第20話 青嵐の里

 夏は長くて、いつも辛い季節だった。練習試合を含め、試合中へとへとに疲れ、一滴の水のために、命と家族と、それから、 ‥‥‥あと三つほどを除いて何を捨ててもいいと思うことが何度あっただろうか。そんなときでも容赦なく、汗が体から、まるで滝のように流れ出していくのだった。サッカーに明け暮れた小二から中三までの八年間、最後の一年を除いて、遼は夏が嫌いで堪らなかった。最後の年もこれまでと同じ感覚を持つはずだったのに、可奈子が変えてしまった。遼の内で、夏は最高の季節に変わってしまったのだ。

 今年の夏はどうであろう。可奈子は亡くなってしまったが、マドンナがいた。プラトニックとはいい難くて、突き詰めればいつも彼女の裸体に行き着くが、少なくとも生身の女体に触れることはなかった。―――が、去年と同じで、遼にはこれまでとまったく違った夏の印象であった。信じられないくらい短く感じられてしまうのだ。あれほど充実した日々だったので長く感じられても良いはずなのに、映像の一コマ一コマの流れが速すぎて、夏の思い出がリールから放たれたフィルムのように飛び去ってしまうのだった。

 夏の隣の季節―――秋も、今年の夏に感染してしまったのであろうか。まるで矢のように過ぎ去って行く。北高の生徒になったのがつい昨日のことのように感じられるのに、気がつけば、すでに半月余りが経過していた。短く感じられるのは充実の裏返し。そう考えると、北高に溶け込み、北高の生徒になり切っている自分が、少し誇らしい気がしないでもなかった。

 北高のカリキュラムは理科と社会が若干、清嵐と異なるが、二学期の学習に支障をきたすことはなかった。それに分からないところがあれば、隣席の保津水が世話女房さながらお節介を焼いてくれた。

「ね、草野クン。一学期はここまでだったから、二学期の中間テストはここから始まるの。前の高校じゃ、化学なかったんだから、一学期にしたとこ、ノート写させてあげようか」

 授業中にまで身を乗り出す始末で、遼は周りの視線を気にして少々閉口気味だった。授業中これほど横を向き授業科目に集中しない生徒も珍しかったが、驚かされたのは彼女の成績だった。二学期が始まって間も無くの実力テストは、学年トップだった。夏休みの宿題ベースの問題であったが、英語は満点。数学、国語も九十近い点をとられると、秋本保津水を見直さないわけに行かなかった。

 彼女は遼の点が気になるらしく、答案を返してもらう度に、

「ねぇねぇ。何点だった?」

 と、身を乗り出してくる。答えずに、遼が黙って机に答案を広げると、

「きゃあ、九十三点もあるの! 草野クンて賢いんだ」

 保津水は大声で遼の点をクラス中にバラしてしまう。転入対策の成果もあって、英・数・国は満足の行く点が取れたからだが、保津水はすべてにわたり遼を超えていた。これで、「草野クンて賢いんだ」もないと思うが、なぜか憎めなかった。あっけらかんと、邪気の欠片も窺えないのだ。

 保津水の隣に座ったために、転校生の隠された能力、という大層なものでないが、シークレットベールが剥がされ白日の下に晒されてしまった。単なるハンサム系に過ぎない転校生。大方の予測を裏切り、三科目とはいえナンバーワンと張り合う実力を証明したのだ。遼の前席の南田などは、たちまち〈ニューヒーロー〉の信奉者になってしまった。体育の授業で、運動能力の非凡さは皆の知るところであった。小学校低学年の時から、血のにじむトレーニングで鍛え上げられた体だった。染み込んだ能力は隠しようがなかったのだ。

 遼の信奉者が増え、能力評価の上昇に比例するがごとく、保津水の二列横の生徒、仲西幸治との対決危機が高まっていく。両雄並び立たず。遼は運動面でことごとく、仲西の比較の対象にされてしまうのだった。

 男子の間では火種が生まれ、くすぶり続ける五組であるが、女子は秋本保津水を軸に完全にまとまっていた。無邪気で明るい性格ゆえか、保津水に敵はおらず、彼女は教師にも生徒にも好かれていた。叱り方も寛大だし、注がれる視線もなごやかなのだ。この秋本保津水の無二の親友は、石上和代。一風変わった女生徒だった。二人は身長もスタイルもほぼ互角、フェイスだけが少々違っていた。石上も可愛い系であるが、保津水と較べられれば何とも分が悪い。遼の知る限り、彼女と互角に張り合えるのは、亡くなった大林可奈子ただ一人だった。

