第8話 極めればダンディズム

 遼が大阪の清嵐高校へ入学して、早いものですでに一カ月が経ってしまった。中学時代、つらく苦しいサッカーの練習に明け暮れた遼にとって、この一カ月はまるで夢のような速さで流れた。タイム・フライズ。まさに光陰矢の如し、である。

 入学後半月ほどはサッカー部顧問と監督に連日入部を勧められたが、遼の意思が動かし難いと分かると諦めたのか、冷却期間をおくつもりなのか、その後はこちらが拍子抜けするほどピタリと勧誘がやんでしまった。推薦入試と違い一般選抜の入学で、特進の理数科合格だった。遼の意思が優先されるのは当然で、父の先見の明に感謝せざるを得なかった。

 学校から帰ると、大学の裏山を距離にして四キロくらいジョギングした。動かないでいることに体が耐えられなかった。ニュートンの慣性の法則に似た動機が生んだ軽トレ(軽いトレーニング)だったが、なだらかな丘陵を走っていると気持ちが和んで、半年前、勝利という一点を目指し、荒々しく走り込んでいたのがまるで嘘のように感じられ、漠然とした遠い記憶に霞むのだった。母と愛がジョギングに参加するのも、幼児期の懐かしい気分に浸れた。並んで歩くように走り、公園で立ち止まっては、藤棚の下で談笑した。ジョギングから帰ると、簡単な筋力トレーニングの後シャワーを浴びて、当日の学習メニューをこなす。勉学を最重要日課に据えたのだ。不思議なもので、親友が見切ったサッカー部を選択から外すと、二者択一の一つ、学業の世界に大きく気持ちが傾いてしまった。笠田は入学式当日、学校に退学届けを出し、横浜のクラブチームへ入ってプロを目指す道を躊躇いなく選んだ。失敗から得た教訓で、迷いのない、見事な進路決定だった。

 ―――俺は、外科医クリロナ(クリスティアーノ・ロナウド)を目指すか‥‥‥。

 新大阪駅のホームで、笠田の乗るのぞみを見送りながら、遼はサッカーに別れを告げ、学業世界へ踏み込む決意が、全身にみなぎったのだった。短期で終わる選手生活より、死ぬまで活動できる医学が自分に向いているのではないか。早川の影響が多分にあったが、幼児期に憧れていた外科医を目指そうと、このとき明確に決意したのだった。

 目標が定まると、勉学に身が入るものである。以前と比較にならぬほど、遼は勉学に打ち込んだ。入学時の成績はクラスの丁度、真ん中。学年席次は七十五番だったが、五月初めの実力テストは三十二番に上がっていた。

 教師の癖や性格も、把握できるようになった。担任のクロコティーチャーは現国(現代国語)と古典を受け持っていて、「一丁、文法的に説明してもらおうか」が口癖である。文法と関係ないところでも、「一丁、文法的に説明してもらおうか」、愛嬌満点クロコスマイルで、生徒たちの爆笑を誘うのだった。彼は特進上位の十組になみなみならぬライバル心を持っていて、十組に負けないよう、遼たちはよくハッパをかけられた。

 十組の担任は始業式の案内役、副校長で別名〈情厚(じょうあつ)南国リップ先生〉。担当は英G(グラマー)。分かりやすい授業で生徒たちの受けはすこぶる良かった。英語が苦手科目だった遼も情厚リップから繰り出す連射イングリッシュに感化され、ビィ・インタレスティッド・インから、ビィ・グッド・アットになりつつあった。

