えたらしいんやけど、山松になんか不審な点でもあるんか?」

 山岡は最近、後藤田が閉口するくらいよく府警の自分のところへ電話を入れてくる。階級はすでに山岡が上になっているので無碍(むげ)に断るわけに行かないが、こうしげしげ電話を入れられるとうんざりしてしまう。

「いや、知らんけど。山松いうたら、昨年問題になった、あのビルのオーナーの山松か」

 一昨日も電話があり、山岡が探りを入れてきたが、事実、後藤田は海野から知らされていなかった。が、公安の電話が谷山関連であると、すぐピンときた。海野が谷山を突き止めたら、自分に知らせず単独行動を取る。後藤田は確信していた。

 ―――あっ! こいつだったのか!

 デスクのパソコンでインターネット上の新聞記事を開いて、もう少しで後藤田は声を上げそうになった。山高帽にサングラス。顔の特徴が分からないよう注意しているが、ゆっくりと写真を拡大すると、その顎に後藤田は見覚えがあった。忘れようとしても忘れられない顎の輪郭で、事件直後に較べるとやや肥えているが、少し反った特徴は写真の山松が谷山であることを証明していた。

 十月十六日に、二十年近く片時も忘れず追い続けてきた谷山柾一の今を見てから、後藤田は激しい感情の起伏に襲われていた。残忍な怒りと、立っていてもへたり込んでしまうような虚脱感、それに仲間と府警への思いが、ゴウゴウと渦のように沸き上がってくるのだ。府警仲間は、自分が谷山を殺害しても許してくれるだろう。むしろ心の内で喝采を送ってくれる。二人の、実直すぎる警官を死に追いやった男が、資産家としてのうのうと暮らしているのだ。許せるはずがなかった。これは法律の壁を超えた、閉ざされた閉鎖社会の戒律であった。しかし結果として警官が殺人を犯すことになるのは、一般社会の法としての非難に曝される。後藤田はこの非難に対し、より大きな声で反論は出来る。が、仲間と府警には、この声を出して反論する権利がない。たとえあったとしても、後藤田に較べ格段に小さい。結局、府警と仲間たちは後藤田への非難を受容するしかないのだ。この非難の解消をどのようにすればよいのか。谷山殺害意欲と共に、日増しに高まる府警と仲間に対する贖罪意識。追い求めていた谷山をようやく突き止めたというのに、後藤田は予期できなかった葛藤状況に追いやられ、行動の選択に悩み苦しむ日々であった。

 ―――俺と同じ、こんな日を送ったのだろうか。

 もし西堺警察署の元署長が、嶋田の孫の死体解剖を免れたことに関与したのが事実であれば、悩みはなかったのか。関係者たちの話から以下の事実が浮かび上がっていた。嶋田の孫につき死亡原因に不審があって、解剖の必要ありとの検案医師の判断の結果、畿近大学医学部法医学教室で解剖予定であったところ、遺体が運ばれただけで解剖されていなかった。それを、「西堺警察署の署長に、俺が頼んだったんや」と嶋田の従弟の阪口が周りに述べ、専務の高端が、「オヤジ、絶妙のタイミングで、うまいこと金を渡しよりまんねんで」と語っているのだ。

「お前ら、警官を嘗めたらアカンぞ!」

 急に大声を出してから、後藤田ははっと我に返ってしまった。

「いや、ちょっとな。以前の西堺警察署の不祥事、思い出してな」

 驚いた部下たちの顔に、後藤田が支離滅裂な弁解を返すと、

「課長。あれはひどかったですね。僕が警官になりたての頃で、散々、マスコミに叩かれましたわ」

 向かいの席から巡査長の市田が相槌を打って、隣の新米巡査・川野みどりに解説を始めた。スーパーの女性店主が遺失物を届けたところ、駐在巡査がその十万円を横領した事件だった。巡査の言を真に受けた西堺警察署の刑事が、女性店主に疑いを向け、妊娠中の彼女を精神的に追い詰め、大きな社会問題に発展した。

 ―――あれで懲りた、というか、大きな反省材料だったはずなのに。

 後藤田には、海野から渡される西堺警察署の資料が残念でならない。もし語られていることが真実なら、若い警官に与える影響は計り知れないのだ。この件に関し、府警本部長から助言を求められれば、隠蔽は最悪の選択と答えるつもりだった。

 ―――が、自分の選択は、最悪でないと言えるのか‥‥‥。

 この日は家に帰っても、西堺警察署の不祥事と自分の選択との比較が気になり、容易に選択の中身決定には思い至らなかった。ただ、焦りはあった。海野が行動を起こす前に、自分が谷山を殺らねばならないからだ。

 ―――これがベストで、これしかないな。

 谷山が山松種夫と知って十日後の十月二十六日、後藤田はようやく谷山殺害方法を決定した。仲間や府警に迷惑をかけず、自己の復讐心を満足する手段。考えつくありとあらゆる場合を想定してみたが、以下のものがベストとの結論に達した。谷山を拉致と気づかれず車に乗せ、自分と一緒に交通事故死するのである。後藤田と谷山の関係を知るのは、今のところ、海野と草野だけなのだ。なぜ後藤田と山松種夫が同乗したか訝る向きもあろうが、警察の捜査は行なわれないだろう。人一人殺すのだから、自分も死ぬのが公平である。後藤田正義の、男というか、人間としての美学といってよかった。

 手段を選択すると、後藤田の行動は早かった。翌二十七日には親友の家を訪れた。

「今晩は」

 午後九時に草野家のインターフォンを押したのだった。

「はい」

 出たのは遼だった。父から連絡があり、急の予定変更による時間調整のため、帰宅は若干遅れるので客を離れに通すよう指示があった。

「お邪魔します」

 黒ぶち眼鏡の訪問者は寡黙だった。遼を見て、眼鏡の奥の鋭い瞳を一瞬細めただけで、入れ代わりに離れを出た祖母にも会釈を返しただけだった。

 後藤田は確信していた。草野なら、自分のこの決定を是認してくれる。そして、生涯秘密を守って彼は死んで行く。今夜は、友と最後の酒を酌み交わそう。海野に、「ありがとう。幸せに暮らしてくれ」と、伝言を託そう。

 ―――そうだ。これでいいのだ。

 離れの小振りの応接間のソファに腰を下ろし、親友を待つ間、後藤田は経験したことのない平静に満たされていた。

 その夜、帰宅した父と先程の訪問客との間にどんな会話が交わされたのか、遼には分からない。ただ中間テスト勉強をする彼の部屋へ、喉の奥から絞り出す、まるで五臓六腑を吐き出すような呻き声が聞こえてきた。あまりの異様な声に遼が耳をそばだてると、声は震え、哭いていた。

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