第35話 男子便所の出入り口付近で哀を叫ぶ


「なんすか、それ?」

 混乱しているとき、俺は思ったことを淡々と口にしてしまう。そして俺の若干冷たかった口調に、寿門先輩は耳まで赤く染めて、顔を俯かせた。ちょっと待って。今はこれ以上疑問を増やさないでっ!! すみませんっ!! と俺は心の中で謝罪する。


「確かに良く言われるんだ。眼鏡掛けると別人みたいだって」

 堀田先輩がいつのも優しい笑みを浮かべる。


「私もっ。でも良かった。シュウヤ君に嫌われたって思っちゃったから」

 アリス先輩が高飛車なツインテールを揺らして、明るげにキラキラと笑っている。


「自分では気づかないもんだよね。でも本当に良かった」

 うんうん、と首を振りながら堀田先輩。


「ねえっ」

 とアリス先輩。


 いや別人なんですけどっ!! という言葉だけは、なんとか抑えつけた。それだけは口に出してはいけないと、不思議な力が働いているような気がした。


「もしかして、そういう事?」

 不意に真穂さんが口を開く。その顔は、もう険しくなかった。

「精神学とか心理学とか読んでるとたまに書いてるんだけど、同じモノが少しの変化でまったく別のモノに見えちゃう人が、稀にいる、み、みたいなんです」


 全員の視線が真穂さんに集まる。そうなると、真穂さんは頬を赤く染めて、子犬の様な可愛らしさを纏う。俺にはほぼ暴言しか吐かないくせに。

「せ、専門用語は忘れちゃったんですけど」

 不意に辿々しい口調になって、真穂さんは全員に伝えるように説明を始めた。


「と、東西南北がどうしても、理解出来なかったり、針時計だと、じ、時刻が読みとれなかったりとか、もっと凄いのは、人の顔がどうしても、お、覚えられないって人もいるみたいですよ。う、うちの中学にも、制服じゃ無いと誰だか分かんない人とか、髪型変えただけで、別人になる人もいたから。だから、シュウヤも、た、たぶん眼鏡を認識出来ないっていう、そういう人なのかも」


 こいつ何言ってんの? と当たり前になる。そういう事じゃない。眼鏡の付け外しで、この先輩二人はまるで魔法の様な変身を遂げるんだ。オカシいよっ。眼鏡の一言で片づく訳が無い。


「ああ、なんかそういうのテレビで見たことあるなぁ。そっか、シュウヤ君はそうなんだ。気づかなくてごめんね」

 俺の意志に反して、堀田先輩がその不可思議な話をすんなりと飲み込む。


「それじゃあ気づくはずないよね。結局私と堀田君が悪かったんだね。反省っ」

 アリス先輩が可愛げに首を傾げた。


「いや、俺の方こそ、すみませんでした。なんか、そうみたいです」

 ついに俺は、自分を偽る決意をした。


 本音を言えば、骨格から、声から、丸ごと違う。同じなのは口調だけの、別人だ、と声を上げたかった。ただそれを今、口に出す意味があるだろうか。だって今、全部が丸く収まり掛けている。俺が特異な病を煩っているという結論で。名を授けるなら、眼鏡過敏症とでも言ったところか。もしかしたら、俺は本当にそうなのかもしれない。眼鏡過敏症。ダメだ、笑ってしまう。でも、もうそれでいい。世界が平和になるのならっ!!


「いや、良かった良かった」

 と堀田先輩がいつもの優しくて朗らかな笑みを浮かべている。

「バカみたい」

 と真穂さんは笑みを浮かべながら俺を睨んでいる。

「今度は嫌がらないでね」

 冗談めかしてアリス先輩。

 寿門先輩は唇を噛みしめる安堵の表情を、俺に向けていた。


「お騒がせしたみたいで、すみませんでした」

 全てを丸ごと、俺はこの一言で飲み込んだ。全ては、眼鏡に掛けられた魔法だったんだ。無理矢理でもこじつけでも、それ以外に、あり得ない。


 もしかしたら昔から、誰にでも、そうなのかもしれない。眼鏡とは、科学が発達した現代社会に於いて、姿を簡単に変えられる、一つの変身魔法道具なんだ。うん、我ながら綺麗に纏まった様な気がした。もうそれでいいやっ。だって全てが丸く収まるのだものっ!!


