10.いつか僕は旅に出る(上)

 ――世界が回っていた。グルグルグルグルと、僕を中心にして都会の雑踏がきりもみしている。

 もちろん、物理的にじゃない。酔いに酔った僕の視界が、落下感を伴う回転を延々と続けているのだ。

 ビルが、街の明かりが、僕に無関心そうな目を向ける道行く人々が、全てが歪んで見える。


 今日はゼミの飲み会だった。

 就職活動が本格化しようとしている時期にあっても、うちのゼミは何かと忙しい。ゼミ室に篭りきりになることもザラだ。

 そんな状況を見かねてか、珍しく教授がゼミ生達を飲みに連れていってくれたのだけど……来なきゃよかったと、今は後悔していた。


 僕以外のゼミ生や教授は揃ってだ。湯水のようにお酒を飲んでもケロッとしている。

 対する僕は、下戸ではないけれどもあまりお酒には強くない。ビールをジョッキ一杯飲めば、もうフラフラ。焼酎なんて飲めば、立ち上がるのも一苦労。

 皆それを知っているはずなのに、空ける度にグラスには次のお酒が注がれて……気が付けばベロンベロンのフラフラだ。


 しかも、僕がそんな状態なのに、皆は二次会へ行って飲み直すと言い出した。

 当然、とても付き合いきれないので僕は先においとまさせてもらうことにしたんだけど……驚いたことに、そんな僕を送ってくれるという優しい人は一人もいなかった。「男なら大丈夫だろう」なんだそうだ。


 仕方なく、僕は一人、繁華街をフラフラと歩き始めた……けど途中で限界が来たのか、カバンを抱えた状態で道端に座り込んだまま動けなくなってしまった。

 世界は回るし足腰に力は入らない。完全に酔いつぶれた状態だ。

 何だか頭もズキズキと痛い。……くそう、ゼミの連中め。こんな人間を放置するなんて、「アカハラ」ホットラインに通報してやろうか!


 ……等と心の中で吠えてみるけれども、体はピクリとも動かない。

 今のゼミは決して悪くはないんだけど、僕以外が飲ん兵衛ばっかりなので、飲み会の度に同じような目に遭ってる気がする。選択を間違えたかな……。


 ――そう言えば、社会人になった先輩達からも、会社の無茶な飲み会の話は色々聞いていた。

 まともな企業だと、昔ながらの飲み会やら上司・先輩からの飲酒の強要なんかはご法度になっているらしい。けれども、一部の企業や業界では、未だに昔の漫画やドラマで見るような「一気飲み勝負」みたいなことをやっているらしい。

 ……就職先はよく考えないとな。


「……就職、か」


 ややろれつの回らない口から、思わず独り言が漏れる。

 そう、僕も近い将来どこかの会社に就職して社会人になるのだ。大学に入ったのも、ついこの間のような気がするのに。あっという間に時が流れていく。

 一応、就職先の業界に目星は付けているけれども……それが果たして正解なのか、本当に僕が飛び込みたい世界なのか、全く確信が持てない。


 早い人は中学高校くらいから就職先を見据えているという。

 大学の同期には、起業を目指して具体的なプランを推し進めている人もいる。

 ひるがえって僕は……一応の志望先はあっても、具体的な目標とか大きな夢とか、そういったものは持っていない。胸に抱いているのは不安ばかりだ。

 この先の長い人生を、きちんと歩んでいけるのか? 結婚は? 子供は? いずれ担うであろう両親の介護は……?


 子供の頃は、大人に近づけばもっと色々なことが出来るようになると思っていたけれど、実際はその逆だった。

 年々、先行きへの不安が増すばかりで全く希望が持てない。何かを為せる人になれる気がしない。

 父や祖父のようなエリートにはなれないし、叔父さんのような自由人にも……。


 ――グルグル回る頭の中で、僕が一人悶々とそんな悩みをめぐらしていた、その時だった。



「よぅ、オニイサ~ン!」


 頭上から突然、誰かの声がした。

 聞き覚えの無い声に視線を上げると……そこには見知らぬ二人組の若い男が立っていた。

 分かりやすいヒップホップスタイルの服装に、夜中だと言うのにサングラスをかけている。同じような恰好なので、双子のようにそっくりだ。

 正直、街中で見かけたらお近づきになりたくない人種だ。


「なになに~? 潰れちゃった~?」

「大変だね~? 水、買ってきてあげようか?」


 ――そんな優しい言葉をかけてくる二人組。でもその表情は言葉とは裏腹に……下卑た笑みを浮かべていた。

 僕がもし女の子だったら貞操の危機を感じる場面なんだろうけど……こいつらの目的は……。


「その代わりさ~、ちょっとしてよ。ほら、財布出して出して~」


 ――お金だ。酔いつぶれて抵抗できない相手から、お金を巻き上げようというのだ。

 片方の男が、僕の肩掛けカバンを掴み引っ張り取ろうとする。とっさにベルトに腕を絡めて奪われないようにするけれども、酔っていて力が入らない。


 ベルトは無情にも僕の腕からスルスルと抜けていく。

 周囲の通行人は「関わり合いになりたくない」と目を逸らして通り過ぎていく。

 二人組は僕の思わぬ抵抗に苛立ち始め、何やら口汚い言葉を投げ始める。

 カバンのベルトがすがりつく僕の腕から完全に抜け――


「――はい、そこまで!」


 ――きる前に、そんな声が響き二人組の動きが止まった。

 視線を上げると……そこには


 ……いや違う。背中にアゲハチョウの刺繍が入ったジャンパーを着た何者かが、僕と二人組の間に割って入っていたのだ。

 頭には目深に黒い野球帽を被っている……間違いなく、以前僕を助けてくれたあの人だった。


「ああん!?」

「なんだおめぇは!?」


 二人組がまるでシンクロするかのように、それぞれアゲハチョウの人の肩をガシッと掴んだ――その次の瞬間、


『え――?』


 二人組が揃って間抜けな声をあげる。もしかすると僕の声も重なっていたかも知れない。

 なにせ、アゲハチョウの人の両腕が動いたと思った次の瞬間には、二人組は揃って投げ飛ばされていたのだ。まるで漫画の中の、合気道の達人か何かの技を見ているようだった。


『ぶげっ!?』


 そのまま、受け身も取れずに二人組が頭から地面に落下する。……あれは痛そうだ。


「さっ、君! 騒ぎになる前に逃げるよ~!」

「え? あ――?」


 こちらの返事を待たず、アゲハチョウの人は軽々と僕を肩に抱えると、そのまま走り始めた。

 ……僕、六十キロ以上あるんだけど。細いのに凄い力持ちだ、この人!

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