第14話 さらば清嵐高校

 何処にでもある、何の変哲もない峠―――神明峠の第一印象だったはずなのに、日を追うに連れ、忘れ難い、人生の分岐点としての意味を持つ峠。そんな印象が遼の胸に芽生え、刻み付けられていった。清嵐と嵯峨野北を分かつ峠は、遼の内でいつのまにか新世界へのエントランスの意味を持ち、その象徴作用を果たすようになってしまっていたのだ。

 水尾から帰ったあの日から、遼はよく夢を見るようになった。そこには決まって神明峠が現われる。鮮やかな輪郭を帯びた峠が、生き生きと描き出されるのだ。朝もやに霞む峠、暑い日差しが降り注ぐ峠、夕もやが立ち込める薄暮の峠。あるときは薬箱を担ぐ旅姿の薬売りが、また、あるときは京を追われ再起を期する、手負いの勤王の志士たちが。密命を受けた密偵や黒装束の忍者の姿もあったが、遼の夢を醒ますのは不思議なことに、いつも一人の女性だった。顔は見えず、ただ深い悲しみをたたえ、遼の後ろ姿を見送っているのだ。

(‥‥‥マドンナなのか?)

 いや、彼女の印象ではなかった。ベッドに体を起こし、じっとりと汗がにじむ手を見つめながら、目を覚ますたびに遼は悩んでしまうのだった。

 ―――可奈子ではないか? ‥‥‥。

 しばらくして遼は、夢の中の女性を可奈子と思うようになった。暗闇で目を凝らせば、ぼんやりとではあるが、セミロングの外貌が目の前に浮かんできたのだった。

 寝つきは良くて、一度眠りに落ちると朝まで目を覚ますことはなかったのに、夢の中の女性のために何度か覚醒を覚えるようになってしまった遼だが、彼女に不快な印象はなく、むしろ心地よい余韻が心を満たして、朝の目覚めもすがすがしいものだった。

 傍(はた)からは過酷に映ったであろうが、転入対策に余念のない充実した日々を送っていた遼が、憧れの北高を初めて訪れたのは七月十日、照子同伴であった。父より元高校教師同伴が戦略的にもベターで、話し合いもスムーズに運ぶとの判断だった。

 校内行事のため、半日授業の十二日の月曜日、遼は自己の乗降駅・JR茨木でなく、阪急茨木市駅で一時三十分に母と待ち合わせた。時間前に茨木市駅のホームに降りると、息子のためにおめかしをした母がすでに来ていて、ベンチに腰かけていた。周りの乗客から浮き上がるほど、今日の照子は華やぎ若やいでいた。涼しそうな黒いレースのツーピースが色白の肌に似合っていて、服飾雑誌に掲載されてもおかしくないベスト・ドレッサーの装いだった。美人タイプではないが、顔に知性と品位と優しさがあり、時折、どんな美人も寄せつけない、はっとする輝きを見せることがある。幼い頃、遼はそんな母が自慢だった。サッカーに打ち込んで興味がそちらに行ってしまい、長い間、母と冷戦状態であったが、サッカーから離れ母を再認識できるようになった。マドンナがきっかけなのかよく分からないが、今日の母を見ていると、父が母を選んだ理由がよく分かる。身長は一六二センチあるから、女性では背が高い方だ。豊かな体だが、太っているわけではなく、出るところは出ていて、収まるところは収まっている。あまり特別な事もしていないのに体のラインが崩れていないのは、父との夜の生活が満ち足りているからではないか。そんな風な記事を、遼は週刊誌か何かで読んだことがある。

「やあ」

 遼が近づいて声をかけると、

「お帰りなさい」

 ベンチに掛けていた照子は、左手をかざし、まぶしそうに目を細め遼を見上げた。膝の書類を整理していたらしく、カバンに仕舞い込む右手を止めた。

「単位取得表をもらってきた?」

「うん、これ」

 遼が手渡すと、彼女は先ほどの書類と一緒にカバンに仕舞い込んだ。

「食事は?」

「まだ」

 もう少し愛想よくせねばと思うが、父が手本なので、修正に少し時間がかかる。

「どうする? ここで食べようか、‥‥‥それとも嵐山にする?」

「嵐山にしようか」

 遼はこぼれる笑顔を返し、精一杯の感謝を込めた。

 ホームに着いた急行に乗り、嵐山線の終点・嵐山に着いたのは、二時四十三分。約束時間まで、まだ一時間余りあった。遅い昼食と時間つぶしのため、渡月橋を渡り、バス停・嵐山近くの和風レストランヘ入る。