 さて、保津水の親友・石上和代に話を戻すと、彼女はしょっちゅう保津水のところへ顔を出す。今日も四時限目のリーダーが終わると保津水の席へやって来て、彼女と向き合って座る。占拠された、本来の椅子の主は浜中武司。ノーブルな顔立ちと上品な仕草から、〈ジェントルマン浜武〉の異名を持つが、彼は弁当派の二人と違って食堂派で、この時間帯は何時も不在だった。ところで石上が保津水と向き合って座るということは、椅子の背もたれが石上のお腹の前にあることを意味する。回りくどい表現は止めることにして単刀直入に述べると、石上は椅子に股がっているのだ。

「よっこらしょ!」

 座り心地が好くないのか、石上はスカートの裾をヒラヒラさせて椅子に座り直す。すこぶる行儀の悪い生徒で、ジェントルマン浜武が目撃すれば卒倒場面が訪れるところであるが、まさに知らぬが仏だった。ただ、いずれにしても遼の目と鼻の先の出来事で、彼の視界には完全に収まっていて、嫌でも形の良い白いふとももが目に入ってしまう。ランチボックスを広げながら、遼が苦笑いを浮かべ石上の顔を見ると、彼女もニヤッと笑い返してくる。笑顔の返しが、いったい何を意味するのかは恐らく当の石上にも不明と思われるが、ユーモアのセンスは遼と一部共有できるところがあって以前から気に入っていた。

「ちょっと、やめてよ! お和。‥‥‥もう! ハレンチなんだから」

 親友の余りの行儀の無さと、遼との笑顔の交換に不安を覚えたのか、保津水が口をとがらせる。

「保津、やいてんの?」

 ニヤッと、石上の鋭い指摘だった。

「ちょっと、変なこと言わないでよ。何で私がやく必要あんのよ」

「だって私の綺麗なふともも、草野君がじっと見てるから」

 注目度満点発言で、教室居残り組は皆、一斉に遼を振り向く。

 ―――聞き捨てならんことを言う。

 と思ったが、目に入ったことは確かだし、楽しませてもらったことも事実だった。それに、保津水と同じで憎めないキャラの持ち主であった。遼は苦笑しながら弁当をパクつくしかなかった。

「もぅ、また変なことを言う。草野クンはお和のふとももなんて見てないじゃない」

 ありがたいことに、保津水は遼をかばってくれるのだ。

「はいはい。分かりましたよ。保津の草野君は私のバッチイふとももなんかに興味ないもんね。でも、あんまし授業中イチャイチャすると、仲西君が焼きもち焼くわよ」

 親友の抗議など糠(ぬか)に釘(くぎ)。石上はパンと牛乳パックを保津水の机に広げ出す。

「もう、本当にやめてよ。何で仲西君が出てくるのよ。私たち何でもないんだから。―――本当よ、草野クン」

 最後は石上でなく、遼の方を向いて念を押した。仲西は保津水を好いている、五組の女子の素直な判断なのであろう。面白おかしく二人の仲が取り沙汰されていたところへ、転校生が割り込んできた。石上の口調から、遼は女子たちのゴシップをそのように理解したのだった。

「でも、みんなの噂よ。もうすぐ草野君と仲西君が喧嘩するって。どっちが勝つか賭けをしている男子もいるくらいだから」

 当事者の一人が間近にいるのに、石上は物騒な話題を持ち出す。

「ね、お和! ちょっと待ってよ。どうして草野クンと仲西君が喧嘩しなきゃいけないのよ。おかしなこと言うと、本当に怒るわよ!」

 保津水は真剣な顔で親友を睨みつけた。こういう表情の保津水は反論を寄せつけない怖さがあり、滅多に見せないが、笑顔の彼女より余程チャーミングで、遼は荒々しく抱きしめたくなる。

「‥‥‥ごめん」

 石上も度が過ぎたと思ったのか、素直に謝ったが、ここまでくると二人の力関係が如実に分かってしまう。

「ね、草野クン、嘘よ。お和は冗談言ってんだから。仲西君と喧嘩しないでね。彼、拳法やってて、すっごく強いんだから。喧嘩なんかしたらだめよ」

 遼は何故、保津水が急に怖い顔になったのか意外な感がしたが、彼の身を案じてのことだった。

 ―――そんなに強いということか。

 仲西のあの自信満々な態度は、拳法が原因していたのだ。遼は、自信あり気に自分を睨みつけるライバルを思い浮かべた。背は遼と同じくらいだが、骨格は遼よりたくましくて見た目に頑丈感が漂う。腕力も相当なもので、休み時間によく二人を相手に腕相撲をしていた。体重は恐らく、遼より二十キロ近く重いだろうが肥えた印象はなく精悍な感じがする。

