12.いつか僕は旅に出る(下)

 ――気付けば僕は、自分のベッドの上に倒れ込んでいた。

 時刻は既に朝の七時を回ったところ。窓からは爽やかな朝の光が差し込んでいる。


 どうにも昨晩の記憶がはっきりしない。

 たしか、酔い潰れてガラの悪い二人組に絡まれていたところを、アゲハチョウの人に助けられて……「世界の裏側」とかいう場所の話を聞いて……信じられない光景を見て……。

 ぼんやりとは覚えているのだけれども、どうにも記憶に薄い膜がかかったようにはっきりとしない。あれは全部、夢だったんだろうか?

 昨晩は酷く酔っ払っていたから、幻の一つや二つ見ていてもおかしくはないかも……。


 後で母に聞いたところによれば、僕は昨晩、誰かに付き添われて帰宅したらしい。酷く泥酔していて、自力では歩けない状態だったんだとか。

 僕を家まで送ってくれたのは……多分アゲハチョウの人だ。母が「物凄い美形の人」と言っていたから、まず間違いないだろう。


 でも、意識が途切れる直前の記憶を信じるならば、あの人は僕をおいてどこかへ去っていったはずで……。

 一体どこからどこまでが本当にあったことなのか、どこからが夢なのか、さっぱり分からない。

 自分の記憶に自信を持てないことが、こんなに怖いことだなんて思わなかった。

 記憶障害を発症していた時の叔父さんも、こんな気持ちだったんだろうか?


 昨晩見た光景が本当なのかウソなのか、アゲハチョウの人に会えばはっきり分かるのだろうけど……僕は何故だか、あの人には当分会えない気がしていた。

 根拠は全く無いけど、そんな確信にも似た予感が、たしかに僕の中にあるのだ。

 だから今、あの夜の「真実」を決められるのは、僕だけだ。そして僕は……その答えをしばらく保留することにした。


 ――その日以降も、僕の人生に大きな変化が起こることはなかった。

 相変わらず先行きには不安ばかり。

 楽しいことも沢山あるけれど、辛いことはその軽く二倍はある。

 新聞やテレビでは、日々不安を煽るようなニュースばかりが報じられている。

 やりたいことなんて、全く見付からない。


 でも。それでも。僕が挫けそうになった時、誰かのこんな声が聞こえてくるようになったのだ。


『いつでも君のことを見守っている』


 そんな、誰かの優しい声が。


 人間とは不思議なもので、「誰かが自分のことを見守ってくれている」と感じるだけで、「もう少し頑張ってみよう」と思えるようになるらしい。

 決して何かが好転したわけじゃないけど、僕は前よりも打たれ強くなった気がするのだ。


 これからも辛いことが待っているだろう。悲しいことも沢山起こるだろう。

 自分の力じゃどうにもならない事態に直面することだってあるだろう。

 何もかも捨てて、逃げ出したくなることだってあるだろう。

 でもそれは、誰にだってある当たり前のことで……。


 叔父さんのいるという「世界の裏側」に惹かれる気持ちが無いわけじゃない。

 でも僕はまだ、「世界の表側」のことさえよく知らないのだ。

 きっと、僕はもっと色々なことを――人を、世界を、もっとよく知る必要がある。

 今この目に映るものだけが全てじゃない。世界はもっと広くて深くて……汚くて美しいのだ。

 「世界の裏側」を目指すのは、それらを知ってからでも遅くはないだろう。


 だから叔父さん、どうか僕を見守っていて欲しい。きっといつか、叔父さんに追いつくから。

 いつか僕も旅に出るから――。

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