第25話 藍より取りて

 野々口教授や孫の英世、それに父や海野が直面する事件に較べると小振りで遼は気恥ずかしいが、彼の周りでもくすぶり続けていた火種が大きく燃え上がろうとしていた。

 体育祭が終わると二週間後に中間テスト。この二週間という期間は意図してのものか、機械的に組み込まれてそうなっているに過ぎないのかよく分からないが、ある種の行事ないし出来事から二週間後にテストがなされる場合が多いように思う。ところで、遼はこの時期いつも感じてきた素朴な疑問があって、今年もやはり同じ感覚の変化に晒されていた。時間が急に後ろから迫ってくる気配なのだ。長短の感覚は別にして、これまでは自分の前に時間があって、それを基にあれこれと予定を立てていくのであるが、体育祭が終わる頃から、なぜか時間が急に後ろに回ってしまい、背後から急き立てられる気配に襲われてしまうのだ。転入を有利にするために、また保津水との実力差を縮める上でも遼は中間テストにベストを尽くす必要があって、このことが一層、追われる感覚を助長しているのかも知れなかった。

 十月に入ると、日曜のデイタイムは楠田と共有することになった。ドリームでほぼ一時間のツーリング。朝からランチ持参で、遼は楠田家の食客ならぬ学客となっていた。楠田は遼との空手がよほど楽しいのか、昼の休みは空手メニューで埋め尽くされてしまった。型と技の披露、それに突き・蹴りと受けの組み手がメニューの中身で、あっという間の一時間半なのだ。基礎トレは普段の合間にこなしているのか、夏休み前に較べると、楠田の体は別人と見紛う精悍さを見せるようになった。

「草野が来てくれて、俺はまったく別の世界も見れたわ。これまでのままやったら、頭デッカチだけの人間で終わってたやろ。頭も体も必要やな、人間には。お前のおかげでこんな当たり前のことがよう分かったわ。おおきにな」

 楠田は遼によく礼を言った。

「‥‥‥こっちこそ」

 遼も同感なのだ。嫌いだった勉学が、少しは好きになったのは楠田のおかげといってよかった。父の言うキラッと光る原石の知性が、ひょっとして自分にあるのかも知れない、と思うようにもなってきた。ここまで来れたのは楠田ともう一人の人物に負うところが大きくて、特にプレッシャーたるや楠田の数倍のそれを彼女は遼にかけてくるのだった。尽きぬ迷いと悩みの源。これは相も変わらぬ現実だが、学習に対する厳しさは楠田に勝るとも劣らぬものがあって、遼は保津水に感服・舌巻きの従属モードに陥っていた。遼という良きライバルを得たからであろうか、授業中のおしゃべりも最近はめっきりと少なくなった。サプライズは放課後、図書室の集中力で、ドリームの後部シートや彼女の部屋での悩まし気な保津水とは、同一人物と思えなかった。

 遼は机に向かっているときの保津水が好きだ。問題に集中している眼差しは、狂おしいほどセクシーなのだ。もし彼女を抱いたりすれば、彼女の最もセクシーな顔が見れなくなるような気がして、遼は怖い。怖い理由は他にもあるが、これも理由の一つだった。

 xy軸の原点を通過する一次関数さながら、保津水を好きになればなるほど彼女を抱きたい欲望を抑える理由が増えて、正比例の関係が生まれる。欲望と抑制。二つは徐々にエネルギーを増しながら、均衡を破ろうとしてシノギを削るのだ。僅かな衝撃で均衡が破られるのはいつの時点でも変わりなかったが、欲望が大きくなればなるほど遼の耐性は強くなり、メンタル面の発達がもたらされてきたのも事実であった。と同時に、均衡が破れたときは、貯えられた膨大なエネルギーが爆発してしまい、もはや押し止めようのない事態の発生も容易に想像し得ることだった。このように、いつどちらに転ぶかも予測のつかない、まるで綱渡りのような毎日を送っているのが、他ならぬ遼であった。

 中間テストは十月二十四日から始まり、二十九日の月曜には全科目の答案が手元に戻ってきた。返却答案で得点が保津水のそれを僅差で上回ったのは数学と生物。逆に国語と地理は大差といえぬまでも、かなりの差がつけられてしまった。保津水は今回も学年でトップだろう。

 ―――どうやら、俺の前に立ちはだかる大きな壁のようだ。

 学年席次表を見てニンマリとほくそ笑む、隣席の美人女生徒を見た。全くスキが見えないのだ。各科目満遍なく満点近い点を取って行き、苦手科目など思いもよらなかった。たぶん楠田なら、保津水に勝てるかと思うが、彼とて、ほんの僅かな点差しか付けられないだろう。

「ねぇ、遼―――じゃない、草野クン。総合、何点だった?」

 保津水は臆面もなく遼の点数を知りたがる。自分より下と分かってるくせに、と思うが隠す必要もないので総合得点を紙に書いてやる。清嵐と違って北高では各人の正確な学年席次は記述されず、得点分布表が配布されるのみだった。いろんな配慮が働きこの形が採用されたのだろうが、各生徒は当然のことながら自己の正確な席次は分かりにくい。学年で一番の者であれば最高得点が記載されているので、自分の点数と合致すれば自己が一番だと分かる。十番以内の者も数が少なく、その枠内のどの辺りに位置するかも判定は困難ではない。