 ―――なかなか手強そうだが‥‥‥。

 勝てない相手ではない。控え目でなく正直にいえば、やれば勝つ自信はあった。まず体力は互角か、自分のほうが若干上回るだろう。敏捷性は絶対負けない。喧嘩の場数に至っては較べるまでもなくこちらが上で、乱闘で鍛えられ筋金入りだった。

 問題は拳法の技とレベルであるが、父によると、組手形式の練習主体で、見た目の美しさを追求しやすい。破壊力の追求はその分、おろそかになる。技を見せ、流れを重視することから、最初の攻撃による決めより、二本または三本目のトドメがいきおい多くなってしまう。蹴りも見栄えのする顔面への回し蹴り重視とのことだった。

 遼が幼少時より基本をたたき込まれた父の空手は、見栄えのしない大腿部への回し蹴り又はかかと蹴りが第一攻撃。顔面への拳によるトドメが第二で、場合によっては第一を省き、第二がそれに代わる。剣道より居合いに近いように思われ、シンプルで分かりやすく、それでいて奥が深かった。

 ―――何とかなりそうだな。

 仲西の使う技の分析から、遼はあらかたの対策を立ててしまった。備えあれば憂いなし、なのだ。

「うん、分かった。喧嘩はしないよ」

 遼は保津水に笑顔を返し、彼女の懸念を払拭してやった。自分から仕掛けるつもりは毛頭なく、争いは極力避けたかった。父の教えは、意味のない無闇な争いは一切避ける。自分と、護るべき者を守るためにのみ体を鍛える。それ以外の効用があるとすれば、格闘の鍛錬を通して肉体の様々な法則を知りうること。幼少時から叩き込まれた父の格闘技に対する信念で、遼もこれまで自分から仕掛けたことは一度もなく、いつも受身だった。それに半年後の転校、北高はそのための踏み台。否定したくても否定できない事実で、当然、遼には負い目がある。我慢が補償的に働き、北高への不義理が僅かなりとも解消されるのであれば我慢を重ねよう。そんな微妙な心理に乗っかった決意表明であったが、保津水は安心したのか、遼にも石上にも仲直りの八重歯と笑くぼを返したのだった。

 このように気がかりなことがなくはなかったが、心を煩わすというほどのものでなく、遼は北高での生活を心底エンジョイしていた。日が経つに連れ、北高の良さが分かって来たのだ。生徒たちの自由と自主性を重んずる校風。自由で伸び伸びした中にも、進取の気性に富む生徒たち。観光地の間近にありながら、静かで、気品漂う校舎に広いグラウンド。数え上げれば切りがないが、忘れてならないのは女子の存在であった。清嵐も良かったが、北高に来て、北川が共学校を羨む気持ちがよく分かったのだった。

 自宅からのバイク通学も、安威川渓谷・竹林回廊・愛宕山中それに保津峡と、自然の恵みを満喫できて、心弾むわくわくタイムであった。毎日がツーリング気分なのだ。ごくまれにハイカーと出会うが、山深い林道が通学路で、まさか大阪から京都へ通う生徒とは誰も想像できまい。

 遼は朝七時二十分に家を出る。足はもちろん父のかつての愛車、三半のドリーム。ホンダの四気筒シリーズでは最小モデルで、エンジンは驚くほど静かでスムーズなのだ。走行距離は五万キロ近かったが、オーバーホールのおかげですこぶる調子が上がり、年代物とは思えぬ馬力であった。

 通学の途中、遼は竹林回廊を抜けた愛宕山中で、よくドリームを止めた。渓流のせせらぎや小鳥たちの声に耳を奪われると、エンジンを切ってじっとたたずむ。毎日、同じ時刻に駆けていても、林道はいつも新鮮だった。違った顔で孤独なライダーを迎えてくれるのだ。満員電車で通う日々と違って、人と出会うことは皆無といって良いが、代わりに野兎や小鳥、時折、鹿さえも少し驚いたはにかんだ仕草で遼を迎えてくれるのだった。