 青々と若葉の衣をまとい、臥竜の威風漂う雄大な嵐山。この嵐山を仰ぎ、目の前の清流桂川に臨む観光地は、洗練された気品に充ちて、渡月橋や川べりを歩む観光客も、どことなくアカぬけして上品な趣であった。展望の広いレストラン二階の窓際に腰を下ろし、北を望むと小高い丘が目に入る。頂に立つ和洋折衷の校舎が嵯峨野北高校であろう。校旗を旗びかせ、孤高の風格だった。新進の進学校を仰ぎ見ていると、照子は急に熱い思いが込み上げてきて目頭がにじんでしまった。

 ―――どうか息子を受け入れてほしい。

 恐らく、半年しか世話にならない高校だろうが、北高は息子の心に忘れられない思い出を刻みつけるに違いない。ひょっとしたら、清嵐高校以上に‥‥‥。

 高台にある北高を見つめながら、照子は祈らずにいられなかった。もちろん勝手な願いであることは百も承知だ。転入の判定をしてくれる先生方にも済まないと思う。が、こんなロマンもあっていいのではないか。自分も何度か転入の判定に立ち会ったし、試験問題の作成に携わったこともあった。その中に、遼と同じ生徒がいたとしても、自分は決して恨みに思わない。むしろ、

「がんばんなさい。一度っきりの青春なんだから」

 と、肩をたたいただろう。息子の転入希望校の間近に来て、照子はまるで自分が転入試験を受けるような胸の高鳴りを覚えていた。

 駅前でタクシーに乗り、嵯峨野北高校に着くと四時十分前。北高は今日が期末試験の初日で、学内に生徒の姿はなかった。正面玄関にある事務室のガラス窓を開け、

「こんにちは。四時に伺うとお伝えしてある草野です。副校長先生をお願いします」

 照子が来校理由を告げる。母の面目躍如で、てきぱきと要領よく、さすが元高校教師であった。

「はい、おうかがいしています。どうぞ」

 中年の眼鏡の似合う女性事務員に案内され、事務室並びの応接室へ通される。長いテーブルに相対して、椅子が各二十脚ばかり並んでいた。

「遼。ここが試験室になるのよ。良く見て、慣れておきなさい」

 副校長を待つ間、母が貴重なアドバイスをくれる。父、田中氏、それに母という頼もしいサポーターに恵まれ、北川の口癖ではないが、♪ 勇気リンリン、頑張るぞ!♪ であった。

「お待たせしました。急な用件が入ってしまいまして。四時とうかがっていましたのに、誠に申し訳ありません」

 わずか五分の遅れなのに、応接室のドアを開け副校長は恐縮しきりであった。

「いいえ、どういたしまして」

 二人、椅子から立ち上がって、恰幅のよい五十過ぎの副校長と挨拶を交わす。自己紹介と社交辞令が終わると、

「副校長先生。あらましは電話でお話した通りなんですが―――」

 母は単刀直入に本題を切り出した。

「ええ、実は」

 すでに根回しがなされているのか、副校長の返答も簡にして要を得て、滑らかで淀みなかった。

「送ってもらいました成績では、本学の受験資格は認められますし、単位取得表も持参していただきましたので、八月二十四日に転入試験を実施します。科目は英・数・国の三科目ですから」

