11.いつか僕は旅に出る(中)

「――落ち着いた~? はい、お水。お酒まだ抜けてないでしょ~? とにかく沢山水分摂ったほうがいいよ~?」

「あ、ありがとうございます……」


 アゲハチョウの人は僕を抱えたまま十分以上も走り続け、適当に休めそうな公園を発見すると、ようやく足を止め僕を降ろしてくれた。

 そのまま僕をベンチに座らせると、近くの自販機でミネラルウォーターを買って寄越して来た。……やけに喉が渇いていたこともあって、僕は遠慮せずにそれを受け取り、チビチビと飲み始める。


「君、この前も襲われてたよね? この治安の良い日本で……むしろ凄いね~! もうちょっと気を付けた方がいいよ~?」

「……面目ないです」


 答えつつ、アゲハチョウの人の様子を盗み見る。

 何故か自分はベンチに座らず、僕の前に立ったまま缶コーヒーを飲んでいる。……やっぱり凄い美形だ。歳は僕よりも上に見えるけど、正確な年齢は分からない。二十代前半にも見えるし、もっと上にも見える。


 ……そしてやっぱり、性別もよく分からない。

 かなり華奢な体型だけど、ギリギリ男にも見えるし、少し体格の良い女性にも見える。ノドボトケもあるような無いような……って、いやいや。性別の前に確かめることがあるじゃないか。


「あの……今日もこの間も、助けていただいてありがとうございます。それで、その……助けてもらっておいてなんですけど、一つ訊いてもよろしいですか?」

「ん~? なんだい~? オイラのスリーサイズなら教えないよ~?」

「いえ、そういうのではなく。――単刀直入にお尋ねします。あなたは……僕の叔父さんの知り合いなんじゃないですか? ボクのポケットにメモ書きを忍ばせたのも、あなたでは?」


 多分、酔った勢いもあったのだと思う。気付けば僕は、言葉を選ばずに核心に触れる問いを投げかけていた。

 すると――。


「うん、そうだよ?」


 アゲハチョウの人は、あまりにもあっさりとそれを認めてしまった!

 これはちょっと予想外だ。もっとはぐらかされるかと思ってたのに……。


「で~?」

「……え?」

「質問はそれだけ~?」

「え、ええと……」


 それどころか、「他に聞くことは無いのか?」と言わんばかりに催促されてしまった。

 ……いや、これはむしろ色々と聞くチャンスだ。僕は酩酊した思考をフル回転させて、必死に質問を考えた。この人に聞きたいことは沢山ある。


「ええと、それじゃあ――」

「ブー! 残念、時間切れ~!」

「ええ……」

「――というのも流石に意地悪だから、一つだけ質問に答えてあげよう~! さあさあ、君は何が訊きたいのかな~?」


 そう言って、いたずらっぽい笑顔を浮かべるアゲハチョウの人。

 ……もしかしたら僕は今、おちょくられているのかもしれない。質問だってまともに答えてくれるか怪しいものだ。でも、それでも一つだけ、どうしても訊いておきたいことがあった。

 それは――。


「……叔父さんは、本当に死んだんですか?」


 色々尋ねたいことはあったけど、やっぱり一番はこれだった。

 叔父さんの死は警察が確認しているのだから、まず確実なはずだ。でも、例の動画の中での口ぶりでは、その死にも疑問が残るのだ。

 真実を知りたい。果たして、アゲハチョウの人の答えは――。


「エイジ? そりゃあ死んでるよ~? 警察がきちんと検視して、お葬式もやったんでしょう?」

「……ですよね」


 アゲハチョウの人の答えは実にさっぱりしていた。

 やはり叔父さんは死んでしまったらしい。残念ではあるけど、僕は少しだけほっともしていた。もし叔父さんが死を偽装して生き延びていただなんて話になったら……なんだか日常のくさびのようなものが、外れてしまう気がしたのだ。

 でも――。


「うん、確かにエイジは死んだよ~。少なくとも~」

「……はい?」


 アゲハチョウの人は続けて何やら不穏なことを言い出した。『こちら側では死んでいる』だって?


「ええと、それは一体どういう意味ですか……?」

「え? ああ、そうか。君は何も教えられてないんだもんね~。う~ん、口で説明するよりも実際に見てもらった方が早いね~。――ほら、ちょっと足下を見てごらん?」

「足下……?」


 アゲハチョウの人の言葉に従い、視線を下に向ける。そこには薄暗い街灯に照らされた夜の公園の地面が広がっている――はずだった。


「――えっ!?」


 目に飛び込んで来た意外すぎる光景に、思わず声を上げる。

 