 下六丁峠から一の鳥居、そして清滝街道へ入ると、まもなくツーリングの終点、嵐山である。遼は駅前のバイク預かりで手際よく着替えを済ませ、北高の生徒に〈変身〉であった。

 下校時は来るとき以上に、細心の注意が必要だった。皆と一緒に帰ったりすると、容易にバイク通学がバレてしまうのだ。遼は図書室利用で調整をはかって、下校時間をずらすことに成功した。

 今日も六時限目の数Ⅰが終わると図書室へやってきて、高雄山を望む窓際の席で数Aと数Ⅰの問題を解いていると、嗅ぎ慣れた甘い香りが鼻腔に漂う。土・日を除く毎日、遼はこの匂いを間近で嗅いでいる。

「こほん」

 香りの主は軽い咳払いの後、椅子を引いて遼の隣に腰を下ろすと、カバンから問題集を取り出した。

 ―――そういえば、昨日も図書室で勉強していたな‥‥‥。

 左横に座った保津水に目をやると、ニッコリと微笑みが返ってくる。こぼれるような笑顔から、文字通り八重歯がこぼれ、えくぼが何とも可愛い。掃除当番だったので三十分近い遅れは予測範囲内であるが、何故こうも連日、図書室通いなのか。遼には保津水の意図がまったく不明だった。

 ―――俺と張り合うつもりなのかな?

 いずれにしても帰りは別々にしないとまずい。保津水と一緒では、バイク預かりの店へ入れなくなってしまう。彼女は遼も保津峡駅から山陰本線で通学していると信じているが、信じてやまないという好ましいレベルではなく、最近、少しおかしいと感じ始めているようなのだ。

「電車で一度も会わないわねぇ。一体、何時の電車に乗ってるの?」

 などと、遼はうるさく尋ねられたりする。昨日は駅の近くでうまく撒いて事なきを得たが、連日、綱渡りのような危険は御免で、遼は閉館前の四時五十分に図書室を出ることにした。

「さよなら」

 保津水は立ち上がった遼に小さく笑顔の挨拶を送り、再び俯いて英語の参考書を読み始めた。今日はすんなりとバイク置場へ入れてもらえそうである。図書室を出て、校門手前の松の大木下で、遼はほっと安堵の溜め息を吐いたのだった。涼しい風に吹かれ、川のせせらぎとヒグラシの声に送られながら、ゆっくりとなだらかな坂を下っていると、

「草野クン」

 突然、不意を突かれ、遼は驚いて立ち止まった。振り向くと、図書室にいるはずの保津水が、小首をかしげ例の可愛い顔で笑っていた。

「何で! まだ勉強してたんじゃなかったの?」

「もう終わったの。一緒に帰ろうと思って」

 そう言うと、保津水は大きなバッグを右肩にかついで歩き出す。

 ―――まずいな‥‥‥。

 また昨日の再現かと、遼はほとほと困ってしまう。足も遅れがちで自然と距離が開くが、保津水は立ち止まって待っていた。

「―――私。昨日、見ちゃったの」

 仕方なく遼が近づくと、保津水は嬉しそうに笑くぼをのぞかせた。

「え、何を? ‥‥‥」

 脈絡なしの切り出しに、遼はきょとんとあっけにとられた。

「―――あのねぇ。草野クンがチャリ預かりから、バイクで出てくるとこをバッチリと」

 辺りに誰もいないのに、保津水は遼に近づき耳元で声を落とした。

 ―――あーあ! やられた‥‥‥。

 昨日、彼女をうまく撒(ま)いたつもりだったが、キッチリつけられていたのだ。何故もう少し慎重に、と悔やんでも、完全に後の祭り。

「禁じられてんだけどなー、バイク通学。でも気持ち、分かるのよねー」

 意味深な言い回しに、どう対処すべきか遼が迷っていると、

「草野クンに、お願いがあるんだけどなー」

 なよなよと敵側から歩み寄ってきた。一見控えめだが、油断は出来なかった。クラスの女子に〈スッポンのお保津〉と呼ばれていて、掴んだ獲物は簡単には離さなかった。

「‥‥‥お願いというのは?」

 弱みを握られ、お願いとやらを聞くしかなかった。

「ほら。私んとこも、駅まで随分あるのよねー。分かってるでしょ。そいでもって、すっごい坂だし。これも分かってるでしょ。おまけに、変なオジサンも時々、出没するのよねー」

 保津水の話は遠回しで分かりにくい。が、彼女の仕草と大きなスポーツバッグは十分な注釈になる。朝から大きなバッグが気になっていた。動かす度に床にあたって、コンコンと耳障りだったが、やはりバッグの中身はヘルメットだったのだ。

 ―――くそっ、乗せて帰れというのか!

