3――奴隷じゃないです(後)


 それから一週間の準備期間を置き、ポリグラフ検査は実施された。

 実ヶ丘署で再捜査を始めた徳憲は、特命捜査対策室の眼帯刑事と連絡を取り合い、慎重に憶寺との接触を図った。

 もちろん最初は歓迎されなかったが、根気よく説得するうち、ポリグラフ検査に際して一応の了解を得ることは出来た。


 憶寺は現在も一軒家に住んでいる。

 妻とは別れており、子も縁を切っていた。かつて犯罪をしでかしたとき、親類縁者から距離を置かれているようだ。

 孤独に暮らす老人に唯一残されたのは、この家屋のみ。


「わしは静かに暮らしたいんじゃ。隣家でギターをかき鳴らすあの馬鹿には、嫌悪感しかなかったぞい……だからって殺してはおらんぞ? わしは前日、奴に殴られて口を切ったんじゃ。こりゃ勝てんと早々に退散したんじゃよ。筋肉の障害もあったのでな……そんな状況で、撲殺なんぞするわけがなかろうて」


 ――というのが本人の言い分だった。

 そう信じ込んでいる。思い込んでいる。


 ポリグラフ検査で、彼の真意を白日の下にさらせるだろうか。

 実ヶ丘署の取調室を間借りして、検査機器を持ち込んだ。

 いざ忠岡の裁決質問が幕を開ける――。

 ――のだが。



「結果からゆーと、あのじーさんは潔白シロだわー。驚きの白さ!」



「…………はぁ?」


 驚きの白さって、驚きたいのは徳憲の方だった。

 検査から三日と待たずに結論を出した忠岡が、実ヶ丘署へ電話をかけた。呼び出しの電話である。慌てて科捜研へ飛んで行った徳憲は、実際にこの目で検査結果を読み込まなければ、とうてい納得できなかった。


「緊張最高点質問も、関係質問も、裁決質問も……全て反応なし!?」

「そーゆーこと」椅子にだらける忠岡。「あのじーさん、ガチで身に覚えがないみたいよー? もしくはボケて、きれーさっぱり記憶を忘れちゃってるのかなー? 何にしても本人の記憶にない事柄は、被検者の生理反応を示さないわー。だって本人は知らないんだもん。ウソをつこーとする心理が働かないのよー」


 ウソをつく心理が働いてこそ、初めて検査機器が意味を成す。

 本人が覚えていないことは――記憶にないことは――反応なんか、出やしない。

 これはお手上げだった。

 天を仰ぐしかない徒労っぷりに、徳憲も返す言葉がない。


「ほ~らご覧なさい! ちんちくりんは無能の極みだってことがハッキリしたわね~!」


 そこへ闖入したのが愉本だった。

 表情は険しい。剣幕と表現しても良い。半ば殺気立った双眸は、忠岡を射殺しそうな勢いだ。マゾな男性なら大喜びするだろう。

 冷ややかな侮蔑は、新たな修羅場の幕開けでもあった。忠岡は背もたれに上半身を預けたまま、うざったそうに愉本を見上げる。


「何よー、こっちは一仕事のあとで疲れてんのにさー。大声出さないでくれるー?」

「アナタの怠慢な検査結果を見たら、誰だって声を荒げるわ~!」


 愉本はぐい、と忠岡の体を引っ張り起こすなり、ガツンと額を小突き合わせた。

 顔が近い。

 油断したら噛み付かれる距離だ。愉本は怒りに満ちている。彼女がずっと追って来た事件だからこそ、不甲斐ない心理係にカッとなるのだ。


「検査結果がシロですって~? このフシアナ! 能無し! 役立たず! 犯人ホシを追い詰められない科学捜査に価値なんかないわ~!」

「そー言われてもねー」おどけるしかない忠岡。「ポリグラフの検査機がそーゆー測定しか出さない以上はー、診断を捏造するわけにも行かないでしょー?」

「……も~い~わ。アナタには期待しない」顔を離す愉本。「アタシはそろそろ、単独の血痕を抽出できそ~なんだもの!」

「え、ほんとーに?」

「ウソついてど~するのよ。これから憶寺のDNAと照合してみるわ。何が何でも逮捕してみせる。それがアタシのケジメなんだもの……!」


 颯爽と踵を返した愉本は、心理研究室を出て行った。

 嵐が去ったかのごとく室内は静まり返る。他の研究員たちが呆気に取られてこちらを眺めていたが、やおら姿勢を正した忠岡に睨まれるや、各自の職務へ舞い戻った。


「はー。あのサキュバスにも困ったもんよねー。あの女はかつての恋人を喪った空白を埋めきれずにー、仇討ちをすることで寂しさをごまかそーとしてるのよー」

「それは愉本さんの心理分析、ですか?」


 徳憲が尋ねると、忠岡は乱暴に頷いた。


「あれは心理学でゆー所の『防衛機制』よー。人は欲求不満に陥ったとき、望みが叶わないイライラを他のことに転嫁して解消しよーとするのー」

「防衛機制……」

「他人への八つ当たりやモノを壊す『暴力機制』が代表的な機制よー」

「ああ、よく見ますねそれ。器物損壊や傷害事件も、大抵は八つ当たりですし」

「愉本の場合は、恋人を喪ったことで性欲の捌け口が減ってー、代替を求めて男漁りがエスカレートしたのよー。もともと二股に抵抗なくて、元カレの兄にも手を出してたしー」


 愉本がサキュバスと化した原点。

 それは『異性への飢餓感』だ。

 死んだ恋人の面影を求めて、同じ快感を与えてくれる男を求めるようになった。


「これを『代償機制』ってゆーわ。元カレの代わりを探し回ってるだけなのよー」

「で、ですが、弔い合戦のために鑑定を続けるのは仕事熱心な女性ですよ」

「それは『昇華機制』ねー。欲求不満をバネにして、他のことに打ち込んで気をまぎらわそーとする心理よー。仕事している間は、嫌なことも忘れられるでしょー?」


 心の痛みをごまかすために、仕事や趣味に没頭する。

 事実、挫折の悔しさを乗り越えて大成した人間は数多い。それらは皆、辛さを原動力へと『昇華』させた、心理作用の賜物なのだ。


「ついでに『同一機制』で自らをサキュバスと自認してるわねー。架空の悪魔と自分を同一視することでー、男漁りを正当化してるんだわー」

「はぁ……もともとは忠岡さんが名付けた蔑称だったのになぁ」


 サキュバスなんて聞こえの悪いあだ名を、あえて受け入れることで役柄になりきる。

 そんなしたたかさも、愉本の心根の強さと言えよう。


「あの女は防衛機制で自分を立ち直らせよーとあがいているだけの、負け組なのよー」

「忠岡さん、そんな言い方……」

「ポリグラフに怒ったサキュバスは、完全に火がついたわー。頼れるのは自分のみだと悟って、本気を出すはず……あたしに頼っていたら張り倒す所だったわよー全く」

「えっ?」


 徳憲は気付いた。

 もしかして、忠岡はわざとあんな診断を下したのか?

 愉本を焚き付けるために?

 防衛機制に凝り固まった執着心を祓い、未来への一歩を踏み出させるために?

 あの事件は、過去の呪縛を解消できるのだから。


(忠岡さん、わざと検査結果をシロにしたのか!? だとしたら腹黒いなぁ……研究員としてはあるまじき行為だけど、職場仲間の心境を救うために、あえて……?)


 顛末はここから風雲急を告げる。

 愉本が真剣になれば、これしきの事件など造作もないことは、誰もが知っている。




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