第11話 敗者復活の秘策

 ―――抱きたい‥‥‥。

 二階へ上がり机の前に座っても、字面を追えるのは僅か三十分。勉学に励み過ぎた反動にマドンナの出現が加わって、学習意欲は直滑降といってよい急降下をたどっていて、自分でも呆れんばかりの体たらくだった。ベッドに横たわり体を伸ばせば推して知るべしで、空想というか、遼はマドンナとの生々しいバーチャルリアリティに引きずり込まれ、二人だけの世界に浸ってしまうのだった。

 清嵐高校でトップを取って志望大学へ入る。先日決意したばかりなのに、遼はマドンナに心を奪われてしまい、学習効率も右肩下がりの、どん詰まりに一歩寸前に陥っていた。

 マドンナとは土・日を除き、毎朝出会っている。最初に会って以来、遼の足は一本遅れの、七時二十八分のマイトレになっていた。北川が同乗者なのはもちろんだった。遼が〈お仲間〉になっても、彼は疑念を抱くことなく、むしろ喜んでいた。これに乗ればギリギリ間に合うのだから、ごく僅かの朝寝坊ではあるが、貴重な睡眠確保のためネクトレに代えたと勝手に思い込んでいた。今朝も後尾車両二番ドアから乗り込むと、北川はギュウギュウの乗客をかき分けて、

「おうおう、草野」

 遼の立つ、ドア近くへ体をねじ込んできた。

「‥‥‥うん」

 苦笑いを返し、さりげなく車内を見回すと、マドンナは押し込まれて、二人から三メートルばかり離れた吊り革を握っていた。いつもの様に左手で胸のあたりにカバンを抱いているが、不心得者に対する防御ではないかと、妙な勘ぐりが働いてしまう。

 ―――何とかならないものだろうか‥‥‥。

 マドンナを見ていると、自分のものにしたい欲求が込み上げてくる。つい先日出会ったばかりだというのに、遼のマドンナへの思いは募るばかりだった。独占欲が日増しに高まってきて狂おしいほどなのだ。彼女と体を接する車中の男たちさえ無性に腹立たしい、末期に近い症状だった。

 交際のきっかけに、USJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)に誘おうかとも思ったが、唐突な気がするし、一体なんといえば良いのか迷ってしまう。かといって手紙を書いて渡すなど、自分のキャラと全く無縁でためらいがある。ここしばらく、遼はマドンナ獲得作戦に精エネ(精神エネルギー)の大半を費やす毎日であった。今日も、母自慢のボリューム満点・愛息弁当を食べ終え、配膳当番泣かせの十リットルやかんの渋茶、コーヒーと見紛うブラックだが、れっきとした出がらし茶をすすっていると、

「‥‥‥学校やめようと思ってんのや」

 斜め後ろで声がする。遼が湯飲みコップを置いて振り向くと、彫りの深い顔から〈外人〉と呼ばれる竜山義之が、キザ男とアダ名の付いた野中章に話しかけていた。

「やめてどうすんねん!」

 キザ男が弁当箱をしまう手を止めた。思いがけない告白に、唖然とした表情だった。

「もう一回、岸高(岸和田高校)受けよと思ってんねん」

 竜山は真剣な目で、キザ男を誘い込んだ。彼ら二人は大阪の岸和田にある公立校・岸高を落ちて清嵐へ入学していた。理数科クラスの八組は、ほぼ全員、公立トップ校不合格の併願組で、清嵐専願は天田一人だけだった。

 公立不合格者は公立への思いを断ちがたいのか、早々と三人が退学していた。そして今また、竜山も眉間に苦悩をにじませ、親友に退学決意を吐露していた。第一志望校に未練が残るのは遼も同じで、沢中千鶴とやりたい以前の問題であった。が、中浪してまで公立にチャレンジする気はまったくなかった。

「俺は中浪はいやや。そんなことするんやったら転校するわ」

 竜山の友引霊気(ともびきれいき)に恐れをなし、キザ男は椅子を引いた。

 ―――「転校」だって! ‥‥‥。

 遼の耳に、〈転校〉の二字が意外なほどの感動を呼び覚ました。転校のための、転入制度の説明を母から受けたのは三月二十三日。公立校の合否発表直後だった。内申点不正操作の怒りがマックスに達していて、数年前なら二学期から春丘へ通えるチャンスがあったのにと、ため息をついたのだった。

「ほん数年前だったら、八月三十一日の転入試験に受かれば二学期から春丘へ入れたのに。制度が変えられ、府内の私立から公立への転入は認められなくなったの。引っ越しによる府外からの転住なら、簡単に転校が認められるようになったというのにね」