 足には土を踏みしめている感触が確かにある。けれども足のすぐ下には何もなく、地面は遥か先の眼下に広がっていた。

 ちょうど空高くから地上を見下ろしているような状態だ。遥か下の方に、草原が、荒野が、山や川が広がっている。


「これは……これは一体、何なんですか!?」

「それはね、だよ~」

「世界の……裏側?」

「そう。この地上のすぐ裏側に存在するもう一つの世界。すぐ近くにあるのに……手を伸ばせば届くのに、殆どの人が一生目にすることなく終わる、近くて遠い世界」

「い、異世界ってやつですか?」

「異世界~? いやいや、裏側にあるだけで、この世界と地続きの場所だよ? 『異』世界なんて失礼だよ~」


 ――正直、全く思考が追いついていない。けれどもそんな僕を気遣うことも無く、アゲハチョウの人は更に言葉を続ける。


「それでね……ああ、ちょうどあの辺りに街があるのが分かる~?」

「街……?」


 アゲハチョウの人が指さした方を見ると……なるほど、確かに街らしきものがあった。

 かなり距離があるので細かくは分からないけど、石造りの建物が密集している大きな街であるように見える。


「エイジはね、あそこにいるんだ」

「……叔父さんが、あの街に? え、でもさっき死んだって……」

「うん、こちら側ではね。でも、あちら側ではまだピンピンしてる。というか、こっちで死んだから向こうでピンピンしてるんだけどね~」


 ――アゲハチョウの人は、また僕にはよく分からないことを言い出した。

 いや、もしかして僕の頭が悪いだけなのか? 全く話に付いていけない。

 でも、こんな非現実的な光景を見せられては、理解出来ないなりに信じるしかない。「世界の裏側」という存在、そして叔父さんがそこで生きているという事実を。


「叔父さんは、あっちで元気なんですね?」

「うん。こちら側にいた時よりも生き生きとしてるみたいだね~。……会いに行ってみる~?」

「えっ? 会いに行けるんですか?」

「そりゃあね。君が会いに行きたいと思えば、すぐにでも。でも……」

「でも?」

「あちら側に行ったらそう簡単には戻ってこれないよ~? もしかしたら、一生あちら側に行ったままかもしれない。あちら側に行くには、こちら側の生活を全部捨てるくらいの覚悟がいるんだ――それでも、行きたい?」


 僕にそう尋ねるアゲハチョウの人の声は、今までになく真剣なトーンだった。

 僕をからかっているのでもおちょくっているのでもなく、本当に「あちら側」へ――叔父さんの所へ連れて行ってくれると言っているのだ。


 ――いっそのこと、こんな不安だらけの世界なんて捨てて叔父さんの後を追ってしまおうか?

 そんな考えが頭をよぎる。

 このまま先行きの見えない世界に生きていくのなら、思い切って「世界の裏側」とやらに飛び込んだ方が、よっぽど生きている実感が湧くんじゃないだろうか? 叔父さんと一緒なら、たとえ大変な毎日でも、自分をごまかしたり偽ったりせず、まっすぐに生きていけるんじゃないだろうか?

 そんな自問自答が、頭の中に浮かんでは消えていく。


「僕は――」


 答えが定まらぬまま、口を開く。アゲハチョウの人は、何も言わず僕の次の言葉を待っている。

 その顔には先程までと同じ笑みを浮かべている。けれども、僕を見つめるその瞳には、優しいような悲しいような、そんな色が浮かんでいた。

 まるで僕のことを心底心配してくれているような、そんな色が。


 ――だからなのだろうか、僕は自然とこう答えていた。


「いいえ、やめておきます。叔父さんにも言われましたから。叔父さんを追いかけるのは『一切の後悔なく旅立てるって時が来たら』って。僕はまだ……この世界で何も為してない。後悔するしない以前に、まだなんにもやっていないんです。きっと、こんな体たらくで叔父さんに会いに行ったら……怒られちゃいますよ」


 僕の答えを聞くと、アゲハチョウの人は「そっか」とだけ呟き、こちらに背を向け静かに歩き始めた。

 その「話は終わりだ」と言わんばかりの雰囲気に、僕は思わず後を追いかけようとしたけれども……足に全く力が入らず、立ち上がれない。

 酔いもだいぶ覚めたはずなのに、なんで?


「待って! 待ってください! もっと沢山訊きたいことが――」

「一つだけって、オイラ言ったよね? だから今日のところはバイバイだよ~?」


 背中はどんどんと遠ざかる。それでも、僕の足は相変わらず動かない。

 気付けば、地面の下に広がっていた「世界の裏側」の光景もいつの間にか消えていて、夜の公園は本来の姿を取り戻していた。

 まるで全ては夢だったかのように消え失せ、アゲハチョウの人の姿も薄暗闇の中に紛れ消えていく。


「待っ――」


 二度目の「待って」を言おうとしたその矢先、突然の眠気が僕を襲った。

 こんなところで寝てはいけない。そう心に強く念じても全く抗えない、今までに感じたこともない凄まじい睡魔が。

 耐えきれずまぶたが落ちる。その寸前、アゲハチョウの人が一度だけ振り向いて、そっと何かを呟いた。


「――」


 その言葉を確かめる間もなく、僕の意識は闇へと落ちていった――。

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