 ようやく敵の意図が掴めたが、遼に切り札はなく、保津水の要求を呑むしかなかった。

「分かったよ。乗せて帰ればいいんだな」

 やけくそに近い心境だったが、保津水という裏切ることのない共犯者に、遼は妙な安堵感が湧いたのも事実だった。

「あのねー」

 保津水はまだ言い残したことがあったのだ。

「うん?」

「あのねー、帰りだけだと困るんだけど。行きしな駅まで歩いて行かなきゃダメだから。遠いのよねー、駅まで。知ってるでしょ、水尾の住民だったら」

「それじゃ、来るときも乗せろっていうのか!?」

 共犯者のダメ押しに、遼は目をむいてしまった。

「うん」

 素直にうなずいてから、

「だって草野クンとこと私んとこ、あんまり遠くないから」

 ついででしょ、の代わりに、上目遣いに笑くぼがのぞいた。

 ―――遠いんだよ、とっても!

 反論したかったが、遼は口をつぐんだ。大阪からの違反通学は、バイクとは比較にならない段違いの違反なのだ。

「でも、朝誘いに行ったりすると、お母さんにバイク通学がバレてしまうよ」

「それは大丈夫。母は京都市内の大学病院に勤めているから、朝が早いの。だから分からないわ。それに分かっても、彼女は私に借りがあるから、反対しないわ」

 遼を見上げる瞳が寂しかった。我が家と違う家庭環境が脳裏に浮かび、遼の顔も一瞬曇るが、すぐ平静を装ってしまった。踏み込まないのがエチケット。照子の口癖で、プライバシーに対する草野家の不文律だった。

「‥‥‥分かったよ」

 遼が苦笑いを返すと、共犯者間にようやく交渉が成立したのだった。

「でも、朝誘いに行く時間は正確じゃないよ。それと制服がばれないよう、ちゃんと着替えること」

 失地回復の、上から目線の条件提示に、

「分かったわ。今日も着替え持ってきてるから」

 保津水は素直にうなずいた。駅裏手の石上宅へ駆け込むと、十五分もせずに出てきたが、GパンにブルーのTシャツ、サングラスをかけ、シャツとそろいの帽子も目深かだった。

 ―――キッチリ乗って帰るつもりだったんじゃないか。

 あまりの準備の良さに、遼は呆れてしまった。

「ごめん。待ったでしょ」

 バス停近くで待つ遼に、保津水は小走りで駆けてくる。スラリとした長身に豊かなバスト。高一とは思えぬプロポーションだった。

「さあ、乗れよ」

 ドリームに股がったまま、ヘルメットを着け終えた保津水に促す。

「‥‥‥うん」

 うなずいたものの、保津水はたじろいでいる。強引に約束を取りつけたが、バイクに乗るのは初めてだった。ヘルメットも従兄の借り物で、後部から男子を抱いたことなど一度もなかったのだ。

「さあ」

 遼に再度促されると、

「うん、分かった」

 保津水は遼の肩に手をかけ、ぎこちない仕草で右足をシートに滑らせ腰を下ろした。ステップの位置を確認し、遼の背中にもたれて彼の胴に腕を回せば出発準備の完了だった。

 ―――わおっ!

 もう少しで声を上げてしまうところだったが、遼はかろうじて抑えた。柔らかい豊かな胸が、彼の背中を押しているのだ。これはまずい! と思うが、今更どうなるわけでなく、発車するしかなかった。勢いよくスロットルを回すと、脇目も振らず、遼は駅前を走り抜けたのだった。

 初めて乗るバイクに要領を得ず不安なのか、保津水は遼を抱く手に力を入れて体を密着させてくる。当然のことであるが、ライダーの注意は前方になく、やわらかい胸と接する背中にロックオンされていた。発車直後から可奈子の裸体が脳裏を過ぎっていたが、一の鳥居に差しかかったときは保津水の裸体に代わっていた。

 ―――マドンナ! ‥‥‥ええい、〈邪念・妄想・没・没・没〉!