「定期テストは二週間前から対策立てるのが理想やねんで。今月末に中間テストが始まるさかい、もうぼちぼちやり始めなあかんで」

 南国リップから、ゆったりと穏やかな日本語が流れ出て、五月十六日、火曜日の五時限目が終わった。六時限目の武道終了でいざ帰宅という、この最終授業時に、起こるべき事件が起こってしまった。清嵐高校は宗教法人が経営母体。この関連で、公立校と較べ特異カリキュラムが週二回入っていた。内容は、武道と宗教。宗教と聞くだけでオジン臭い印象が漂い、ヤングと無縁の棺桶授業。この遼の勘ぐりは、最初の授業で消し飛んでしまった。教祖の生い立ちと宗教への帰依動機。二つのテーマが、分かりやすい宗教哲学に織り込まれ、荘厳で芳しい曼荼羅(まんだら)を描き上げるという、すこぶるアカデミックな授業内容だったのだ。ただ意図通りに進まないのが世の常で、途中からアカデミカルな授業のバトンを受けたのは、住職で、別名エロ坊主先生。授業内容はアダ名から推して知るべく、最も彼が得意とするワイセツ談義満載であった。アカデミカルなサワリからエロへの飛躍は、法衣を羽織ったエロ坊主の面目躍如の瞬間で、メガネの奥の目が生き生きと光り出すのだ。エロ談義のために生まれ、多分、死の床でもワイセツ談義に夢中の、エロと縁の切れないエロ煩悩の権化だった。エロ坊主先生の毒気ならぬエロ気に当てられ横道にそれてしまったが、特カリ(特異カリキュラム)の相方、武道に話を移すと、日本古来の武術である小太刀居合い術と高千穂理心流柔術が週一回、授業に組み込まれていて、生徒たちは居合いか柔術のいずれかを選び学ぶことが義務づけられていた。遼は居合いを選んだ。週一度、小太刀を握り真剣に接するのもサムライ気分に浸れ、受験や世俗の憂さを晴らすのに打って付けと思った。小太刀という一点に精神を集中させ、一瞬の虚をつき相手を倒す、紙一重の判断が死命を制するのだ。幼少時から基本をたたき込まれた空手は、四肢すべて相手を倒す武器だが、小太刀居合いは小太刀のみが頼り。格闘という観点からは異論も出ようが、スポーツとしての洗練度は、小太刀のみに集中を余儀なくされる居合いが、空手より数段勝っている。遼の素直な印象であった。

 居合い担当の渡辺も魅力溢れる教師で、厳つい赤ら顔が〈赤鬼〉の異名をもたらしてはいるが、笑うと目と口元に少年の面影漂う不思議な老教師であった。体の半分が顔と感じられる強烈なフェイス・アピールの主で、敏捷性とおよそ無縁と思える顔と体の外観比なのに、小太刀を握ると八十二歳と思えぬ踏み込みと胴打ち、袈裟切りを繰り出すのだ。エロ坊主先生がエロのために生まれた、エロ煩悩の権化なら、鬼ちゃん(赤鬼先生)は居合いをするために生まれた、居合い道の権化だった。ほとばしるダンディズム、吸い込まれる究極の技。鬼ちゃんこそ、剣の奥義を究めた紛れもない真の達人であった。生涯独身を通し、無骨なのかひょうきんなのか、おそらく変幻自在であろうが、遼には興味尽きない居合い道の師で、本校で最も敬愛する教師の一人だった。

 武道の時間は柔術と居合いに分かれるため、二つのクラスがペアを組んでいて、八組は七組との合体ペアだった。特進クラスとの奢(おご)りが八組の生徒にあるのか、はたまた七組の生徒に並みとのひがみがあるからか、武道の時間は七組と八組が敵愾心むき出しバトルを展開する。居合いは模擬刀であっても危険度が高く危険行為は自制され、鬼ちゃんの統率も行き届き鍔迫(つばぜ)り合いの域を出ないが、柔術組はこっぴどく八組が七組にやられてしまう。授業の後で、体をさすりながら北川がよくこぼしていた。