「ふぅーん。表によると七番になるのかな」

 保津水は席次表と遼の得点を照らし合わせていたが、五人の点数を消し去り、彼の席次をいとも容易に確定してしまった。

「理科と社会に新規科目が入っていた割りには、随分、頑張ったじゃない」

 顔をのぞき込んで、超余裕の褒め言葉であった。遼は何と答えるべきか悩んでしまったが、

「ありがとう」

 皮肉たっぷりに頭を下げた。

「うん、うん」

 保津水はまったく応えておらず、遼の嫌味を軽く受け流してしまった。

「草野、すごいな! 七番か‥‥‥。前の学校では何番やったんや?」

 前席の南田が、壁にもたれた体を遼に向け余計な興味を示す。

「忘れた」

 遼は小さくつぶやいてから、ニキビ満開のクラスメートにアゴをしゃくった。前を向けという合図だ。先程からQちゃんがチラチラこちらに視線を送り、おしゃべり注意の機会をうかがっていた。

「これこれ。成績表は早よぅ仕舞い込んでや。ホームルームの時間なんやで。成績の話をする時間と違うさかいな。四時限目でお腹が空いてるやろけど、身入れて今日の議題―――高校生活活性化―――に取り組んでや」

 案の定、綺麗な高音の注意が飛んできた。

「はーい」

 南田は首をすくめ、頭をかきながら体を正面に向けた。

 メッテルニッヒの名言を拝借すれば、〈ホームルームは踊る、されど議題はまったく形を成さず〉で、クラスの喧騒を鎮めたのはホームルーム終了チャイムであった。待ちに待った安息とエネルギー注入の、楽しいランチタイムタイム到来なのだ。

「あー! 腹減ったー。もー、ペコペコじゃー! なにが高校生活活性化なのよ。胃がこんなに活性化して、グウグウ泣いておるのに」

 例のごとく保津水のところへ石上がやって来て、二人でぺチャクチャ喋りながら食べ始める。彼女らの真横の、遼の机は南田との共同食卓になっていた。彼も食堂とおさらばし、弁当派に鞍替えだった。

 南田は当クラスでの遼の最初のシンパ(シンパサイザー)であった。一年五組の男子は一学期までパーフェクトに仲西一派に抑えられ、分派行動をとる者は誰もいなかった。それほど仲西幸治の統率力が強く、カリスマ性を保持していたのだ。ところが二学期に遼が転校してきた。そしてこの転校生はなかなか強そうだ、ひょっとすると仲西といい勝負をするのではないか。そんなムードが、仲西一派に与さぬ男子の間に漂い始めた。こうなると、遼と仲西は好むと好まざるとにかかわらず、争わねばならなかった。

 保津水は不安でしかたなかった。無意味な争いは避けてほしかったのに、とうとう決着をつけるときが来てしまった。

 中間テストが終わってしばらくすると、仲西はクラブ仲間の辻川と教室の後ろで拳法の組手を繰り広げるようになった。演武発表と対抗試合対策。額面通り受け取るのはクラスに誰もおらず、遼に対する示威を兼ねるのは明らかだった。

「ヤー!」

「トー!」

 昼食後の団らん時に、大きな気合をかけて二人で激しい組手を展開する。当人たちは悦に入っているが安息を決め込む向きには迷惑千万で、女子は畏怖を持って眺めていた。当然の事ながら、一番不快なのは示威をかけられている遼で、すこぶる気分が悪かった。彼らを無視して、南田や石上それに保津水と他愛ない会話に花を咲かすが、大きな気合いと攻防は嫌が応でも四人の会話を途切れさす。その都度、保津水は不安を眉ににじませるのだった。

 今日も四人が和やかに食後の談笑を楽しんでいると、食堂から戻った仲西と辻川は、後ろの机を壁際へずらして動きやすい空間を作り出す。遼は、またか、という顔で二人を一瞥すると、苦笑しながら石上に視線を戻したが、口元の不快は容易に消えなかった。

「ヤー!」

「トゥー!」

 仲西の鋭い気合とほぼ同時だった。

〈バシー!〉

 大きな打撃音が教室に鳴り響いた。ハンマーさながらの回し蹴りが辻川の肩に決まったのだ。あまりの激しさに、辻川はこらえ切れずにドドーッと倒れ込んだが、その先が悪かった。保津水の背中を百キロの巨漢が直撃したのだ。