 制度の改正がよほど無念であったのか、各学期前の、年三度もあった転入試験を、未練たらたら解説してくれたのだった。

「おい、転校って、一体どこへ転校するつもりなんだ」

 遼は立ち上がって、後ろの席へ割り込んだ。

「和歌山にある桐蔭高校はどうやろ。あそこではトップクラスやから」

 突然の闖入者にキザ男は困惑顔だったが、真剣な遼の表情に気圧されたのか、上目遣いに愛想笑いを浮かべた。

「和歌山へ引っ越したことにして、桐蔭高校へ転校するのか」

「そや。それからまた岸高へ転校したらどうやろ」

 遼に畳みかけられると瓢箪から駒ではあるまいが、キザ男の口からコロンと名案が転がって出た。

 ―――これだな! ‥‥‥。

 脳の回路がピーと一点に集中、目標が自動的にロック・オンだった。府内の私立から公立への転校が認められなくなった以上、一度府外へ出る必要があった。

 大阪を出て、それから三国丘へ再度転入。目的達成のベスト手段が目の前に鮮やかに描き出される。マドンナ獲得作戦が、ゆっくりと遼の内で動き始めたのだった。

「転校の仕組みはどうなってるんや」

 竜山も転校に興味が向いたか、思い詰めた顔で遼を見上げた。

「父親の転勤などの一家転住の場合、時期を問わず転校が認められるが、その際、カリキュラムと取得単位による調整がある。カリキュラムがあまり違っていたり、取得単位が少なければ転校は難しい。が、これらをクリアすれば、転校直前の定期テストと面接によるふるいがかかる。この二つのパスで、転校がOKとなるんだ」

 約二カ月前、母にギブされた知識が鮮明に甦って、遼の説明は確信に満ち淀みなく口を吐いた。

「和歌山も一緒なんかな」

 よほど転校したいのか、竜山はすがるような眼差しだった。

「‥‥‥よく似たもんじゃないのかな」

 考えたこともなかったが、五十歩百歩だろう。

「草野も転校したいんか?」

 キザ男まで身を乗り出してきた。

「‥‥‥うん。出来れば、な」

「やっぱりここ、いやなんか?」

 キザ男は声を落とし顔を近づけた。へつらいが目と口元にあふれ、転校期成同盟結成を促す仕草だった。

「さあ、どうかな」

 遼は曖昧な返事で煙に巻いた。清嵐が嫌いでなく、女生徒が理由の転校決意だった。同じ穴のムジナとは程遠く、連帯意識の欠片も湧かなかった。

 翌日の土曜日、四時限目の数Ⅰが終わると、偵察を兼ね、三人は桐蔭高校へ出かけた。環状線を乗換え、南海本線の終点が和歌山市駅だった。改札を出て、タクシー乗り場の最後尾につく。照り返しと排ガスの熱気で、三人の上半身は汗みずく、瞬く間に薄いシャツは体に吸い付いてしまった。十分余り待たされ、冷気に誘われるよう開いた後部座席に転がり込むと、

「どこや?」

 シートの汚れを気にしてか、運転手の態度は最悪。無神経で無愛想な行き先伺い。遼はムッとしたが、

「桐蔭高校知ってるやろ。そこへ行って」

 キザ男は頓着する風もなく、自慢げに運転席へ顔を近づけた。和歌山とは目と鼻の先、泉南市の住人だった。エスコートは俺に任せろ、といわんばかりの横柄は、デリカシー感知のセンサー欠如、運転手とタイであった。

 県庁前の渋滞を抜け、桐蔭へ着くと伝統校の重みか、眺める校舎に風格が漂い、遼は強い感銘を受けてしまった。後戻り出来ない大きな一歩。〈桐蔭〉の二文字が、転校に向けた決意を深く胸に刻み付けた。

「せっかく来たんやから、誰か居てたら、転入について聞いて帰ろうや」

 今日のキザ男は特にでしゃばりだった。遼の調査目的は、学校の外観と通学所要時間。目的は達したが、キザ男と竜山は不満で、まだ足りなかった。正門から玄関へ入ると、キザ男はカーテンの下りた事務の窓を開いた。

「うん、ちょっと待ってや。教頭先生は居てはらへんけど、よう知ってる先生が今日、学校へ出てはるから、放送で呼んでみるわ」

 土曜の今日、公立校は休みなのにクラブの顧問であろう、若い男性教師は嫌な顔もせず、マイクで呼び出してくれた。

「はいはい。転校のことやね」

 事務室前で、やせた小柄な白髪の先生から説明を受ける。転入の仕組みは大阪の府立校と大きく異なって、転入試験が課され、転入判定資料としては最重要、との印象であった。

「カリキュラムとの関係でどんな単位を取ってるか分からないんで、まず、いま通ってる高校の単位取得証明と成績。それと転校の理由を出してもらって、転入試験をするかどうか決めるから。試験や面接の結果も総合して、転入を認めるか認めへんか、最終的に決まるから‥‥‥」