 遼は体を震わせ、怒濤のごとく湧き上がる欲望を鎮めていたが、下六丁峠の人気のない木陰でドリームのブレーキを踏んだ。もう限界だった。僅か十分余りの時間であったのに、驚くほど長く感じられ、狂おしいほど甘く切ない時を過ごした。保津水も同じ感覚を共有していたのであろう、遼がドリームのエンジンを切っても、彼の体を抱いたまま離れなかった。

「少し休もう。‥‥‥さあ」

 遼は自分の体に回された、熱く燃えるような手を軽くたたいた。

「あっ! ―――うん」

 急にわれに返ると、保津水はあわてて遼から離れた。

「‥‥‥まずいよ。やっぱり」

 ヘルメットを脱いで保津水に提案する。このままだと、自分は彼女を抱いてしまうだろう。マドンナがいるのに保津水を抱くのは、欲望のはけ口を求める以外の何ものでもなかった。もちろん彼女自身、そんな地位に甘んじるはずがなかった。結局、彼女を抱くことはマドンナを失うことを意味するのだ。それは困る‥‥‥。追いつめられた、こんなぎりぎりの選択が保津水を見つめる遼の瞳に現われていた。

「何がまずいの?」

 頬を染めて遼を見上げる顔には、乙女の恥じらいがあった。上気した色白の顔はセクシーで、とても綺麗だった。この顔、‥‥‥この体、遼は何とも悩ましい。

「いや、キミを乗せて通学することだよ」 

 保津水を見つめながら、遼は口ごもってしまう。

「どうして? ―――ねぇ、何でよう!」

「こんなことをしていたら‥‥‥」

 とんでもないことが起こる、と言おうとして、遼は呑み込んだ。〈スッポンのお保津〉が簡単に引き下がる道理がなかった。ここは自分が自制して、彼女と通学仲間を決め込むしかない。結論らしきものをひねり出したが、当初の約束そのままで、自制というあやふやな文字が付け足されただけだった。

「分かった。分かったよ」

 苦笑いを浮かべ保津水をなだめると、彼女もニッコリと愛嬌満点笑顔に変わった。

 しばらくしてドリームを走らせた遼は、落ち着きを取り戻していた。ふわふわと地に足が着かない心の迷いは消えていた。

「そこよ。そこを左に折れて」

 水尾の集落が近づいてくると、保津水は遼から体を離しヘルメット越しに指示を送る。彼女も平静に戻っていた。

 指示に従い、ドリームを三メートル幅の細い道へ入れると、両側の二軒の家で奥が途切れていた。

「そこだから」

 ドリームを止めた遼に、保津水が左手の小振りの家を指さした。右手は大きな二階建て居宅で、五十過ぎの姉さん被りの女性が、広い庭の西隅で農具を片づけていた。

「保津ちゃん、お帰り。ボーイフレンド?」

 二人を迎え、女性は意味ありげに笑った。

「おばちゃん、ただいま。こちらクラスメートの草野クン」

 遼が挨拶する前に保津水が紹介してしまった。ヘルメットのまま遼がぺコンと頭を下げると、彼女も日焼け顔をいっそう崩した。

「おばちゃん、お母さんに内緒にしててね。絶対よ」

「うん分かった、分かった。絶対言わへんから」

 よほど親しいのか、家族のような口調だった。

「さあ、入って」

 遼がドリームのキャリヤーからスクールバッグを降ろすと、保津水が南棟の玄関を開けて促した。敷地の広さは八十坪ほどだろうか。三十坪あまりの庭を残し、平屋が建っていた。家の南には延々と柚子畑が続き、西隣に数本、柿の木が植わっていた。都会では程々の敷地であるが、三百坪あまりある、向かいの居宅に較べると小振りの観は否めない。が、決して見劣りはせず、太い柱や重厚な造りは、一目でこの家がかつて母屋だったことを偲ばせていた。

 遼が玄関へ入ろうとすると、ガラスの引き戸の横にプラスチック製の表札がかかっていて、秋本保津水の右に、山中京子と書かれていた。

「あ、これ。母なの」

 チラリと一瞥しただけなのに、保津水は目敏い。意にも介さず、遼に表札の名前を解説したのだった。

 玄関を上がり、東西に走る広い廊下を歩くと、保津水は右奥のドアを開けた。十畳あまりの部屋は一目見て保津水の部屋と分かる装いだった。正面はガラスの引き戸になっていて、その奥に縁側が続いていた。縁側にはサッシがはめ込まれ、レースのカーテン越しに稲の刈られた田と色づき始めた柿畑が霞んでいた。明るく清潔な部屋の東隅にベッドが置かれ、その横にドレッサーとカラフルな整理ダンス。部屋の中央には小さなソファーとテーブルが置いてあった。勉強に疲れたとき座って読むのだろう、ファッション雑誌や単行本がテーブルに載っていた。