 額と首の汗に白いハンカチを当て、副校長が遼に微笑みかける。教育委員会を通し受験の打診は済ましてあったが、挨拶と予備面接を兼ね、今日、北高を訪れたのだった

「そうそう、明日から期末テストだったら、それも頑張ってくださいよ」

 何と好意的な態度であろう。室を出るとき、副校長は遼の肩をたたいてハッパまでかけてくれるのだ。

「色々と有り難うございました」

 母と並んで、副校長先生に深々と頭を下げ、応接室を後にした。左腕の時計に目を落とすと五時三分前。来客用のスリッパで玄関へ歩きながら、実にすがすがしい気分だった。

「学校の周りを少し、お母さんとアベックで歩こうか」

 校門を出て、息子を見上げた母は上機嫌だった。

「明日から期末だし。それに転入試験もあるんだから、早く帰ろうよ」

 遼は時間が惜しい。

「大丈夫よ」

 照子は息子に目くばせする。

「うん?」

 母の顔をのぞき込むと、

「八月二十四日に転入試験をする意味が分かる?」

 照子は嬉しそうにナゾをかける。

「‥‥‥いや」

 遼が怪訝顔で首を振ると、

「副校長先生は他校への転入の可否なんか、一度でも言及なさった?」

 母はヒントをくれる。お馬鹿さんね、と言いたげな得意満面笑顔だった。遼も薄々感じていたが、事情通には学校側の意図が丸分かりのようで、立ち止まった息子をしり目に、

「八月末に試験日をセットして、おまけに他校への転入の可否に言及しないのは、よほどのことがない限り入れてあげるということよ」

 照子は鼻高々の解説だった。

 来たときと違い、タクシーを使わず、ゆっくりと学校の周りを母と散策する。大覚寺から化野(あだしの)念仏寺まで足を伸ばす念の入りようで、

「ほら、遼。あれが小倉山―――百人一首で有名な。知ってるでしょ」

 放っておけば、照子は小倉山へも上りかねない勢いだった。

「知ってるよ。転校してから上るからさ、清滝へだって。さあ、もう帰ろうよ。愛が首を長くして待ってるし、あんまり遅くなると、お祖母ちゃんも心配するよ」

 清滝方面から、ちょうど良いタイミングで空きタクシーが走ってきた。息子に促され、照子は渋々、小倉山を望む道路上で右手を上げたのだった。

「JRを使って行っても、阪急とそれほど時間は変わらないのね」

 JR茨木駅の改札を出て、母は行きと帰りの時間を較べ思案顔だったが、遼は頓着ないというか興味がなかった。通学の足はすでにバイクと決めているのだ。電車のほうが一時間弱のロスタイム。竹林回廊に、目が洗われる愛宕山の自然。これに保津峡の雄姿まで加われば、覆(くつがえ)るはずのないバイク決定であった。

 翌日の十三日から、十六日の金曜までの四日間の期末。清嵐で受ける最後のテストも概ね良好だった。二十一日の終業式に出席し、渡された成績表に目をやると、遼の学年席次は五二八人中三番に上がっていた。

「今日はみんなに、残念な報告をせにゃあかんのや」

 成績表を配り終えると、いつものようにタイミングを見計らい、クロコティーチャーが声を落とし、いかにも残念な仕草で話し出す。数名の者が通知表をにらみ、喜怒もあらわに会話を飛ばしていたが、クロちゃんの声で彼らも口をつぐんだ。

「知ってる者もおるやろけど、草野が二学期から転校することになったんや」

 自らに箝口令を敷いた、秘中の秘。クラスメートはまだ誰も知らず、竜山と野中のガーン! と目をむき口を開けた顔がムンクの〈叫び〉もどきで、実に印象的だった。

「京都の右京区嵯峨野にある、水尾というとこへ引っ越すんや。手紙書きたい者は、草野に住所を聞いときや」

 生徒のざわめきが収まってから、クロちゃんはしんみりと付け加えた。葬式の説法モードで、参列者を意のままに操るあたりは、さすが名刹の三代目住職であった。

「草野。何か皆に言うことあらへんか」

 クロちゃんの声はますます低く沈み、女子生徒がいれば涙をそそる場面であった。

「はあ」

〈カタストロフィー〉、まさに大詰めのクライマックスで主役を振られ、遼は静かに立ち上がった。

「わずか四カ月足らずの短い期間だったけど、みんな、ありがとう。楽しかったよ。訳あって転校することになったけど、この清嵐高校で過ごしたことは生涯忘れないよ。‥‥‥済まない」

 母校と呼ぶべきはずの高校だったのだ。変節は女が原因―――何と身勝手な。そう思うと、自然と口から謝罪の言葉が漏れてしまう。皆、シュンと、主役・脇役、クライマックスにふさわしい演技であったが、

「エーのう、草野。転校先は男女共学やろ」

 椅子に座った遼に、北川から鋭い反応が返され、醒めた観客の存在を思い知らされたのだった。

 その日、遼は一人で清嵐高校を後にした。鬼ちゃんや南国リップ先生には転校を伝えてあったが、黒ダヌキ先生とエロ坊主先生にはまだだった。職員室で最後の別れを告げ、正面玄関前で立ち止まった遼はいつになく神妙だった。校舎を仰ぎ見て、

「さらば清嵐高校。充実した日々を送らせてくれてありがとう。クロコ先生、リップ先生、鬼ちゃん、黒ダヌキ先生、それにエロ坊主先生も、さようなら」

 清嵐と恩師に再度の別れを告げたのだった。青い空にそびえる、大きな校舎がまぶしかった。まるで自分の変節をなじるように見下ろしているのだ。遼は後ろめたくなって、暑い日差しの中を環状線の鶴橋へ向かって歩き出した。この道を清嵐の生徒として通ることは、もう二度とないだろう。人生で数限りなく訪れる、出会いと別れ。出会いは生き生きとして、何かを生み出してくれる〈陽〉。別れは辛く寂しい〈陰〉。いつもそうとばかりは言えないが、やはり今日の別れは辛く寂しかった。歩き慣れた道に何度も立ち止まっては、遼は友の顔や思い出を確かめていた。



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