 日焼けした初老の教師は困惑顔だった。真剣な眼差しの遼が一言も発せず、あとの二人はトンチンカンな質問を繰り返したのだ。話が噛み合うことはなかった。

 和歌山市駅のホームで二人と別れ、急行に乗り、五時前に遼が帰宅すると、チャリのブレーキ音に気づき、

「お帰り」

 母が玄関を開けて迎えてくれる。

「和歌山へ行って来たって、何か用事があったの?」

 新今宮駅からかけた電話が気になって、照子は息子の顔をのぞき込んだ。

「うん。‥‥‥後で話すよ。それより愛はどうしたの?」

 いつも真っ先に飛び出してくるのに、今日は妹の姿が見えない。

「倫ちゃんが今日、誕生日だからって、パーティーなの」

 仲良し通園仲間の誕生パーティーが、お喧(やかま)し屋が不在の理由だった。

「ふぅーん」

 下ぶくれ倫ちゃんの、愛嬌満点笑顔を思い浮かべ、遼は苦笑しながら玄関前のテラスの下でシャツとズボンを手ではたく。妹が喘息なので、母は極端にほこりを嫌う。ほこりだけでなくアレルギー原因物質と目される物に、彼女は神経を尖らせた。あれほど呑気でおおらかだった母が、ある日突然変わったのだ。思春期の遼は母性愛に感動したのを覚えている。

「ただいま」

 武家屋敷の威風漂う、黒光りする柱と広い土間へ入ると、ようやく帰宅したという実感が湧いて、再び「ただいま」が遼の口を吐く。

「はい、これ」

 洗いたての香しいトレーナーが差し出されるが、遼は右手で遮った。

「‥‥‥うん、今日はジョギング、中止にするよ」

 何かを含む息子の素振りに、照子も神妙になる。和歌山へ行ったことと関係があるの? と言いかけたが、呑み込んでしまった。遼には、自分から先走って余計なことを口にするのは控えよう。息子が話してからゆっくり考えればいい、そう決めていた。照子は口を一文字に結び苦笑いを浮かべると、トレーナーをクローゼットへ戻した。

「‥‥‥あのさ、母さん。俺、転校しようと思うんだ」

 当家で唯一、完全改装済みダイニングへ照子が戻ると、遼が朝刊から顔を上げた。

「学校で何かあったの?!」

 清嵐で頑張り、志望大学へ入る。つい先日、息子の口から漏れた言葉で、至福をもたらしてくれたのだ。同じ口から出る言葉と思えず、照子は立ちすくんだ。

「いや、そうじゃなくて、三国丘高校へ行きたいんだ」

「‥‥‥三国丘高校って、どうして三国丘なの?」

「別に大した理由じゃないけど、どうしても三国丘へ行きたいんだ」

 マドンナが欲しいから三国丘へ行きたいなんて、遼は口が裂けても言えるものではない。

「転入については前に話したことがあるわね。以前と違って、大阪府内の私立から公立の三国丘への転入は廃止されたということを」

 息子に不可能を諭す照子の口調で、問題外との意図が明白だった。

「‥‥‥うん」

 思いついた手段は制度の間隙を衝く不正なもので、遼は口に出すのは少し後ろめたい。

「だったら、不可能は分かっているでしょ」

 穏やかな慰め口調で、照子は息子の顔をのぞき込んだ。

「一度和歌山の高校へ転入して、それから三国丘へ戻ろうと思うんだ」

 なぜ和歌山へ行って来たのか、疑問を氷解する息子の回答だった。

「‥‥‥今日、和歌山へ行って、何ていう高校を見てきたの?」

「市内の桐蔭高校だよ」

「そう‥‥‥」

 ポツリと呟くと、照子は遼の向かいに腰を下ろし、ため息を吐いた。今の息子の返事で、どんな計画を立て、三国丘への転入を果たそうとしているのか、良く分かった。これまで考えたこともなかったが、新しい転入制度の盲点をつく手段で、公立の最難間三国丘への転入は可能なのだ。