 西隅に目をやると、高い書棚と壁に挟まれて机が隠れていた。遼は壁の張り紙を見て驚いてしまった。〈目指せ!〉の下に、東京にある有名私学医学部が書かれてあった。

 洛西の山深い里に暮らす女生徒は、侮れない存在であった。大きな目標を持って、毎日この机に向かっているのだろう。保津水の部屋へ入って、遼は体が震えしびれるような感覚を味わってしまった。東京から遠く離れたこんな深い山里で、じっと自分の未来を見据え、黙々と努力している乙女がいる。つらく苦しい毎日であろうが、彼女はそんな素振りをおくびにも出さなかった。

 ―――負けたな‥‥‥。

 努力の質も量も、保津水の方が自分より数段上だと認めざるを得なかった。

 ―――だが必ず追い抜いてやる!

 湧き上がる闘志に、遼はギュッとこぶしを握った。

「いやだー! 見ないでよ」

 張り紙を見つめる遼の目を、保津水はあわてて目隠しする。その拍子に、柔らかい豊かな胸が遼の右腕を押す。何とも名状しがたい感覚で、荒々しくむさぼりつきたい欲望に襲われてしまう。二人きりの部屋で、ベッドまであるのだ。

 ―――危ない、危ない。

 可奈子とのベッドシーンまで脳裏をよぎり、遼は慌てて、

「俺、帰るから。家も分かったことだし」

 逃げるようにきびすを返すが、

「ちょっと待ってよ」

 保津水は遼の右腕を両手で抱いて離さなかった。

「ね。麦茶ぐらい飲んでって」

「‥‥‥うん」

 遼が渋々うなずくと、

「そいじゃ、座って待ってて。すぐ戻ってくるから、ちゃんと待っててね」

 彼をソファーに座らせ念を押すと、保津水はダイニングへ小走りに駆けていった。

 その日、遼は保津水とアイスティーを飲みながらの、とりとめのない会話から、彼女の身上が耳に入ってきて、というより聞いてほしかったのだろう、さり気なく聞かされてしまった。父は東京で医者をしていること。小学校六年のとき、両親は離婚して―――といっても、母の一方的な宣告らしいが、母の実家のここへ移ってきたこと。母は薬剤師として大学病院へ勤務していること。彼女らがここへ越してきてまず祖母が亡くなり、その一年後に祖父が亡くなったこと。さきほど庭にいた女性は、母の兄の妻であること。彼らには息子が一人いるが、名古屋の大学へ入って下宿していること、などだった。

「父は私に東京に残ってくれって、泣いて頼んだわ。でも私は母に付いてきたの。母が可哀相だったし、それに父を許せなかったの」

 保津水はティーグラスをいじりながら、しんみりと述べてから、

「分かったでしょ。母に貸しがあるのが。だから私のすることに反対しないわ」

 遼を見上げ、ことさら明るく付け加えた。

「―――ねぇ、そんな暗い顔しないでよ。私は水尾へ帰って来て良かったって思ってるんだから。四季の移り変わりが鮮やかで、稲穂が揺れる田や柿畑、それにこんな広々とした柚子畑。東京のマンションでは想像も出来なかったもの。ね、だから明るく笑って」