「だから紫乃は勘違いだって言ったでしょ」


 不意に背後から届いた声に振り返れば、紫乃先輩が白のハンカチーフで手を拭きながら教室に入って来た。


「眼鏡の所為だったみたいなんだ」

 堀田先輩が自分に呆れた様に笑う。

「シュウヤ君には、悪いことしちゃったね」


「いや、俺の方こそ、あんなに無愛想にして、すみませんでした。今度は俺から挨拶します」


「理由が分かって良かったっ」 

 アリス先輩は可憐にハシャいでいる。そして難事件の解決を待ちわびていたかのように、終業の鐘が響きわたった。


「だけど眼鏡が原因ってホント笑っちゃう」

「本当に」

「あの、ちょっと僕お手洗いに」

「だよねっ」

 

 鐘の音などお構いなしにそんな会話を続ける先輩達の言葉に混じって、聞き慣れない、男ではあるが少し高めの声が耳に届く。堀田先輩が口にした気配は無い。寿門先輩は微かな笑みを浮かべながらも口を開かずその会話を見守っている。


 不意に俺の視界の端に、教室を出ていく後ろ姿が過ぎった。ああ、先生が出ていったんだ、と理解する。そしてあまりの混乱から覚醒した俺は、突然の尿意を催した。緊張の糸が、解けて切れたのかもしれない。


「ちょっと俺、お手洗い行ってきます。朝はすみませんでした」

「こちらこそ。それにもうその話は無しで。眼鏡が悪かったんだから」

 堀田先輩の言葉に、朗らかな笑い声が教室に木霊する。俺はその笑い声を背に、壁に立てかけられた箒を横目に、教室を出た。校舎内中央付近にあるトイレへと向かう。


 薄暗い廊下を歩き、トイレへと足を踏み入れた。あれ? と若干の戸惑いを覚える。トイレには魔法中年が居ると思っていたが、そこにはダボダボのポロシャツに折り目がきっちりと入る黒ズボンを履いた、あの、ハンドタオルの様な薄い存在感の男が居て、洗面所で手を洗っていた。


「うす」

 まぁいいや、と軽い挨拶を口にする。気づかなかったが、この校舎内でもう一つ選択授業が行われているのかもしれない。そんな事を考えながら、その背後を通り過ぎようとしたところで、声を掛けられた。


「あ、あの、シュウヤ君」

 なぜ名前を知っているんだろうと思いながらも、立ち止まった。

「はい?」

 ダボダボポロシャツ男が、ゆっくりと振り返った。ほっそりとした顔に、覇気の無い無精ひげが生えている。その顔に、あれ? となる。いやいや、あり得ない。


「シュウヤ君が来てくれて、魔法学の教室が明るくなった気がするんだ。もし良かったら、続けてくれると嬉しい」


 弱々しい声で、ポロシャツ男はそういった。あんた誰? リターンズだ。いや、あり得ない。何魔法学の一員みたいな顔してんの? そんなまさか。もう俺は今日お腹一杯なんだ。無理無理無理。


「さっきの眼鏡の話、面白かった。確かシュウヤ君は空を飛ぶ魔法だったよね。もし良かったら、今度僕の箒と一緒に空を飛ぶ練習をしようね」


 その言葉に、確定する。この男、魔法中年だ。いや、あり得ない。そんな俺の混乱などお構いなしに、ダボダボポロシャツ男は、トイレを出ていった。


 ほっそりとしたその後ろ姿に思う。姿形が、まるで違う。口調や一人称まで違う。堀田先輩やアリス先輩よりも酷い。何よりも、何よりも、眼鏡を……眼鏡を掛けてないじゃないかっ!! その一線は守れよっ!! その設定からは外れるなよっ!! お前はいったい何なんだよっ!! ああもう、意味分かんないっ!!


 再び訪れた俺の混乱を余所に、男の足音が、魔法学の教室方向へ遠ざかっていき、聞こえなくなった。静寂の中、不意に我に返る。そして俺は、無音が蔓延る薄暗い男子トイレの出入り口付近で、静かにゆっくりと、深く息を吸い込み、力の限り、全てを吐き出した。


「そもそも眼鏡ってなんだよっ!!」

 

 あああああっ、すっきりしたっ!! やっと言えたっ!! そして、よしっ、と決意する。もうこれからは、全部受け入れよう。だって仕様がない。こういうのは、突っ込んだ方が負けなんだから。ハハハハハハっ。


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