「キャー!」

 保津水の悲鳴が、ガン! と机が顔を打つ音で途切れた。

「大丈夫か!」

 咄嗟に腕を伸ばし、遼は倒れ落ちる保津水を抱きかかえた。これで事なきを得れば良かったが、抱き止めた保津水の唇に血がにじんでいた。

「きっさまー!」

 保津水の血を見て遼は逆上してしまった。

「俺の! ―――」

 叫びながら立ち上がったが、次の言葉を呑んだ。呑んだ言葉の代わりに、

「タァー!」

 鋭い気合いが飛んだ。と同時に、両手を保津水の机に乗せ、辻川の顔面に飛び蹴りを放った。

「うわぁー!」

 ドドドドーッと机を薙ぎ倒し、廊下側の壁際まで辻川は吹っ飛んでしまった。

「お前、なにすんねん!」

 親友を蹴り倒され、仲西も黙っていられなかった。言うが早いか、辻川に見舞った回し蹴りを遼に振ってきた。

「よしっ!」

立ち上がった遼の取る行動はたった一つ。身を沈め、回し蹴りを逸らして相手の顔面に裏拳を放つ。完璧な勝利方程式だったのに、二人のいさかいを止めようと保津水も立ち上がっていた。

 ―――どうしよう!

 自分が避ければ、保津水が食ってしまう。一瞬の迷いであったが、遼の防禦を中途半端なものにしてしまった。右手で保津水を突き放し、左前腕で顔面を守ったが、不十分な受けであることは否めなかった。

〈バシー!〉

 遼の制服に鋭い音をたて、仲西の回し蹴りが食い込んだ。

「うーん! ‥‥‥」

 左肩から首、後頭部にかけ、ズシーン! と激痛が走った。体を海老のように丸めて、今度は遼が倒れた。軽い脳震盪を起こしたのだ。

「遼クン! 遼クン!」

 保津水が遼にかぶさって何度も叫んでいたが、遼の聴覚は機能していなかった。

「‥‥‥ねぇ、お願い―――。起きて、ねぇ」

 彼女の声が涙まじりになった頃から、ようやく遼の耳にも届くようになった。

「‥‥‥」

 遼はメラメラと燃え上がる闘志を必死に抑えていた。いま立つのはまずい。おそらく足元がおぼつかないだろう。

 ―――もう少し待て、待つんだ!

 歯を食いしばって、遼は逸(はや)る心を抑えていた。いったい何年空手をしてきたんだ。幼少時より格闘の基本をたたき込まれてきたというのに、あんな回し蹴り一つ捌き切れなかっただなんて‥‥‥。

「ねぇ、お願い。―――遼クン、起きて。ねぇ、お願いだから」

 保津水は遼の背中を撫でながら泣きじゃくった。

「―――大丈夫だ」

 彼女を見上げて小さく頷いた。そろそろ立ち上がらねばならなかった。石上がQちゃんを呼びに走ったので、倒す時間を考えると間もなくタイムリミットになる。

「むん!」

 気合いとともに、遼はバネのようにしなやかに跳ね起きた。まだ少し頭がふらつくが、攻撃に支障をきたすほどのことはなかった。

「ねぇ、二人とも止めて」

 泣きながら二人を見回し、保津水は止めようとする。

「―――さあ、下がって」

 もはや保津水の出る幕ではなかった。遼は彼女の肩に手をかけ小さく首を振って、椅子に座るよう促した。

「いくぞ!」

 振り向いて、再び仲西と対峙した遼は右前、つまり右足を前に出す構えをとった。手は体のバランスをとるために、少し開き気味に垂らしている。受けをまったく考えない、攻撃だけの時の構えだ。利き足と利き腕で瞬時に決着をつけるとき、父はよくこの構えをとる。

「おう!」

 対する仲西は再び右の回し蹴りを飛ばすつもりだろう、左前になっていた。そして回し蹴りの射程に遼を捕えるべく、左足に体重を移そうとした一瞬、防禦のスキが生じてしまった。

「タァー!」

 遼の体は相手の動きに反射的に呼応した。後ろ向きに左足を送って、右のかかとを仲西の左大腿部に突き刺した。ドスッ! と鈍い音とともに、遼の腰に右のかかとを通し確かな手応えが伝わる。そうとう効いたはずだ。

「うーん!」

 仲西の口から思わずうめき声が漏れる。激しい痛みを右足で踏ん張り、体勢を立て直そうとする前に、遼の右裏拳が顎を突いていた。

 芸術的とも言える技の切れと的確な攻撃に、仲西は崩れ落ちるしかなかったが、遼はすんでのところで支え上げた。すでに勝負はついていた。これ以上やると恨みが残ってしまう。右の裏拳を少し弱めたのも同じ配慮からだった。

 足元の定かでない仲西を椅子に座らせ、遼は隣りの辻川に向き直った。

「済まなかった。カッとなってしまって」

 彼の肩に両手を置いて素直に詫びた。

「いや、俺らも悪かったんや、おあいこや。―――草野、これからは仲良うしようや」

 辻川ははにかみながら、右手を差し出した。遼と仲西との実力差は歴然であった。百回、いや千回戦ってもすべて遼が勝利を収めるだろう。それほどの実力差で、叩きのめそうと思えば、いとも容易に出来たのに、遼はしなかった。辻川はいたく感銘を受けたのだった。


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