 ―――和歌山へ住所を移して、桐蔭へ転校するのだろう。

 中学のとき、高槻山手中への越境で実験済みだった。問題は、いつ転校するかだ。

 ―――夫は、何と言うだろう‥‥‥。

 直樹が反対すれば、十中八九、計画はつぶれる。清嵐をことのほか気に入っているので、反対票を投じてくれるだろう。‥‥‥でも、遼の落胆はいかばかりか。反対のはずだったのに、その意図が遂げられても困ってしまうのだ。照子は心中穏やかでなかった。

「母さん、コーヒーを入れようか」

 頬杖をついて浮かない顔の母に、遼は晴れやかな笑顔を向けた。声にも自信が溢れていた。

 ―――私は賛成すると思っているのかしら。 

 それとも、母親の反対など眼中にないのか。照子は仏頂面でにらみつけたが、遼は鼻歌交じりでキッチンへ立ち上がった。

「‥‥‥ね、遼。一体いつ転校するつもりなの?」

「二学期に転校するのが、キリがいいんじゃないかな」

「それじゃあ、二学期からかわるというの!?」

 驚きを通り越し、照子は呆れ顔だった。

「善は急げというからさ」

 ミルを回しながら、遼の返事は涼しかった。

「そんな‥‥‥」

 先手を打たれ、照子は早すぎると言えなくなってしまった。完全に息子のペースだった。コーヒーの香りまで遼に味方したのか、危うく彼に同調するところだったが、

「お父さんの意見を聴かないと。それからにしてちょうだい。お母さんの一存では決められないから」

 辛うじて、難題解決を夫の判断に委ねたのだった。

 その夜、遼は気持ちが高ぶって、机に向かっても、開いた英単語帳に注意を集中できなかった。

 ―――転校先はやはり桐蔭高校がいいのか?

 通学路はどうしよう。三国丘への転校はいつにしたらいいのか? 三学期か、学年が変わる四月がいいのだろうか? とりとめの無い青写真が、次々と浮かんでは消えていく。が、弱い、小さな、風に吹かれるシャボン玉のはかなさであった。すべてある仮定の上に乗っかっているからで、丹念に積み上げ完璧を期した計画も、砂上の楼閣と化する恐れがあった。

 ―――父の同意が欲しい。

 彼がノーと言えば、マドンナを得るための遠大なプランが、一瞬の内に潰えてしまう。三国丘でのマドンナとの出会い。恋に落ちて、それから‥‥‥。ここしばらく、想像をたくましく、というより、自然と湧き上がってきた甘くかぐわしい薔薇の日々が、見果てぬ夢に終わってしまうのだ。

 ―――まもなく帰ってくる頃だが‥‥‥。

 床の間の置き時計に目をやると、十一時二分前。九時半に塾が終わり、家までの所要時間を足すと、帰宅は十一時前後。誰かに会っていれば午前零時をこえるが、それはなく、いつも誤差の範囲内だった。

 ―――ツーリングの時に会っているのだろうか。

 思い出したくない女性の顔が脳裏に浮かんだが、父の弱みを握っているようで、今夜は何故か不快でなく妙な親近感が湧く。頬杖を突いて、ぼんやりと時計を眺めていると、

〈ドッドッドッドッドッ〉

 力強いエンジン音が響いて、二階の遼に待ち人帰るを告げる。不安の主のご帰館だった。彼はまずシャワーを浴び、それから食事をとる。お声がかかるのは十一時半か、それとも十二時前。

寝ていると思われると、お呼びがかからないかも知れない。が、それは困る。今夜どうしても父の同意を得る必要があるのだ。遼は自室の窓のカーテンを開けた。中庭を隔てダイニングのライトが漏れているが、あちらからも当然、こちらの光が目に入って起きているのが分かるだろう。普段考えたことのない策をめぐらしてまで、遼は父の注意を引きたい。焦りと不安の入り交じる眼差しで壁の掛け時計を見上げていると、

「遼君。遼君」

 小細工が効を奏したか、階下からお呼びがかかるが、愛を気遣い、母の声はささやくように低く小さかった。時計の針は十一時三十一分。食卓に着くとすぐ、母は懸案事項を持ち出したのだ。

 ―――夕食の席に呼ばれるのか‥‥‥。

 出来れば食後の席に呼ばれたかった。食前より、食後のほうが穏やかになる。空腹時より、満腹時に父と話したかった。

「お帰り」

 ダイニングのドアを開け、真っ先に父に声をかけた。

「―――ん」

 物乞いと金満家。これを超える格差が二人にあった。父はわきまえていて、態度はすこぶる横柄。夕刊から目を上げようともしなかった。

 ―――どうやら反対のようだな‥‥‥。

 よし! 遼はヘソ下一寸、丹田に力を入れた。父の教え通り、気力をみなぎらせ、闘争準備の完了である。敵の意図が分かると、当方の取るべき態勢はたった一つ。徹底抗戦だった。