「エエのう、草野。俺も居合いにしといたら良かったで」

 今日も北川のグチを聞かされ道場へ入ると、鬼ちゃんも、柔術担当の中村―――精悍な顔立ちと得意技・チョークスリーパーがヒクソン・グレーシーを連想させるが、花粉症のため四六時中くしゃみが飛ぶ〈ハックション! グレーシー〉もまだ来ていなかった。校祖誕生祭が三日後に迫っていて、ここ数日、教職員はビッグイベントに追い立てられる毎日であるのだ。柔術組と分かれ、居合い組が道場奥で防具を着けていると、

「おーい! 草野! エライこっちゃがな。何とかしたってくれ!」

 袴に着替え胴具を着け終えた遼に、天田が駆けながら呼びかける。

「どうしたんだ?」

 左手に小太刀を握ったまま、遼が振り向くと、

「北川が床田に絞められてんねん。早よ来たってや!」

 遼の袖を引っ張り、天田が急き立てる。床田というのは七組の番で、柔道二段の猛者(もさ)だった。小太刀をクラスメートの香川に預け、遼が道場西隅の畳敷きへ駆けつけると、床田の腹の上で北川がもがいていた。些細なことから喧嘩になったが、有段者で大男の床田と北川では、闘う前から結果は見えていた。

「おい、離せ!」

 二人に近付くなり、遼は床田を一喝するが、床田は北川の襟を絞めたまま遼を睨み返した。各クラスの生徒たちが集まってきて、険悪なムードが漂い始めていた。

 ―――まずいな‥‥‥。

 周りに目線を送り、遼は小さく顔をしかめた。サッカーでの乱闘勃発。数え切れない体験が、展開を予見させたのだ。鬼ちゃん不在時に乱闘を起こせば、彼に迷惑がかかる。といって、放置するわけに行かなかった。北川はすでに目を剥き出していて、落ちる寸前だった。

 ―――剛か、柔か‥‥‥。

 急場の行動パタンが二つに絞り込まれると択一は直感だった。ヒラリと体を沈め、遼は北川の襟を締め上げる太い手首をつかんで、膝を支点にグイッと捩じ上げた。

「痛たた!」

 床田は悲鳴をあげて北川を離したが、手首をきめられ仰向けのまま足をバタつかせた。床田の右腕に蹴りを入れようかとも思ったが、それでは七組の生徒や床田も承知すまい。当然乱闘になる。とっさの判断に乗った関節技ではあるが、引き際を誤ると同じ結果がもたらされる。遼は太い手首を殺しながら、取り囲む七組の生徒と床田を交互に睨(ね)め回した。

「おい、こらっ! 離さんかいっ!」

 七組の生徒たちの間から怒声が飛び始める。一人でも一歩踏み出せば、乱闘が始まる。緊迫した事態の中で、遼は冷静に推移を読んでいた。経験は一と百ほどの差があり、また、逃れようと思えばこの程度の包囲は脱出に手間取ることはなく、我が身一つの防御は困難ではなかった。

 平然と床田の手首を殺す遼に、七組の生徒たちは行動の選択に迷っていたが、怒声の勢いは衰えなかった。

「‥‥‥な、草野。もう離したれや」

 天田の声が、絶妙タイミングで緊張の輪に投ぜられた。床田の戦意喪失は目の光や動きから明らかだった。他の者が黙って引くか自信はなかったが、乱闘回避の潮時ではあった。遼は全身に気力を漲(みなぎ)らせたまま、

「うむ‥‥‥」

 ゆっくりと床田の右手を離し、膝と腰を伸ばして立ち上がった。

「大丈夫か」

 横溢する殺気を逸らすため、遅れて立ち上がった床田と北川に声をかけた。

「うん」

 殺気の渦の中で、緊張気味に二人が同時にうなずく。

「何が『うん』や。足下がフラフラやんか、北川。しっかりしいや!」

 今度も遼は天田に助けられた。わざとひょうきんぶって、天田が三人の中へ割り込み、北川の肩をポンポンと大仰にたたく。殺気が昇華されてしまい、不満顔の者もいたが、

「さあ、行こう」

 遼が居合い組の者を促しても、誰も背後から声をかけなかった。



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