「‥‥‥うん」

 遼が黙って花柄のグラスに視線を落としていると、

「ね、草野クン。〈青嵐〉という言葉を知ってる? 〈青あらし〉と呼ぶ人もいて、私はどちらかというと〈青あらし〉の方が好きなんだけど」

「‥‥‥いや」

 元東京都知事もメンバーだった〈青嵐会〉という政治家グループが随分以前あったように思うが、いずれにしても遼は青嵐の意味を知らなかった。

「青葉の茂る頃に吹く強い風を青嵐というんですって。辞書で引くと、俳句や和歌の夏の季語って書いてあったわ。この水尾にも決まって吹くのよ。祖母が亡くなった翌年、強い青嵐が吹いたの。縁側に腰掛けて祖父と並んで祖母の話をしていたとき、疾風が庭を駆け抜けて行ったの。『保津。この青嵐に乗って、お祖母ちゃんが行ってしもうたんやで。お前のことが心配なんで、きっと今まで家に居てくれたんや』、中一の一学期に初めて、祖父の言葉で青嵐を知ったの。その翌年、祖父も青嵐に乗って、祖母のところへ行ってしまった‥‥‥。青嵐の吹く季節に亡くなり、葬儀の後、すぐ強い青嵐が吹いたから。ああ、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんとこへ行っちゃったんだなって。だから青嵐て、私は余り好きじゃなかったの。二年前も青嵐が吹いたとき、家の上の道を大きなバイクが通り過ぎたわ。小さな女の子が、父親の背中に顔をうずめて走って行ったの。父とあんな関係だったらと思うと、うらやましくて、ひとりでに涙が出ちゃった」

 保津水は口元に寂しげな微笑を浮かべテーブルに視線を落とした。

 ―――バイクの父娘(おやこ)は、父と愛ではなかったのか?‥‥‥。

 保津水の見た大きなバイクは、モンスターではないかと思ったが、遼は口に出さなかった。

「青嵐に良い印象は持てなかったんだけど、祖父に言われて忘れられないことがあったの。『保津。青嵐は幸せを運んで来てくれるんやで。愛宕山に雷鳴が轟いた後の強い青嵐だけやけどな。保津が生まれる前に、何年振りかでその青嵐が吹いたんや。ああ、ええ孫ができる。お祖父ちゃん、嫌いな東京のほう向いて、あのとき初めて感謝したんや』って、稲妻が走ると何時も愛宕山に手を合わせていた。おかしいでしょ、私も一緒に手を合わせるようになっちゃったんだけど、祖父の話を本気にしてなかったの。だって、今までそんな青嵐に出会ったことないから。嘘じゃないって思ってたけど、祖父の思い込みか水尾に伝わる迷信か何かじゃないかって。祖父って結構、思い込みの強い人だったの。私が水尾出身の不世出の才媛と生き写しだって、親類の人たちに公言してはばからなかったくらいだもの。祖父のお祖母さんの姉で、クニさんていうんだけど、幕末の世に蘭学を修め女医として世に立とうとしたの。でも志なかばで大阪で不慮の死を遂げたんですって。その人に私がそっくりっていうの。祖父は憧れていたのよ、クニさんに。それともう一人、無二の親友だった大学教授の名外科医に。私が医学部へ行きたいのは父が医者だからっていうより、祖父の薫陶のほうが大きい気がする。祖父も先の第二次世界大戦で右手の機能を無くし、医師になる夢を断たれたの。本当に細くて痛々しい右腕だった。でもね、その右手に絵筆を持たせると、左手で支え、すっごい絵を描くの。いつか祖父のアトリエに連れていくから。そこには私が欲しい絵が何枚もあるの。ね、草野クン。この水尾は愛宕山の西麓にひっそりと息づく、本当に小さな集落だけど、驚くほどの才人を輩出しているのよ。苛酷な自然が強い意志をはぐくむのよ、きっと。祖父の思い込みから横道にそれちゃったけど青嵐に話を戻すとね。今年、祖父の言ってた青嵐が吹いたの。愛宕山に激しい雷鳴が轟いたかと思うと、水尾に強い青嵐が吹き荒れたの。本当の嵐みたいだった。ああ、これなんだ。これが祖父の言ってた青嵐だったんだなって‥‥‥。幸せを運んで来るには余りに荒々しかったけど、やっぱり祖父の言ってたことは本当だったのよ。二学期に入って、祖父の言葉に嘘はなかったんだって確信したの」

 青嵐が運んでくれた遼との出会い。言外の意味は、少しはにかんだ保津水の仕草から容易に理解できるが、遼はこの話題から逃げたかった。

「‥‥‥それじゃあ、もう帰るよ。青嵐の意味も分かったし、家の者も心配するといけないから」

 一時間近く居たので、帰る潮時でもあった。

「明日から八時二十分頃に誘いに来るから。雨で来れないときは七時前にスマホにメールを入れるよ」

 門の外で、もう一度、確認事項に念を押すと、

「じゃあ」

 遼は保津水に別れを告げてドリームのキックを踏んだ。

「うん、それじゃ明日待ってるから。さよなら‥‥‥」

 赤々と山の尾根に沈む夕陽の中へ、遼が小さく点のようになって吸い込まれるまで、保津水は長い間、じっと彼の後ろ姿を見送っていた。


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