「‥‥‥ねぇ、立ってないで、ここへ掛けたら」

 二人の発する殺気に恐れ、母は調停役に回ろうとする。遼の読み通りで、照子に火付け役は無理だった。

「三国丘高校へ行きたいんだって? どうしてだ」

 父がやっと顔を上げ、遼を見つめた。眼光に決意が宿っていた。

「‥‥‥どうしてっていうわけじゃないけど、とにかく行きたいんだ」

 遼は気圧されてしまった。

「お父さんは清嵐高校が気に入っているんだ。成績も伸びていることだし、清嵐を卒業するわけにはいかないのか」

 遼は認識の甘さを思い知らされた。息子の決意を了知し、なおかつこの言動だった。歯牙にもかけぬ仕草で、直樹は夕刊をたたむと、テーブルの箸に手を伸ばした。

「―――いかない!」

 遼の取る手段は一つしかなかった。一言発し、あとは怖い顔でダンマリを決め込むのみだった。当然、長い沈黙が続くが、

「まあまあ、二人とももう少し穏やかに話し合ったら。遼ももっと詳しく、転校したい理由をお父さんに話さないと」

 遼の読み通りで、長い沈黙に母が耐えられるはずがなかった。

 ―――待っていた!

 本当に待っていたのだ。最悪の事態回避の安全弁。うまく機能してくれたようで、今夜はハートのエース、母の助けがどうしても必要だった。

「電車で、越境している三国丘の生徒を見かけるんだけど、随分勉強に打ち込んでいるようなんだ。そんな姿を目にすると、自分も三国丘へ入って同じ雰囲気の中で勉強したいと思うようになったんだ」

 支離滅裂で、我ながらよくこんな嘘がつけるとシラジラしかったが、母は息子サイドに立つ決意なのか、うん、うんと納得の頷きであった。が、父は口をへの字の完全なシラケ顔だった。

「まあ今夜急いで結論を出す問題でもないでしょうし、ゆっくり考えましょうよ。さあ、あなた、食事を召し上がって。ほら遼君、お父さんにビールを注いであげて」

 母は懸命に、険悪な二人の仲を取り持つ。

「僕も一杯飲んでいいかな」

 援護射撃に応え、遼も父に歩み寄る。

「‥‥‥うむ」

  ビール瓶を取り、直樹はシラケ顔のまま、差し出されたグラスに黙ってビールを注いだ。妥協を引き出す潤滑油。アルコールの効用で、杯が進むにつれ、直樹の顔も緩み出してくる。

「遼。あんまり飲んじゃだめよ。ノンアルコールにしたら。ねぇあなた」

 照子は親衛隊長気取りで、完全に息子サイドに立ってしまった。夫のグラスになみなみと注いでは、決断の変更をやんわりと促す。

「ね、お祖母ちゃんが漬けた茄子の浅漬け、もらってこようか。おいしいから。お父さん、好きなのよ。遼も食べるでしょ」

 今夜落とせると読んだのか、更なる援護射撃のため、照子は離れへ肴の調達に行く。足取りも軽やかだった。

「女の子なのか」

 妻がダイニングを出ると、直樹は「ふーっ」と大きなため息をついて息子に視線を移した。

 ―――いつもながらのご慧眼!

 重大決意は女が原因との、息子の行動パタンを熟知してのことか。父の明察には恐れ入ってしまう。

「うん」

 不覚にも頷いてしまったが、サバサバと後悔はなかった。可奈子のことも知られているし、正直は最良の策、父に関しては正に最良の策だった。

「さぁ、もう一時を過ぎたから、遼は寝ないと。明日は休みといっても、あまり遅くまで起きてると、生活のリズムが狂っちゃうから。‥‥‥ねぇ、あなた。何とかならない。こんなにかわりたがっているんだし。三国丘だったら、清嵐高校にも進学率で引けを取らないんだから」

 息子の後ろ姿を横目に、照子が駄目押しの翻意を促す。

「‥‥‥うむ」

 直樹もついに根負けして、苦笑いを浮かべたまま渋々うなずいてしまった。S資金関連で堺が鍵になる土地と分かったが、息子まで堺の高校へ通いたいという。直樹はうんざりだが、遼には最高のプレゼントだった。

 ―――やったー!

 天にも昇る心地というのは、こんな気分であろう。酒精の後押しもあってか、体までフワフワと、階段が天上へ続く気分であった。

 ―――さあ、明日から死に物狂いで勉強だ!

 遼はほとばしる気力と至福に満たされ、ライトの消し忘れた自室のドアを、グイッと力強く開けたのだった。


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